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聖座

ベネディクト16世のお言葉?

    聖職者の役務は、代替できません

 バチカン市国、2009年9月17日
 
今朝、カステルガンドルフォにおいて、教皇はブラジル(北東2)の司教協議会の司教団の司教を迎えました。そして、ちょうど彼らのアド・リミナ訪問を終えました。

教会のさまざまなメンバーの役割に焦点を当て、教皇は、どのように「司祭の祭司職と 信徒の祭司職の本質的な相違の見地から、聖職者と信徒の特定のアイデンティティを 見なければならないか」を説明しました。

「したがって、聖職者の世俗化と信徒の聖職者化を避けるのは、重要です。この大局的見地において、信徒たちは、実生活で、政治的な関与を通して、人類学のキリスト教的見方と教会の社会的教説を表明しなければなりません。すべての信者の一致と霊的交わりを与えるために聖職者は政治から自分たちを遠ざけねばならず、その結果、まさに、すべて委託の状態になります。」

「聖職者の不足は、信徒の、より活発で多くの参加を正当化しません。実際に、教会の中の彼ら自身の責任において信仰のより確かな確実性、全共同体の牧者としての特別な聖職者のアイデンティティと独特の役割の明確さを示し、キリストの頭の名における救いの神秘を実施します。聖職者の役務は、み言葉を告げ、秘跡、特に聖体を祝うのにおいて不可欠であって、置き換えられません。」
 
「このために、収穫のために働き手を送るように主に願うのは、重要です。そして、聖職者自らが司祭であることに対して信者たちに喜びを表すことが必要です。」

「聖職者の不足は、常態的または将来の典型的な事態と考えてはなりません。」と強調し、このために「新しい司祭職を促進するため、またあなたの司教区が必要とする牧者を見つけるため、あなた方には使徒的宣教と信仰生活を支えるために多数の聖職者によりよい訓練をし、お互いを助け合い、努力を結集するように」と高位聖職者を励ましました。

それから「アルスの司祭」(それを教会は司祭年で現在祝っています)の帰天から150回目の記念日にふれて、聖ヨハネ・マリー・ビアンネが「聖職者の存在と活動の中心を統一と同じく、第2バチカン公会議の提起した牧者的な奉仕を通して表現され、自己のすべてを捧げるための要件として特に独身の生活を送ることにおいて今でもモデルであり続ける。」と、ベネディクト16世は、示しました。

教皇は、「特に教会の将来のための希望の多くのサイン、奉献を通して神が準備している、将来、あなたの司教職を行使するであろう信者たち」の存在を高位聖職者に確信させて、結びました。



この教皇様のお言葉をPasさんから紹介されて
語学力乏しい私がまたもや、悪戦苦闘しながら挑戦してみた(汗)

司祭の不足・・・
日本でも深刻だけど、まず、ミサ聖祭の尊さを信者が感じなければ
何も始まらない

横のつながりばかりを強調して、
聖体さえも同じ高さに持ってきてしまっては
あって当然?って感じになり、有り難さも薄れていく

その尊さを知っている世代が、そのようなミサに与っても
酷くは乱れないかもしれないが
要理教育も、荘厳なムードの中でのミサの経験もない次世代は
尊さも何も、感覚的にないから、崩れ放題となる

だから、ミサを捧げられる司祭の権能の重要度も落ちる

そこに持ってきて、
私たちが接する司祭のミサへの姿勢が大きく影響する

聖職者自らが司祭であることに対して
  信者たちに喜びを表すことが必要です


私のところでは司祭不在住になり、平日朝ミサはない

何年か前にあった頃、
うちの司祭は、お目覚めが悪いらしく
司祭館のインターホンを鳴らさないと起きられない

早めに鳴らしても、いつも遅刻

寝起きが悪いらしく、ミサが始まっても ご機嫌斜めで
祈りは、早口言葉のような上に口先でぼそぼそ
何だかとても 投げやり・・・

時々、溜息まで・・・(涙)

『朝早くから、わざわざミサをしてやってるんだぞ!』
と言わんばかり

私が日曜学校担当だった頃、子供たちに
「口先だけで、『唱えればいいんだろ!』と
言わんばかりに唱えるのはやめなさい。
祈る時には一言ひとこと祈りの言葉を大切に、
心をこめて祈りましょうね」
と言ってきたのだが、そのまんまプレゼントしたいような感じ

