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社会と福音

韓国での漢字教育の誤解・その後

先日、韓国では漢字教育が復活して
漢字が読めるようになっていると
誤まった情報をもたらした在日の方に
前回の新聞記事を知らせして
誤りを指摘させていただきました

でも、不思議な反応が返ってきました

彼らは

「どうせ、ネット情報だろう」

と言うので、韓国の新聞記事と告げると

「韓国は留学生が多いから漢字が読める」

留学生が多くても、全員が留学するわけでもなく
漢字を習得するためには
留学先は日本、台湾、中国でなければ無理

この3国に留学するのは何%の学生でしょうか?

そこを指摘すると、援軍?が来て

「韓国には家系図があって、そこに全部書かれている」
と意味不明なお答え

家系図が全部の家庭であるんでしょうか?

半島では併合前まで、かなりの数の奴婢(奴隷)が
代々、差別を受けていて
その方々は名前すら許されていませんでした

まぁ、それには目をつむっても
自分の名の3文字の漢字が読めない人が
ご先祖の名前は読めるっておかしいので
それを指摘しても、最後まで認めませんでした

最後には
「なんでそんな話を俺にしてくるんだ」
と、ご機嫌斜めになられました

「この前に、あなたが私に
『韓国人は漢字が読めるようになっている』と
私が読んだ本の内容を否定したので
驚きつつ帰宅後、調べなおしたら
漢字教育がうまくいっていないというのが分かったので
正しい情報を教えてあげようと思ったのよ」
と伝えておきました

彼らは願望による捏造話を
さも事実であるかのように主張し
誤りを指摘されても、誤まりは認めないという姿勢では
対話によって信頼関係を醸成するのは
不可能ではないかと感じました

残念ですね

彼らのグループは、
「仲良くしようよ!」というプラカードを片手に持ち
もう片方の手では中指を立てていたりするので
彼らの「仲良くする」というのは
日本での意味とは異なるのかもしれません



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社会と福音

得手勝手な護憲派

教会では、高位聖職者から社会活動委員まで
護憲派の方々が、声高に
「憲法改正反対!」
と叫び、集会をしています

そう!そんなに現憲法を
護りたい人たちなんだなぁ~と思いつつ
部落問題の委員会では確か、
天皇や神社と部落問題を結びつけて
差別問題の起源は天皇制にあるかのような
問題提起をなされていたと記憶しているのですが・・・

現憲法は、前述の皆さんがお好きな
前文、9条、20条だけでできているわけではなく
まず最初に1条があるのです



第一章 天皇

第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。




ここは見て見ぬふりですか?

かなりないがしろにしていると思いますが

9条の会などと一緒に活動しているお仲間には
反天連(反天皇制運動連絡会)の面々は
いらっしゃらないのでしょうか?

現憲法を愛する!誇りとする!死守する!
と仰るならば、天皇を愛し、
誇りとし、死守してください!

私は正直言って
大きな日の丸をたくさんの人が持って
行進するのは好きではありません
祝賀のときなどの日の丸行列は
日の丸の小旗が一番合ってると思います

私も結構考え方が古いので
大きな旗を皆が持っている様相は
どことなく、ナチスを熱烈に支持した人々を
連想してしまいます

大きな日章旗は、行列の先頭とか
家や建物に掲揚する方がふさわしいと思っています

これは私個人の感性ですが
こういう感性の方って結構いらっしゃるのでは?

