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典礼違反

典礼の混乱のもとは・・・

皆さんのところでも混乱が有るようですので
この際、総則をみてみたいと思います。

総則には

128 集会祈願が終わると一同は着席する。
司祭はごく短いことばで、信者をことばの典礼に招くことができる。
朗読者は朗読台へ行き、
すでにミサの前にそこに置かれていた朗読聖書から第1朗読を行い、
一同は[…]それを聞く。
終わりに朗読者は「主のことば」と呼びかけ、
一同は「神に感謝」と答える。
 ここで適当であれば短い沈黙のひとときをとることができる。
こうして一同は聞いたことを黙想することができる。



このように、なっているのが、例によって
日本では、「日本における適応」で


■第1、第2朗読後の応唱
朗読者は聖書に礼をし、
奉仕者が「神に感謝」
と答える。




このように変更されています

でも、不思議ですね

なんのための不都合があっての変更なのか???

当時は、第2バチカン公会議の精神で・・・と
「錦の御旗」のごとく振りかざし、
日本独自のものを、作りたかったとしか思えません

日本の文化・習慣から
ひどく不快に感じたり、不都合がある時以外は
規範書に忠実にすべきもののはずです

ですから、聖座は、各国の司教団に
新しく規範に忠実な典礼書を作成するように指示をし、
米国は、いろいろと抵抗を試みた末
忠実な典礼書と総則で申請し、認可されたそうです


かたや、日本の司教団は、いまだに日本の文化を主張し
何度もはね返されているようです

そのまま、忠実にやってくださっても
なんら困ることはないのに・・・
と、思います


ちなみに

聖福音の朗読の箇所も

総則は

134 司祭は朗読台で福音書を開き、手を合わせ、
「主は皆さんとともに」と唱える。
会衆は「また司祭ととともに」と答える。
それから「○○○による福音」と唱え、
親指で福音書と
自分の額、口、胸に
十字架のしるしをする。

他のすべての者も
同じようにする。

会衆は「主に栄光」と大きな声で言う。

香を用いる場合、司祭は福音書に献香する。
続いて[・‥]福音を告げ知らせ、
終わりに「キリストに賛美」と呼びかけ、
一同は「キリストに賛美」と答える。
司祭は福音書に接吻して「神のことばによって…」と
沈黙のうちに祈る。



そして、ここでも「日本における適応」で




■福音朗読の前後
司祭あるいは助祭は
福音書に十字架のしるしをしながら
「○○○による福音」と唱える。
また、朗読が終わると、司祭あるいは助祭は
福音書をおしいただいて
「キリストに賛美」と唱え、
会衆は「キリストに賛美」と応唱する。



元来、日本の文化には十字架をする習慣はありません
しかし、十字架はヨーロッパのものでもなく
キリスト教の信仰表現です
これを否定して、信仰は成り立ちません

十字架のしるしが日本文化とは異なるものだから
回数を減らしたかったのでしょうか???

ここで、額と口と胸を省略する理由が見当たりません


ついで、「主に栄光」と大きな声で言うというのは
高らかに答えるというべきものなのでしょうが
怒鳴られても困るとでも思われたのでしょうか???

その代りか?朗読後に福音書をおしいただいて
というふうに振り換えられています

でも、規範書は、会衆の行動を示し
適応では、司祭の行動になってます

不思議・・・

で、お気づきですか?

適応の方では「主に栄光」が書かれていません

良かったですね
実際に省略しているところはないようなので・・・



ちなみに、我が教会では
侍者が「神に感謝」と言い、一部が「神に感謝」と答えています

で、侍者がいない時は、
朗読者によって「神に感謝」という人もいれば
無言で終わってしまうことも・・・

私?

私が朗読の際は、侍者がいなければ「神に感謝」と言います

でも、朗読者が言うなら「主のことば」の方がいいかなぁ?


茨木教会の友人は
「神のことばです」と言っていましたよ

こんな混乱を生みだしたことを反省して
規範版に忠実にして
日本における適応なんてなしにしてほしい
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典礼違反

本田神父の洗礼論って?