私も、なかなか平日朝ミサには行けず、
祭日や、特別な聖人の祝日には 
無理をしてでも、気合いを入れて行くのだが
ほぼ毎回、こんな感じで、お祝い日が台無しとなる

『こんな司祭の手を通してでも、
イエズス様はご自身を私たちに与えてくださるのだなぁ』
と主の愛には感謝はするが・・・

こういう経験があるので、
司祭がミサを捧げることが如何に素晴らしい恵みであるかは
まず、司祭が大回心していただかないと・・・と思ってしまう

ミサ聖祭を捧げることを大切にしている方のミサは
与る者には、特に大きな喜びをもたらしてくれる

そして、そのような中から、司祭を志す子供も育つと思う
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聖座

諸宗教との対話 ?

碑文谷教会での2年前の
諸宗教合同世界平和の祈りの写真は、ショッキング
http://gokyo.ganriki.net/index.html   (09.09.18)

諸宗教対話は、まず各々の宗教の大切としているものを
しっかりと相手に伝えることが肝心だと思う
今の聖職者はそれをちゃんとしていない
大切と感じていないのかな???

聖櫃のある空間、秘跡が行われる聖なる祭壇
ここには、信者なら特別の思い入れがあって当然なのに
諸宗教対話のマイナス・イメージは、
聖なるものを軽視する けじめのない聖職者の責任と思う
なんでも譲ればいいってもんじゃない

相手が大切にしているものを侵害しないこと
それは諸宗教対話の基本中の基本

互いに、侵されたくないものを尊重し合ってこそ
信頼関係が築ける

しかし、大阪教区の私がいうのもなんですが
さいたま教区は酷い!

毎年、川越教会で諸宗教合同世界平和の祈りの集会が
行われている
それも、聖域の十字架像の奥に旗を張り付けるなんて
良心も感性もマヒしているとしか言いようがない
あんな旗を貼って、まるで政治集会をしているようだ
まぁ、教区長が教区長だから・・・
http://www.user.kcv-net.ne.jp/~kawagoecatholic/
http://www.user.kcv-net.ne.jp/~kawagoecatholic/topic/08_09.html#

これと同じように
お寺のご本尊の仏像のところに旗を貼りつけるだろうか?
神棚のところに貼り付けるだろうか?

きっと毎年、
『何も知らない神父たちが節操なく すり寄っている』と
うまく利用されているんでしょうね

私は世界平和のために
共に聖堂で祈ることは反対はしないけども
それは、朗読台で祈りの先導をするくらいまでで
聖域には入ってほしくない

そして、聖堂内で祈るなら、共通の祈り方で
御経や祝詞(のりと)はあげてほしくない

例えば、次に紹介するような集いは
諸宗教対話の本来の形かと思う
http://www.yukuhasi.catholic.ne.jp/kyouku/0902.pdf

 禅寺でのクリスマス
南島原市口之津の玉峰寺(曹洞宗)で
12月17日、クリスマスの祝いが行われた。
中村知見住職の主催で、真命山諸宗教対話センタ―の
メンバーは今年も招かれて参加した。
今年のテーマは、
「釈迦の言葉とキリストの言葉―座禅と祈りのコンサート?―」。
まず集まって来た檀家の方とお客はしばらく座禅を組んで、
その後コンサートの第一部が演奏された。
続いて、釈迦の言葉を東京の奈良康明老師
(駒沢大学名誉教授・元学長)が唱え、キリストの言葉は、
真命山の院長のフランコ神父が唱えた。
一つひとつの朗読の後に音楽が演奏され、
静かな雰囲気の中で瞑想が出来た。
聖書の朗読は、イザヤ(キリストの誕生の予言)、
ヨハネの福音(受肉の神秘の宣言)、
聖パウロのテトスへの手紙(キリストとともに生まれる
キリスト者の新しい生活)が読まれた。
250人以上の参加者は沈黙の中で釈迦の言葉と
キリストの言葉を素晴らしい音楽のコメントと
共に味わった。