日の丸は、愛し、誇りとするものなので
威圧感を感じさせるような使い方はしたくない
というのが、私の考え方です

とはいっても、私の周りの方々は
大きな日の丸がお好きですが
それはその人の感性なので干渉しません

大切にしたいと思う人の間でも
それだけの違いがあるということです

その人の価値観を否定したり、
押し付けることはしません



ついでに言えば
韓国人が火が点いたように抗議する旭日旗ですが
今も自衛艦に掲揚しています

実に威厳があって頼もしい印象を受けます

この旭日旗によく似ているので有名なのは
朝日新聞の社旗ですが
統一協会旗というのもあります

企業がデザインしたものが
一部、旭日旗と似ているというだけで
猛烈な抗議をする韓国国民ですが
朝日新聞社と統一協会に抗議をしたというのを
聞いたことがないのですが
実に不思議です

社会と福音

明治天皇百年祭・関西に参加して

昨日、大阪で行われた
「明治天皇百年祭 関西」の式典のお手伝いに行ってきました。

友人が「明治の日」推進協議会の実行委員をしていて
東京から駆けつけるとのことで
私も両親の昼食を早めに済ませ
夕食とおやつを作って、姉に託して駆けつけました。

皆さんは午前11時から用意をされていて
私は開場の時間ぎりぎりに
ようやく着いたのですが
友人から受付か記帳台を手伝うように言われ、
世話人をなさっているMさんは受付に
Nさんは記帳台担当でしたので
私も記帳台をお手伝い致しました。

大切な式典ですので、失礼のないように
記帳のご案内から始まり、受付へのご説明、
そして、常に記帳台を散らかることなく整え、
要領よく記帳してていただくために
細心の注意を払いました。

開会となり、黙祷、国歌斉唱、主催者挨拶と続き、
来賓紹介で西村眞悟先生が挨拶が始まる頃
受付の規模を縮小して何人かの担当者だけを残して、
会場内に入れるようになり、
私は皆さんのご配慮により
場内でお話を伺うことができました。

西村眞悟先生はテレビでも拝見するように
切れ味の鋭いお話でした。

次いで、明治天皇御製奉唱では
別に案内があったわけでもないのに会場内の全員が起立し
桃山御陵参拝団副団長が詠唱した後
全員で繰り返し詠唱しました。

明治天皇御製

【誓願完成の御製】
末つひにならざらめやは国のため
民のためにとわがおもふこと


(いつか必ず成し遂げられるであろう、
国や民衆のために私が思っていることが。)

【絶対平和の御製】
よもの海みなはらからと思ふ世に
など波風のたちさわぐらむ


(世界は一つであるべきだ。
四海の人々はみな兄弟であると思うのに、
なぜこうも波風が立って争いがたえないであろうか。)

【大和魂の御製】
敷島の大和心のををしさは
事あるときぞあらはれにける


(日本人の大和魂の雄々しさは、
一大事が発生した時にこそ発揮される。)



その後、竹田恒泰先生の記念講演がありました。

竹田先生は、旧皇族の竹田宮の流れを汲み、
明治天皇の玄孫で、
第六皇女・昌子内親王の曾孫にあたられます。
第六皇女と言っても、上の方々が夭折されたため
長女のような形になられて
厳しい躾のもとでお育ちになられたそうです。

明治天皇の御心には「私」はなく、
すべては「民衆のため」という御心で、
暑い、寒いなどというような私的なことを
もらされるようなことはなく
常に質素なご生活だったそうで
脚気になられた時にも、
民はどのような治療を受けているかを尋ねられ、
民衆も同じように治療を受けられるようにとの御意で
そのために、日本での脚気の研究が一気に進んだとか。

日露戦争開戦が閣議で採択されても
明治天皇はまだ戦争を回避することはできないかと問われ、
再度、協議しても開戦やむなしということで
開戦を承諾されたそうです。

旅順で大きな被害を出しながら打ち破った後
乃木将軍とロシア軍総司令官ステッセル将軍と会見の際、
相手の将軍の尊厳を慮って、帯剣を許し、
敗戦の責任からロシア皇帝から銃殺刑を言い渡された
ステッセル将軍の助命をし、
シベリア流刑になったステッセル将軍の家族が
生活に困らないように
乃木将軍はずっと送金を続けたそうです。