私はピオ本田哲郎神父をカトリック司祭として見ることはできません

彼は洗礼の秘跡さえも否定します

「釜が崎の人たちは、もうすでに
聖霊と火によって洗礼を受けている」
と言います

この言葉、そう洗礼者ヨハネが

「私は水によって悔い改めの洗礼を授ける。しかし、わたしの後からおいでになるかたは、わたしよりも力があるかたであり、わたしはそのかたのはきものを脱がせてあげる値うちもない。そのかたは聖霊と火とによって、あなたがたに洗礼をお授けになる。」
(マタイ3・11)

この言葉を使っての説明だが
これはイエズス・キリストが聖霊と火によって授けるってこと

では、釜が崎の人たちには誰が授ける?
その証しは?
カトリックにおける水の洗礼は
聖ペトロに与えられた権能によって
秘跡として定められ、つながれている

「わたしはあなたに天の国の鍵を授けよう。あなたが地上でつなぐものは、天においてもつながれ、あなたが地上で解くものは、天においても解かれるであろう。」(マタイ16・19)

「特別に水による洗礼を望む人には授けるけども
もうすでに聖霊と火による洗礼を受けているから必要ない」


これはカトリックではありませんね
本田教です 無洗礼派です

暴言の数々には圧倒されます

「あんな水をちょろちょろとかけられて何が変わる!?」

私がこのことについて
「その時、はっきりとわからなかったとしても
変えられた自分に、徐々に気づきます
強められている、導かれていることに気づきます」
と言うと、それを否定し言葉尻だけを取り

「そうでしょ!すぐにどう変わるわけではない」

「洗礼とは一度死ぬことを指すんだ
だから、東方教会のように一度水に沈んで死んで
その中から出て来て生まれ変わるんだ
あんな水をちょろちょろかけたって何も変わらない」


では、東方教会の一度水に沈んだら
それで死ぬんでしょうか?
生きてるでしょ?死んでないでしょ?

秘跡とは「しるし」です
目に見える形で、私たちに示される聖寵です

神の子イエズス・キリストに
ヨルダン川での悔い改めの洗礼は必要だったんですか?
イエズスは悔い改めなくてはならなかったんですか?

でも、イエズス・キリストは洗礼をお受けになった
私たちに罪から解放されて
生まれ変わり、新たに生きていくことを
御自ら教えてくださったんでしょう?

だから、それが弟子たちに引き継がれていった

聖パウロだってアナニアから洗礼を受けた

目が見えなくなった聖パウロのところに行った
アナニアは聖霊が注がれるように祈り
それによって目が見えるようになった聖パウロは
アナニアから洗礼を受けた

洗礼を受けて新しい生命に
神の国の共同体の一員として生まれ変わった

これを否定してカトリックとはいえません


第二の理由

「行った先の小教区で差別を受けるから洗礼は授けられない」

これって変ですよね

洗礼は救いを受けるために
生まれ変わって永遠の生命に入るために受けるんでしょ?
神の国の一員になるんでしょ?

「汚れた服を着て臭いが充満するような状態で
教会に行けば嫌がられる
そして嫌がられていることで、その人は傷つく」


そんなにとことん汚れた状態でミサに行くことが
普通では考えられないし
でも、そういう立場に立った時
何を選択するかです

まず、持っている中でできるだけ相応しく整えるんじゃ?
汚れたそのまんまで入って行けと教えてる?

主の晩餐に招かれた者は持てる物の中で
最上の物を着れば・・・と思いますけど

この方はいつも極論を言って、責任転嫁をするわけです

着替えるものがなければ
風呂にも入れず臭いが充満していたら
ミサに与るためにシャワーくらい浴びれるように
教会の人は取り計らってくれるんじゃないの?

そう何気なく言うと
「どうしてそんなことをしなくては教会に行けないのか!」
と仰るんですけど
互いに思いやるってそういうことじゃないの?