現地の寺院は長崎教区内で、
真命山は熊本で福岡教区だけど・・・
長崎教区では、未だに信者の間には
感情的なしこりが残っているのか・・・
寺社信者側は、目に見えない差別感情を秘めているし
カトリック信者は虐げられてきた敵対心を忍ばせている
このような感情は、日常では表には出さないけども・・・

そういうところでこそ、このような互いの宗教を知り
尊重するのが必要だ

次にこういうのが、アリンゼ枢機卿様の仰ったような
福音宣教の一つかと思う<

 真命山のクリスマス
今年も真命山のクリスマスは蜻浦の子どもたちと
いっしょに祝われた。
それは、もう22年もつづいている。
ことの初めは、蜻浦の小学校6年生の子どもたちが
この山に登ってきて 
「わたしたちのためにもクリスマス会をするの?」
と尋ねたことがきっかけだった。
真命山のスタッフたちは、考えてもいなかったが、
「もちろん、しますよ!」と答えてしまった。
そして、あわててクリスマスの準備をしたのが
1987年のクリスマス会だった。
そのときからずっと、蜻浦の子ども会といっしょに
真命山でのクリスマス会は続いている。
今年は12月23日(火)、みんなで歌の練習から始め、
カレーライスを食べたあと、ローソクをともし、
行列しながら暗くなった坂道を本堂へ向かって行く。
そこに馬小屋がいつものようにしつらえてある。
マリアさまとヨセフさまの間には、
馬ぶねに寝ている幼子イエズスさまが置かれ、
馬小屋のまわりには羊飼いや牛も馬も、
そして少し離れたところに
3人の博士の人形が置いてある。
その意味を話したあと、
みんなでクリスマスの聖歌を歌う。
おしまいにルカによる福音書のクリスマスの場面が
読まれる。
朗読者の両脇で2人の女の子が聖書をささえ、
また2人の男の子がローソクを手に持って立ち
聖書を照らしている。
最後に聖歌を歌い、本堂を出て食堂へ向かう。
そしてクリスマス・ケーキをみんなでおいしくいただき、
それにつづいていっしょに歌とゲームを楽しむ。
夜が深まる頃、子どもたちを
蜻浦のお地蔵さんの所まで車で送り届けると、
そこにはお母さんたちが子どもたちを待っている。
「どの子もクリスチャンではありませんが、
きっと、みんなの心に、いつまでもこの温かい
神の家のぬくもりが良い思い出として残ることでしょう。
小さな良い種まきでした。」と、
真命山のフランコ神父は語っている。


み言葉を楽しい思い出と共に贈り、
商業主義ではない本当のクリスマスの意味を知ってもらう

ところで、日本でも世界でも
宗教と文化は切り離せないと思う

茶道、華道などをとっても仏教と強く結び付いている
だから、文化をカトリックに持ち込むにも限度があると思う

私が祭壇のお花当番をしていた頃は
生花で一対に活けたものだった
欧風フラワー・アレンジとは異なった趣がある

生花には陰陽があり、流れがある
高さ80センチ程に一対に活けるのはなかなか難しかったが
中央の聖櫃の両端に置いた生花が
主を賛美し、仰ぎ見ているようだった

ミサ中、カリスをプリフィカトリウムで拭き取る時の所作は
茶道の心得のある方とない方とでは
所作の美しさが異なる

かといって、正座をして
茶道のお点前のようにミサをたてられても
戸惑いや違和感しか感じない

音楽だってそうだ
雅楽の調べでは、神社に来たのかと戸惑ってしまう
現在、諸宗教交流やインカルチュレーションを
カトリックの伝統を壊すためにあるかのような運用を
されていることが、実に残念至極と思う

聖座

「自由と自覚」から見えたもの ?