これこそ、大和魂です。

これに比べて、アメリカ等連合国は
日本の敗戦後、B級C級戦犯として多くの人を処刑しました。

この精神性の違い・・・これは日本の誇りです。

その他、私たちは明治という時代は富国強兵で
軍事費ばかりが強調されますが
日清戦争の前、軍備費用増額が帝国議会で承認されず
しかしながら、日清戦争は避けられないとして
明治天皇は宮廷費を大幅に削って
軍艦を造る費用にあてられたそうです。

しかし、その際にも手をつけなかった費用があり
それは、宮中祭祀の費用、歴代天皇の祭祀費用
皇太后の生活費だそうです。

宮中祭祀は国のため、国民のための祭祀であり
これには手をつけられなかったというのを聞きながら
アシジの聖フランシスコが清貧の生活の中でも
ミサ聖祭には相応しい荘厳さを求めたというのと
相通ずるものがあると思いました。

そして、先祖の祭祀、親への孝行など
実に教育勅語に書かれている内容を
身をもって示されたと思います。

日清戦争では広島に大本営を置きましたが
明治天皇も広島に滞在されるにあたり、
殺風景な大本営で
陛下の部屋だけでも絵を飾ろうとした臣下に
「戦地の兵士の部屋に絵はあるか?」と
仰って、断られ、
同様に、真冬でも
ストーブもお使いにならなかったそうです。

この日、お話を伺い、心に残ったのは
無私で民衆と共にある天皇の御姿でした。

今まで、明治天皇というと
明治維新から富国強兵で、
日清戦争、日露戦争へとつながったような
漠然としたイメージでしたが
昨日の講演で、明治天皇の御姿を
生き生きと感じることができました。


この後、帰路につかれる参加者に
署名のご案内をすべく中座しましたが、
会場では、決議文採択や閉会挨拶、聖寿万歳と続いて
閉会したようです。

竹田先生は、原発廃止論者として有名ですが
集まった政治家の方々には、
推進論者が多くいらっしゃったと思いますが
明治の日実現のために心を一つにしていたのが
印象的でした。

6月7日に参議院議員会館で行われた
「第二回名医の日を実現しよう!院内集会」には
カトリック信者の政治家である
山谷えり子先生(参院)、稲田朋美先生(衆院)も
参加されたそうです。

11月3日は明治天皇のご生誕の日です。
「文化の日」などとよく分からない名称ではなく
「明治の日」として祝いたいものです。

そして、一人でも多くの国民が
明治天皇の御姿に触れ
誇りある日本の心、大和魂を
受け継いでいただきたいと思いました。

社会と福音

『裁き』について・・・四旬節の考察

そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」〕(ヨハネ8・3-11)

この聖書の箇所をある方が引用されてから
私のもとに、複数の問い合わせがありました。

その問い合わせを要約すれば
「カトリックは罪を犯した人間を
裁くな!野放しにしろ!という教えなのか?」
というものだったと思います。


これは躓きを与えることになりかねず
福音の意に反することにもなりますので
私の受け止め方をお話したいと思います。


まず、『裁く』ということには
3つの『裁き』が考えられます。

私たちはこの社会に生きているのですから
社会的な法律による『裁き』

イエズスを陥れるために、
納税について質問した人々に対して
お金を提示させ、その銀貨の皇帝の肖像を指摘し
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
と仰られました。

この世のもの(罪)は、
この世のもの(罰)で報いを受け、
神へのもの(罪)は神に・・・

これは、司法が処罰を決めるので
それについて、とやかく言うべきではないと思います。



次に、罪を犯した人への私たちの思いや態度

これを『裁き』と捉えることもできると思います。


3つ目は、神の『裁き』

以前に、私は自分の姿勢として
死者についてとやかく言うのは好まないと
書いたことがあります。

この世から神の領分に移った人を裁くのは
神への越権行為であり、
畏れ多いことだと思うからです。

神は全てを知っておられ、
行いだけではなく、心の中まで知っておられて
その上で裁かれるのです。




さて、今回は、私たちの態度について
取り上げてみたいと思います。

あの聖書の箇所で、
姦通の女はどのような態度だったのでしょうか?