その人が尊厳をもって生活できるように
信徒はいろいろと配慮しますよ

それを受けいれる方にも
勇気がいるのかもしれませんが
新しく生きるとは双方の思いが重なって
神の家族として強められるんだと思いますが

心と物質と両方、相応しく整えるということが
大切なんだと思います

それもこれも全否定ですけど

見事に虐げる者と虐げられている者との構図を
作り上げるわけです

そこに本当の救いはあるんでしょうか???

この聖書学者は、
自分の都合のよいところだけを選択して
聖句を持ち出し
本質のところをうまく隠し、正当化する

普通に秘跡を否定するよりも
聖句・神のみ言葉を利用して
いえ悪用して、そのように使うことは
もっと罪が重いのではないでしょうか

それでカトリック司祭
アシジの聖フランシスコのみ跡に
従う者と言えるんでしょうか?

フランシスコ会の管区長は答えて欲しい

典礼違反

子どもとともにささげるミサ

わが教会の「子どもとともにささげるミサ」は
先日、教区長様から教区で最低とのお墨付き?
「そんな酷いミサは聞いたことがない」と評された

感謝の賛歌は「いつも喜んでいなさい♪」
信仰宣言に「イエス様がいちばん♪」
主の祈り「神様がわかるでしょ♪」
平和の賛歌「私のたち平和キリスト♪」

やはり、酷過ぎるよね

それを修正すべく
子ども会担当者に配るプリントを作成した

  「子どもとともにささげるミサの指針」より

12 典礼そのものは、子どもにとってもつねに固有の教育的効果をもたらすのであるが、学校や小教区における宗教教育の中に、ミサに関する要理を取り入れなければならない。これは、子どもをミサに行動的、意識的、そしてふさわしく参加させるために有益である。この要理教育は、「子どもの年齢と知能に応じて行われ、おもな儀式と祈りを通してミサの意味を分からせることを目標とする。また教会の生活への参加ということにおいて、ミサが占める位置についても説明する」。このことはとりわけ、奉献文それ自体と、それによって子どもが参加する応唱に当てはまる。
 とくに留意しなければならないのは、子どもの初聖体の準備のための要理教育である。そこでは感謝の祭儀に関する信仰の真理を教えるだけでなく、今後は、自分なりに回心によって準備し、キリストのからだに完全に接ぎ木されて神の民とともに感謝の祭儀に行動的に参加し、主の食卓と兄弟の交わりに加わることができるよう教えなければならない。

第二章 成人とともにささげるミサに
          子どもも参加する場合


19 子どもの数が多い場合、時には、彼らの必要にいっそうこたえるために、このようなミサをふさわしく整えるとよい。その際には、子どもに合わせた説教を行うが、成人にも効果があるようにする。ミサの式次第の中ですでに規定されている適応に加えて、司教が許可するところでは、以ドに記す特殊な適応のいくつかを、成人とともにささげるミサに子どもも参加する場合に用いることができる。

第三章 子どもとともにささげるミサに
        少数の成人が参加する場合


20 子どもが親や家族とともに参加するミサは、いつどこでもできるとは限らないが、そのほかに、少数の成人の参加を得て子どもとともにささげるミサが、とくに週日に行われることが勧められる。このようなミサには、いくつかの適応が必要であることが、典礼刷新の当初からすべての人に対して明らかにされていた。
 このような適応については、一般的なことがらについてのみ以下で述べることにする(38-54)。

21 このような感謝の祭儀は、子どもを成人のミサ、とくにキリスト者の共同体が集まるべき主日のミサに向けて導くものでなければならないことを、つねに念頭に置くべきである。したがって、年齢に応じて必要とされる適応のほかは、会衆とともにささげるミサの式次第とあまりにも異なった特別な儀式を作ってはならない。各部分が司牧的理由から成人のそれと完全に同じでないにしても、各要素が目指すところは、「ローマ・ミサ典礼書の総則」でいわれていることといつも一致していなければならない。