【82.労働の福音】(抜粋)
ナザレトのイエズスの生活は、まさしく『労働の福音』です。・・・
今期待されているのは、働くことの尊さを完全に認めることを特徴とする文化でしょう。働くことが尊く実り豊かなものであることは、創造と救いの奥義に照らせば明らかです。働くことが人間の一つの姿だと認めてこそ、それは創造としての意味を持ち、努力の源泉となるのです。
   
【96.文化と福音の出会い】(全文)
「信仰は、どんな人間共同体にも認められる判断基準、最終的な価値、考えの方向、生き方などに影響を与えます。それゆえにこそ、現代の苦悩を思いやる教会は、労働の人間的な面が完全に認められ、みなが十分に自己実現の機会を与えられる文化を提唱するのです。教会がこのような提言をするのは、各国、各国民の独自性を尊重しながら、世界的な全面的な救いのために働くという宣教的な使命が教会にあるからです。一つの教会が全世界至る所に存在することで、教会は多様性と単一性を統一する交わりの役割をし、いろいろな文化の中に見出される建設的な要素を受け入れています。しかし、文化と福音の出会いは単なる表面的な適応ではありません。むしろそれは、真の文化的な価値の内奥からの変革であり、それらの価値をキリスト教の中に統合し、異なった文化にキリスト教を根づかせることによって行われます。福音と文化とを分離させることは、既述の悲しむべき諸問題に見られるように一つの悲劇です。したがって、諸文化を福音化するための惜しみない努力が必要です。これらの文化は、福音に出会うことによって、新しいいのちを与えられるでしょう。もちろん、この出会いは、福音が間違いなくのべ伝えられることを前提としています。教会は、第2バチカン公会議に啓発されて、解放への限りない努力を喚起するために、文化に福音をもたらす責務に全力をつくしたいと願っています。」


解放の神学派の聖職者によって、典礼は破壊されてきた
その手段として、
いつも「インカルチュレーション」が説かれた

では、日本で行われてきた典礼改革は、
その精神に合致したものだったのだろうか
「文化と福音の出会いは
 単なる表面的な適応ではありません」
そう、日本での適応は、実に表面的だった

跪く習慣は日本にはないと言うが、
日本では尊いものに対して身を低くしたではないか

日本では聖所である神社仏閣の中で行う
宗教儀式ほど荘厳なものはない
しかし、カトリックのミサは「聖」を薄れさせ 
和気あいあいムード?

イエズスの十字架による贖いの死を楽しく迎えられる?
苦難を心に刻むから、
その後に続く復活、聖霊降臨、聖体は
大きな喜びとなるのであって
苦難の受け止め方と、喜びとは比例しているのでは?

典礼改革に携わる方々は、
境内などで行われている祭事と混同しているのでは?

それとも、ミサを形骸化させることが狙いですか???

「文化」という時、日本においては
精神性とは切り離せないものだった
そして、その精神性を形で表してきた

日本で、柔道、剣道は 礼で始り、礼で終わる

少々愚痴っぽくなるが、インカルチュレーションを説きながら
昨今、礼儀をわきまえぬ聖職者が増えてきた

祭服の下にはアミクツスをして平服の襟元を覆うものであるが
いきなり祭服を着用という姿もちらほら・・・

学生時代、服装の乱れは
すべての乱れに通ずると厳しく説かれたが
中高生に注意するがごとく、聖職者に注意は・・・

≪ む す び ≫
【97.「マグニフィカト」の賛歌】(全文)
「『信じたかたは本当にお幸せなことです』(ルカ1・45)。神の母マリアは、エリザベトのこのあいさつに対して、心の喜びを賛歌『マグニフィカト』に込めて答えました。神の民は、マリアのような信仰によって、マリアのような信仰のうちに、個人と社会に解放をもたらす神秘的な救いの計画を言葉で表し、生活で示すのです。マリアの賛歌はこのことを私たちに教えています。実に、信仰の光のもとでこそ、救いの歴史とは、悪からの最も根源的な解放の歴史であり、人類を神の子らの真の自由へと導く歴史であることを理解するに至るのです。マリアは、信仰に促されて、すべてその子イエズスに依存し、イエズスを目指して生きました。そして、今イエズスの傍らに座すマリアは、人類と全宇宙との自由解放の最も完全な姿を示しています。教会が自己の使命の意味を完全に理解するために仰ぎ見るべきは『母』であり『模範』であるマリアです。貧しい人々が、その信仰心から、あがないの十字架の神秘を直感し、数多くの聖所で崇敬されている神の子の母に揺るぎない愛と信頼を寄せるのは、まさに驚くべきことです。」