引きたてられてきて、自分の罪を知っていて
殺されても仕方がないと
恐れおののいていたのは
簡単に想像できます。

ゆえに、イエズスは
「わたしもあなたを罪に定めない。
行きなさい。
これからは、もう罪を犯してはならない。」
と仰ったのです。

ここで重要なのは、『改心』だと思います。
キリスト教では『回心』といい
心を神の方に向け、立ち返ることを言います。

もし、この姦通の女が悪態をつき
「このくらいのことで・・・」とか
「よくも私を引きたてたな!」
などと悪態をついていたら、
このようなイエズスの言葉はあったでしょうか?

自分の罪を認めることが大切です。

まず、自分の罪を認め、
本当に罪深い人間だと自覚するならば
それは、態度や行いにあらわれるものだと思います。

そしてその人は悔い改め、
自分の犯した罪を償おうとするものです。



聖書の表面的な言葉だけを読むのではなく
心で読むならば
そのメッセージである
「自分の罪を認める」
「悔い改め」に
行きつくのではないかと思います。

深く悔いている人に対して
責め立てるようなことはしてはならないのです。

罪について言うならば
軽犯罪であるかどうかや
金額の問題ではないのです。



さて、キリスト教では、
今、『四旬節』と言って
復活祭の前の回心の季節を過ごしています。

四旬節には教皇様がメッセージをおくり
留意し黙想する指針を与えてくださいます。

「四旬節メッセージ」
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/lent/12lent.htm

「互いに愛と善行に励むように心がけましょう」
(ヘブライ10・24)
という聖句をテーマになさっておられます。

「互いに思いやりをもちましょう」と呼びかけられ
兄弟姉妹に対する責任に言及されています。

私たちの「『プライバシー』を尊重するという仮面に覆われ、
利己主義から生じる冷淡で無関心な態度」
を指摘され
思いやりを持つようにと諭され、

「他者に思いやりをもつことは、
身体的、道徳的、霊的といったあらゆる観点で、
他者によいことを望むことを意味します。」

と説かれています。


このメッセージが公表された際
教皇庁開発促進評議会議長のサラ枢機卿は
「兄弟間での忠告」に注目し、
教会には世界の不正義や貧困の状況を
非難する預言者的使命があることを強調されて、
こうした不正義に打ち勝つためには、
その状況の根底にある道徳的問題に
取り組まなくてはならないと説かれました。

特に富の許しがたいほどの不均衡により
最貧層はもっと貧しくなっていることを指摘されているのですが

「この兄弟間での忠告」「思いやり」であるのです。

真の「思いやり」は
何も耳触りのいい言葉で慰めあい、
美辞麗句を連ねることではなく、
隣人が悪から立ち返るために
尽力することであると言えます。



カトリックには沈黙を
美徳のように扱うことがありました。

それによって、多くのいたいけない子供たちが
背徳司祭たちの犠牲となり
多くの子供たちの心と体を傷つけ、
その傷を深め、広めていきました。

被害者の訴えに対して、裁治権者である司教が
相応の処置をしなかったのです。

これに関連して
教理省のシクルナ神父は
「沈黙の文化自体が誤りであり不正義」
と指摘しています。

不正義を前にして沈黙することは
美徳ではなく、神への背信行為であるのです。


私たちカトリック信者は
四旬節メッセージを
自分への呼びかけとして受け止め
思い、言葉、行いに
反映していかなくてはならないと思います。

社会と福音

教会が反原発?