歌 と 音 楽
31 子どもが、「栄光の賛歌」、「信仰宣言」、「感謝の賛歌」、「平和の賛歌」の歌唱にいっそう容易に参加できるよう、権限ある権威者の許可を受けた平易な翻訳文を作曲して用いることができる。この翻訳文は、典礼文と完全に一致しなくてもよい。

32 子どもとともにささげるミサにおいても「楽器を用いることは大きな助けとなる」が、とくに子ども自身が演奏する場合にそうである。楽器演奏は歌を支え、子どもの黙想の助けとなり、時には喜びと神への賛美をそれなりのしかたで表す。
 しかし、音楽か歌にまさったり、子どもの助けとなるよりも気を散らすものとなったりしないよう、いつも細心の注意が必要である。また、ミサのそれぞれの部分の目的に合った音楽でなければならない。
同様の注意と正当な必要性と慎重さをもって、司教協議会の規定に従い、子どもとともにささげるミサでは録音された音楽を用いることもできる。

動  作
34 動作に数えられる行為の中でも特筆しなければならないのは、行列、および休を動かして参加する他の行為である。                                               
 子どもが司式司祭とともに入堂の行列を行えば、そこに連帯性があることをよりよく経験できる。                          
福音書の行列に少なくとも数人の子どもが参加することにより、ご自分の民に語られるキリストの現存をより明らかにすることができる。カリスと供えものをささげる奉納の行列に子どもが参加することは、供えものの準備の重要性と意義をより明確に示す。聖体拝領の行列も、ふさわしく整っているなら子どもの信仰心を育てるのにきわめて役に立つ。

視 覚 的 要 素
35 ミサの典礼は多くの視覚的要素を含んでいる。子どもの場合には、この要素に最大の重要性を与えるべきである。このことは、とくに典礼暦を通して見られる特別な視覚的要素についていえることであって、たとえば十字架の礼拝、復活のろうそく、主の奉献の祝日のともしび、典礼色や典礼用具の多様性などである。
 祭儀それ自体と祭儀の場所に付随するこのような視覚的要素のほかに、創造や救いのわざにおける神の偉大さを子どもが目でとらえ、また見ることによって祈りの肋けとなるよう他の視覚的要素を取り入れるとよい。典礼を無味乾燥な、ただ観念的なものとしてしまってはならない。

36 同じ理由から、子どもが自分で準備した絵を使用することもできる。たとえば、説教の内容、共同祈願の意向、黙想のヒントなどを絵で表すことは有益である。

沈  黙
37 子どもとともにささげるミサにおいても、「沈黙は祭儀の一部として、守るべきときに守らなければならず」、外的な行為に重点を置きすぎてはならない。子どもも子どもなりのしかたで黙想できるからである。しかしながら、種々の機会に(たとえば聖体拝領の後や説教の後)、子どもが反省したり、短い黙想をしたり、心から神を賛美して祈ったりすることを学びとるよう指導する必要がある。
 さらに、司式者は成人とともにささげるミサのときよりも、典礼文を注意深く、急がず、子どもが理解できるように適当に区切って唱えることを心がけなければならない。

ミ サ の 各 部
39 子どもとともにささげるミサと成人とともにささげるミサの相違が極端にならないようにするために、儀式や典礼文の中には、子どものために適応してはならないものがある。すなわち、「司祭のあいさつに対する信者の応唱や笞唱」、主の祈り、閉祭のとき司祭が与える祝福の結びの三位一体のことばである。また、49でいわれるように、使徒信条を用いることができるが、子どもがしだいにニケア・コンスタンチノープル信条に慣れるようにすることが勧められる(教皇庁典礼秘跡省の許可に基づき、日本では洗礼式の信仰宣言を用いることができる)。