【98.神の民の「信仰心」】(抜粋)
「『マグニフィカト』の乙女のうちに次第に実現していったあの救いの計画を深く黙想することを通じ、貧しい人々の信仰を浮き彫りにし、それを生活に生かすように助けることは、教会の大切な役割で、神学者たちに期待されていることです。このように、教会が記憶にとどめている『マグニフィカト』を忠実に反映する自由と解放の神学ならば、それは現代が求めているものです。しかし、民衆の信仰心の持つ力を取り上げ、単なる地上的な解放計画へと誤誘導するとしたら、それは罪悪になってしまいますし、それが幻想にすぎず、新しいかたちの隷属の原因となることは目に見えています。こんなふうに、世間の主義主張やいわゆる暴力必要論に屈する人々は、もはや、マリアがうたった慈しみの神への賛歌の中で強調されているような希望、その希望の持つ大胆さや勇気に対して信頼を置かないことになります。」


解放の神学派司祭、正平協司祭が、いつもマリア様を
ただの人間呼ばわりする理由が
ここにあるのではないだろうか?
聖母信心をカトリック内でありながら、
マリア教、聖母崇拝といって糾弾し、
信心業を妨害し、集う信者を排斥した

童貞聖マリアを貶めるのに余念がなかった
司祭を二人知っている
それは前述の釜が崎の有名人、フランシスコ会本田哲郎神父と
イエズス会スペイン人司祭ホアン・マシア神父
そして、最後に笑ってしまったのが、
この教書を翻訳した人である
翻訳の仕事を依頼され、いくら恣意的に翻訳しても 
覆い隠せなかったほどに、
現教皇ベネディクト16世の教理聖省長官時代の言葉は明確だ

この翻訳依頼をされた方は、聖なる仕事によって
回心の実りを期待されたのであろうか・・・

しかし、悪魔の誘惑は強く
福音書の伝統的解釈から外れた説教、
童貞聖マリアへの冒とくは繰り返されている

聖座

「自由の自覚」から見えたもの ?

≪教会の社会教説 ― 解放を目指すキリスト者の実践 ― ≫

【75.社会構造に対する人格の優位】(抜粋)
「教会は、社会が直面する問題が複雑であり、適切な解決を見出すのが困難であることを当然知っています。にもかかわらず、本当に人間のためになる経済、社会の変革を達成しなければならないとすれば、まず、個人の精神的、道徳的な力に訴え、内的回心を繰り返す必要を説くことから始めるべきだと考えます。・・・
他方、個人の自由と回心を優先しても、決して不正な社会構造の変革の必要性がなくなるわけではありません。したがって、富者や政治権力者の責任で抑圧されている人々が、道徳的に妥当な手段を使って、自分たちの権利が真に認められるような社会構造や制度を守るために行動を取ったとしても、それは完全に正当なことです。・・・
さらに、解放の過程において、その国の歴史的状況を抜きにして考えたり、また、その国民が持つ文化の独自性を攻撃したりできません。したがって、ある人たちが、力や世論の操作によって国家機構を管理し、その国民が持つ文化にそぐわない借りものの思想を不正に押しつけるならば、そのような人たちを消極的にでも支持できませんし、積極的に支持できるわけがありません。この点に関して、知識人には倫理的、政治的に重い責任があることを付言しなければなりません
。」

まず、教会(聖職者)がすべきことは、すべての判断が、
福音に照らし合わせてできるように
信者の心を福音で満たすこと

信者に変化を求める時、
ショック療法のような荒立った言葉ではなく
キリストの愛に触れて、満たされて、
イエズスのように変容されるのでは?