前回、書きましたが
教会が心休まる場とはいえない

それについて、原発を取り上げてみたいと思います

創世記のトップに書かれています
神様の創られたものはすべて善いものだった

地下の資源ウラトニウムも善いものです
そして人間にそれを託された

ですから、レントゲンなど有効利用されてます

その延長線上に原子力発電があるわけです


ところが、今、反原発での運動では
ある意図をもって動いているのです

それは反核という原子力全否定であり
核兵器を意識したものです

プルトニウムを使用することから
核兵器開発に結び付くと
アレルギー反応を起こしているのです


今回、大震災が起こり
企業そして国の指導の怠慢により
人災ともいえる原発事故を引き起こしました

これは神から託された管理を
なおざりにしたからであり
管理能力の問題で
その点から、是正を訴えるべきと思います

そして、それをクリアできないならば
原発からの撤退をやむを得ないと思います


この原発問題で放射能汚染を心配して
かなり神経質になった方もいれば
低レベルの放射能は健康被害よりも
健康によいとの意見も出る中
右往左往しました

信者もそうです
幼い子供のある家庭ほど神経質になりました
神様から託された子供を守るのは尊いことです

そんな動揺する信徒に対して教会は?

反核・原発全面廃止の署名運動ですか?

それっておかしくないですか?

こういう時にこそ、自分たちの非力さを自覚し
賢明な判断ができるように祈り
心の平安を与えるべきです

教会で原発事故の恐怖話を聞きたいですか?

NO!

カトリック新聞で原発の記事を読みたいですか?

NO!

そんなのはテレビをつければ
嫌というほど繰り返し報道され
新聞・週刊誌を見れば
嫌というほど書かれているのです
それも専門的に・・・

現在、日本で行われている反核運動は
共産主義者による核兵器廃絶運動であり
純粋に環境保護によるものではありません

しかし、教会指導者が信徒に署名を勧めるものは
上記の運動によるものなのです

目的が一緒ならば・・・と思う方も
いらっしゃるかもしれません

でも、違うのですよ

日本という国を壊したいと願う人達の運動に組することは
悪魔に魂を売るようなものです

「隔ての壁を壊して」と言いつつ
「国境もいらない」というような説教を聞いてきました
彼らにとって「へだての壁」とは国境なんですかね

私は原発推進派か反原発派かと尋ねられれば
現在の枠組みならば、どちらも支持しないと答えます

エネルギーはいろんな種類で補い合っていくべきもので
原発に固執することはないと思うからです

神様は多くのものを人間に与えてくださっている
そう思うからです

いざという時に制御できかねて、
害を放出するものならば
他のエネルギーに順次に切り替えていくべきもので
すぐに停止!再稼働絶対反対!
というのは支持しません

あれだけ上層部の方々が待ち望んだ政権交代
そしてその政権が再稼働を要請している

この現実はどうなっているんでしょう

責任ある立場に立つと
そう簡単には今まで通りの「叫んでいればよい」
というようなことはできないのです

皮肉にも、反原発のデモ行進
お祭り騒ぎの真剣味のないデモには
労組が動員をかけて大変な規模で行われます

でも、エネルギー供給が不安定になると
操業調整、工場海外移転になって
雇用は不安定になるのに
少し、自分の頭で考えて行動すればいいのに
なんて思ってしまいます

雇用を守るには、安定したエネルギー政策が不可欠
こんなのは常識なのに感情的な対応・・・

あんなに待ち望んだ?首相は
保身にのみ躍起で
被災者・被災地は捨て置いて
「脱原発!」と声高らかに叫んでます

私たち、キリスト者はこんな時こそ
苦しむ小さな声を大切にして
エネルギーをネタに権力の座にしがみつくな!
小さな一人ひとりの命を大切にしろ!
と叫ぶべきではないのでしょうか

それこそが、
苦しむ人と共に歩む教会なのでは?


今回の原発の一番の被害者である
福島原発周辺の方々を
なおざりにしての反原発運動
こんなのは無意味です

こういうものに教会は加担すべきではありません


私の知り合いにも放射能汚染で動揺した人が
(信者以外にも)何人もいました
それは誤解だったり、誤った情報によるものだったり

その友人に対して
私はまず、その怯えを受け入れて
思いを共有しながら、
その中から少しずつ情報の誤りから
解き放たれるように対話してきました

原発アレルギーにするのが
教会の役目ではないですよね

でも、残念ながらカトリック新聞には
そのような配慮はありませんでした

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maggie tonton

Author:maggie tonton
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