  教皇ベネディクト16世 使徒的低勧告
     「愛 の 秘 跡」より
聖  歌
42 「祭儀の法」において聖歌は際立った位置を占めます。聖アウグスチヌスは有名な説教の中で適切にもこういいます。「新しい人は新しい歌を歌います。歌は喜びの表現です。よく考えるならば、歌は愛の表現です」。典礼を行うために集まった神の民は、神への賛美を歌います。教会は二千年の歴史を通して音楽と歌を作ってきましたし、今も作り続けています。これらの音楽と歌は、信仰と愛の豊かな遺産をなしています。この遺産を失ってはなりません。まことに、典礼においてはどの歌も同じようによいとはいえません。このため、漠然とした即興や典礼の意味を尊垂しない音楽の種類を導入することを避けるべきです。歌は典礼の構成要素として、祭儀全休に組み込まなければなりません。したがって、歌詞も旋律も演奏も含めて、すべてが、祝おうとする神秘の意味と、祭儀の構造と、典礼の季節に即したものであるべきです。最後に、さまざまな様式と大いにほむべきさまざまな伝統を尊重しながらも、わたしはシノドス参加司教の要請に従って、グレゴリオ聖歌を適切なしかたで評価して用いることを望みます。グレゴリオ聖歌はローマ典礼固有の聖歌だからです。



【確認事項】
◇大阪教区では、小教区の主日ミサにおいて「成人とともにささげるミサに子どもも参加する場合」であっても、「子どもとともにささげるミサに少数の成人が参加する場合」の適応を使用することを許可されている。
◇しかし、「子どもとともにささげるミサ」は、本来、週日に行われるようになっていて、主日に行う時には、主日ミサに相応しく、成人にも配慮が必要となる。
◇ミサ曲:子どもに分かりやすい言葉に翻訳されたものは代替できるが、その他の歌を充ててはならない。
◇主の祈り、信仰宣言:そのまま使う。
   →子どもたちが一般のミサに、
    早くなじめるようにとの配慮が必要。
◇選曲にあたっての留意点
・典礼の季節を配慮する。
・神を賛美するために作られた曲を使う。
・子どもたちが歌えるようになってから、ミサに使う。
◇楽器の演奏について
・会衆が歌いやすいような伴奏を心がける。
・アンプの使用の可否を再考し、使用する際は、
 ボリュームを考慮する。

典礼違反

駄目だし本 イシドロ・リバス神父

最近、私の購入する本はほとんどがネット・ショッピング

昔は、セント・ポールのご常連だったんだけど

購入する本は、典礼・聖人・伝記関係が多い

当たりはずれも多くて、げんなりする本によくあたる

だから、古書! 

当たりはずれのない和田幹夫神父様の本

「聖パウロ ーその心の遍歴―」

これは、新品をネットで買いました

で、神父様にサインしてもらっちゃったんだよん♪

書棚に収まらず、無造作に積み上げられた本・・・

あれっ?こんな本がある 

「ミサ 神の愛の確認 -不安から希望へー」
          イシドロ・リバス著

いつ買ったのかなぁ?

このへんが 実にアバウト!(←私の性格)

ついついまとめ買いしちゃうので

で、いつもの読み方(見方) パラパラとめくる

ところどころ、関心のあるところだけを何気なく、目をとおす

「結婚式のミサ」

結婚式の中で行われるミサの意義について書いてある

「二人が結婚するということは、自分達の誓いの言葉によることです。ミサがなくても誓いの言葉によって夫婦となります。しかしその二人の誓いを神がご自分のものにして、ご自分の愛と名誉にかけて、その二人を守る、生かすということを表すために、結婚式のミサがあります。・・・」

読み進めると、儀式について書いてある どれどれ

「ミサの捧げ方にも意味があります。すなわち誓いの言葉を交わすのは、祭壇の上ではなく、祭壇のふもとです。親や証人のすぐ側で誓いの言葉を交わします。誓いの言葉を交わす時には、向かい合って握手します。二人の手の上に司祭が祭服をかけます。この意味は、二人が結ばれるのは単に二人の意志と言葉だけでなく、神の意志によっても結ばれるということです。・・・」