「ある人たちが、力や世論の操作によって国家機構を管理し、
その国民が持つ文化にそぐわない借りものの思想を
不正に押しつけるならば」

これを、読んだ時、ある活動がすぐに頭に浮かんだ
現在、カトリックがキリスト教諸団体とともに行っている
「部落解放」の活動

これがキリストにつながれたものなら、
地上的な自由だけではな
救いと希望をもたらすもののはず

しかし、現実は解放「闘争」に終始し、
恐怖と憎しみに満ち満ちている

そして、日本古来の神社神道と結びつけ、
天皇制廃止を声高に叫ぶ

これは、日本に布教されて間もない頃の誤り、
神社仏閣の焼き討ちを彷彿とさせる

私たちの使命は、その人々に福音を伝えることにあるので
神社仏閣に集う方々に 
少しでもキリストの風を注ぐことではないだろうか

そのために、諸宗教の対話があるのでは・・・

【77.正義のための闘い】(全文)
「教会は、労働者の権利と正当な利益を守るため、あるいは社会正義のために闘う組合のような団体の設立と活動を推奨しますが、それだからと言って、社会生活の構造的な変革を階級闘争に求めるような理論を認めているわけではありません。教会が認めているのはある階級が他の階級を敵として抹殺するために闘争することではありません。教会は、いわゆる歴史の法則と称するものを誤認して、そこから論を始めるようなことはしません。教会が勧めるのは、むしろ正義と社会的連帯とのための気高く理路整然とした闘いです。キリスト者なら常に対話と協調という路線を選ぶでしょう。キリストは私たちに敵を愛するようお命じになりました。したがって、福音の精神に基づく解放は、敵に対する憎しみを含めて、個人であれ集団であれ他者を憎むことと相容れません。」


日本において、欧州的な階級はあるのだろうか?
現在、貧富の差が開いてきたが、
それは階級闘争になりうるものではないのでは?

私たちの教会に目をやると、経済的に貧しい信徒は、
富める者に尊敬を
富める者は、他の人々に惜しみなく愛を
しかし、その中で富める者を
冷やかな視線で見る人たちが・・・

彼らの頭には、富める者は悪辣なことをして
蓄財との固定観念があるようだ
しかし、自分の才能と環境を大切に、ひたむきに働き、
贅沢をせずに今の財を築いてきた人が教会には多い
勤勉、誠実、清貧の実りとしての富もある

要はそれをどのように使うかだと思う
富を増やすことに執着するのか 
それを使って神の国の実現に奉仕するか

教会は憎み合うことを教える場ではない
互いに尊重し合い、キリストの愛で結ばれる場

【78.革命の神話】(全文)
「不正が深刻な状況のもとでは、抜本的な改革を行い、不正な特権を廃止する勇気が必要とされます。しかし、改革ではなく革命という神話を好む人々は、より人間らしい社会をつくるのには悪い状況を取り去ればよいのだという幻想を増大させるだけでなく、全体主義政権の樹立を助けてしまいます。正義の要請にかなう新しい政治社会体制の確立を目指すのでなければ、不正に対する闘いは無意味です。すでにこの新しい体制の確立の各段階に正義が現れなければなりません。手段にも道徳性が問われます。」


中米で、革命聖職者が、政治家と化した
どうして、委ねられる人を養成しなかったのか
そして高位聖職者が、一時聖職を解かれて、
国の指導者の地位に就いた
しかし、何年もたたないうちに、
倫理から外れた話が伝わってきた

彼は、聖職を解かれても、
祈らなくていいというわけではなかったはずだ

元々祈りのない、汚れたところは、
悪魔はあまり魅力を感じず
聖なる者が祈りを忘れた?離れた時、
悪魔にとって小躍りする時となる

【79.最後の手段】(全文)
「既述の諸原理は次のような極限の場合に特に適用されなければなりません。教会教導職が、個人の基本的人権と公益に重大な侵害となる明白な長期独裁に終止符を打つための最後の手段として認める武装闘争の場合です。このような場合でも、武装手段の採用は厳密な状況分析を経て 初めて考えられるものです。暴力の技術が絶え間なく開発され、その使用が重大な危険をはらんでいるゆえに、今日『消極的抵抗』と呼ばれる行為は、確かに、道徳の諸原理により適合し、少なからず、成功への見通しを持つ一つの方法を示唆しています。一般市民を対象とする報復行為、拷問、テロ、民衆のデモで死者を出す原因となるような計画的挑発行為、これらの犯罪は、公権力によってなされようと反対勢力によってなされようと、断じて認めるわけにはいきません。人を心理的あるいは精神的に殺しかねない忌まわしい中傷合戦も同様です。」