あれっ うちの教会の結婚式とは ちょっと違う
でも、スペイン人司祭だから、シンボリックなのかな?
それともうちが手抜き?
たしか、誓約の文が書いてある紙を 二人で持ってたよ

「そして夫婦となってから、二人だけが祭壇に上がって祭壇のすぐ近くから、明るい所でミサに与ります。二人は神に迎え入れてもらって、神の国に引き寄せて頂きます。そしていわゆる聖変化の時に司祭がパンを手にしながらキリストに代わって、『これはおまえたちのために渡される私の体です。これはおまえたちのために流されて永遠の契約、決断を表す私の血です』と言います。それはキリストが二人にかけてくれることを表します。」

えーーーっ 祭壇に上がってミサに与る?なにーー??

「御聖体の受け方も普通のミサの時と違います。すなわち普通のミサの時ですと、一人ずつ直接司祭から御聖体を受けます。結婚式の時、司祭は新郎と新婦に御聖体を渡しますが、二人とも司祭から受けてすぐ自分で食べずに、二人でそれを交換します。すなわち彼は彼女からキリストを受け、彼女は彼からキリストを受けることの意味です。」

ありゃー だめだーーー
手で聖体をうけるのも、特例なのに、相手に授ける?
もってのほかーーー!

カトリック失格本 決定!

あぁ、無駄な本買っちゃったーー泣

せっかくだから、もう少しだけ 読んでみるか・・・

「実生活の苦悩とミサ ―― 農民と工業労働者の苦労」

ん?変な小見出し  どれどれ

「パンとぶどう酒を捧げるもう一つの意味は、社会的な次元からきます。考えてみますと、パンを作るためには農民が麦畑を耕す苦労がありますが、それと同時に麦をつぶして混ぜて焼くことによってそれをパンに変えるという工業労働者の働きも必要です。ぶどう酒の場合にも、ただ農民のぶどう畑を耕す苦労、汗と、技術だけでなく、今度それをつぶして発酵させてビンに入れるという工業の労働者のつらい単調な仕事も必要です。
 言い換えれば、パンもぶどう酒も、人間の労働、農民の汗、工業労働者の苦労の一つのシンボルです。
 パンとぶどう酒を捧げる時に、司祭は次の言葉を唱えます。『神よ、あなたは万物の造り主。ここに供えるパンとぶどう酒はあなたから頂いたもの。大地の恵み、労働の実り」。気づいたかもしれませんが、『大地の恵み』という言葉によって、農民の苦労が示されて、『労働の実り』という言葉によって、工業労働者の苦労が暗示されています。
 ミサというものは美しい儀式のようにも見えますが、本当は泥臭い苦労にまみれたものなのです。ミサに来る時に皆はよくきれいな服を着てきます。それには祭日を祝う意味もあるからいいかもしれませんが、私たちの実生活の苦労から断絶して、遊離した別世界にうつる意識を持って行くことは危険です。・・・」


あぁーーー 目まいがする
私、そんな思いで奉納の祈りを聞いたことなかったよ

「大地の恵み」は「農民の苦労」なの?
私、神様の創られた大地・自然を思ってた

「労働の実り」は「工業労働者の苦労」なの?
私たちの労働や努力の結実だと・・・

神様のお恵みと私たちの努力が
結ばれてできたものを 信頼と感謝の心を
お捧げするんだと思ってたのに・・・       

で、ミサは美しい儀式ではいけないの?
泥臭く、小汚い恰好で与るの?

だめだーーー!

これは古書で入手したけど、96年に初版、02年に第3版
授業のテキストや各小教区の委員会などの
分かち合いに使われたんだって

で、今の「何でもあり典礼」に・・・
このイエズス会司祭の責任もあるよね 

バチカンから否定された「解放の神学」の
3悪修道会:フランシスコ会、イエズス会、神言会

この本、全体が悪い内容ではないのだけど
それだけに ところどころ書かれている変なことを
油断して 受け入れてしまう危険性がある

危ない! 危ない!

皆さん、ご注意を!

プロフィール

Author:maggie tonton
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