教会は、完全に武装闘争を否定するのではない

しかし、ある高位聖職者は無抵抗・非武装を説く
それに反論する信徒に
「あなたの信仰はどこにあるのか!」と糾弾する

私たちにとって問題の解決手段で最も尊いのは対話である

しかし、通用しない相手もいる 
自国の民の命を顧みない独裁者
彼らに屈することは、
即 信教の自由など微塵もない宗教弾圧につながる

【80.信徒の役割】(抜粋)
「政治機構や組織への直接介入は、教会の司牧者のすることではありません。この役割は、一般市民と共に自主的に行動するという信徒の使命の要件です。信徒は、この務めを果たすに当たって、教会の目的がキリストの国を広げることであるという事実に留意しなければなりません。教会はすべての人が救われ、それによって、世がキリストに支配されることを目指しています。・・・
教会の一員であると同時に自分の属する国の国民である信徒は、それぞれの場でいつもキリスト者としての良心に従わなければなりません。社会で行動する時、多くの具体的な手段の中から、いつも、公益を目指し、福音のことばと教会の教えにかなうものを選ぶべきです。・・・
教会の社会教説は、必要不可欠ならば専門的、学問的技能を取り入れることを推奨すべきだと教えます。また、この教説は、道徳面での人格形成や精神面の深まりを求めることを促すでしょう。さらに、この教説は、諸原理を示し、諸勧告を与えますが、だからと言って、人事の機微に必要な政治的分別を培うことを免除するものではありません。


私たちは、日本国民として法律を順守する義務がある
法律は、秩序ある生活を送るために必要なものだから

しかし、そこからこぼれ落ちる者もいる
その時、私たちに求められるのは、闘争だろうか

正平協派は、それを構造的悪として糾弾し、闘争姿勢

どんな社会においても完全ではなく、ひずみは生じる

ゆえに、キリスト者として 
こぼれ落ちる人をつなぎとめる役割が
法律を無視するのではなく、
法律や秩序の中に生活できるように
苦心することが問われているように思える

聖座

「自由の自覚」から見えたもの ?

≪自由に召された人間と罪の悲劇≫

【30.人間の自由な選択】(抜粋)
「人間は、良心に刻みつけられ、聖霊からの働きかけとして受ける神の定めを守ることによって、自分自身の支配者となり、神の子としての高貴な使命を実現します。『神に仕えることによって人間は地上をつかさどります』。真正な自由が『正義への奉仕』であるのに対して、不従順と悪を選択することは『罪の奴隷』となることです。」

【31.地上での解放と自由】(抜粋)
「解放への過程で得られるものは、自由を実際に行使するためのより良い条件作りに過ぎません。自由のために闘うその人の自由を考慮に入れないような解放ならば敗北は目に見えています。」


彼らの活動は独善的
活動できる者にのみ 価値を見出す
これは、何となくアウシュビッツ収容所の看板を思い出す

人はそれぞれに、自分の置かれた状況において、
活動するもので、自由への活動は、
強制されるべきものではない

祈りも大きな活動であるということに
価値を見いだせない人たち


≪解放をもたらす教会の使命≫

【63.救いの告知】(抜粋)
「キリストの使命を受け継ぐ教会の本質的な使命は、福音をのべ伝え、救いをもたらすことです。教会はそのための熱意を神の愛からくみ取ります。福音宣教とは、救いを神のたまものとしてのべ伝えることです。人間は、神のことばと秘跡を通して、第一に自分を抑圧する罪の力と悪なる者の力から解放され、神との愛の交わりへと導かれます。教会は『罪びとを救うためにこの世に来られた』主に従って、すべての人の救いを望みます。・・・
ところで、教会にとって、神のいのちにあずかる恵みをすべての人と分かち合うように促すその愛は、同時に、信者たちの実践を通して、この世で真の福祉を追求し、困っている人々を助け、教育にかかわり、人間個々の発展を妨げるすべてのものからの全面的な解放を促進するのです。教会は、人間が、まず何よりも神の国の一員として、それから地上の国の一員として、あらゆる点で幸福になるよう望みます
。」

「教会の使命は福音をのべ伝え、救いをもたらすこと」は、
軽んじられ、「キリスト教でなくても何でもいい。
神はすべての人を救うのだから」との言葉を教会で 
何回聞いたことだろう

教会で行われてきた福祉活動に線を引き、
福祉活動よりも、その根源である社会変革こそ
意味があると説く

私たちは、福祉活動を通して、
キリストの愛を実践して証しし、
救いのご計画に参与することができた

社会変革を迫る道具となるための、
闘争のための活動になってしまった

私たちの活動は、キリストと結ばれ、
それにより愛がほとばしり
キリストの考えたように、愛したように、
行ったように・・・ではなかったのか

【65.地上の現実と福音】(抜粋)
「教会は自己の使命に忠実だからこそ、故意にであろうと怠慢によってであろうと 神不在の社会生活形態を作ろうとするならば、それに反対するのです。教会は事故の使命に忠実だからこそ、福音に反し、人間自身にも背く理論や行動原理にしたがって貧困と抑圧に闘いを挑む政治的な運動に対して独自の判断を下すのです。」

【68.貧しい人々を優先する愛】(抜粋)
「教会の設立の当初から、かれらの救済、擁護、解放のための働きは絶えたことがありません。・・・
教会はまた、貧しい人々を愛することによって人間の尊厳をあかしします。教会の明白な主張は、人間の価値が、何を持っているかよりも、何であるかによって決まるということです。人がどんなに貧しく、どんなに軽蔑され、排斥されても、あるいは無力な状況におかれたとしても、人間としての尊厳は破壊されないということ事実を証言します。教会は精神的にも時には物理的にも社会から排斥され、社会の一員として扱われない人々と連帯します。・・・
貧しい人々を特に優先することは、神の恵みがある特定の人に限られているとする説、あるいは派閥主義のしるしであるどころか、むしろ、教会とその使命の普遍性を示しています。貧しい人々を優先するからといって誰をも排除するわけではありません。まさにこの理由で、教会は、こうした優先を、社会学的範疇や特定の思想の範疇を用いて表現できないと考えるのです。この優先を党派的な選択や闘争の原理に格下げすることになりかねないからです。」


ホームレス支援で有名な司祭は、
 「神の国は、毎週教会に行っている
 あなたたちにあるんじゃない!
 釜が崎の人たちこそが神の国に入れるんだ!」と

これこそ 排除ではないだろうか

神の国に入る人を選ぶ(裁く)のは、ただ一人神のみ

それなのに、この言葉は、自分が神にとって代わって
裁きを行っているのではないだろうか

教会に求められているのは、排斥することではなく、
敵対するものを、つなぎ合わせることなのではないだろうか

【70.神学的な考慮】(全文)
「経験の貴さでいえば、特殊な体験を神学的な考察に発展させることは、それまで十分に把握されていなかった、神のことばの諸側面や豊かさを浮き彫りにする限り、積極的な意味を持ち得ます。しかし、この考察が本当の聖書読解となり、神のことばに元来含まれていない意味を投影してしまわないためには、神学者は、自分が出発点とする経験を教会の経験に照らして 注意深く解釈しなければなりません。ここでいう教会の経験とは、聖人たちの生涯の中で透明な光を放つものです。個人の経験が教会の経験と合致するかどうかを識別する役割を有するのは、ペトロの後継者と一致している司教たちです。」


最近の聖職者は、説教台から
 「キリストは、社会変革をするために、
 革命家としてこの世に来られた」 と、説き、
イエズスを闘争の師とし、信徒を闘争へと誘う

 「クリスマスというと聖劇で、善良な羊飼いが登場しますが、
 羊飼いは当時、ならず者で、
しかし、そのような者にも福音をもたらされた」 と、説き、
子供たちの夢をぶち壊し、信徒にショック療法さながらの
意識の変革を求める

ならず者を肯定? 
まさか 隣国のならず者国家等を指す??
貧しい、虐げられている人に福音を告げ、希望をもたらし
罪に傾く弱い私たちを救うため、罪のあがない主として
お生まれくださったって、教会は、教えるのではなかった?

逸脱のあるところに、真理はない!
神の真理をより深く悟るために、教会の長い歴史があるのでは?
プロフィール

maggie tonton

Author:maggie tonton
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