異端?
カール・ラーナー
「兄弟愛の社会的次元」というテーマで
彼は次のようなことを書いている
今日の状況において発揮されるべきキリスト教的兄弟愛から生じる今ひとつの結論は、政治的責任で あり、それ故にまた政治神学がこのキリスト教的兄弟愛の本質から必然的に生じてくる、という洞察の中に成立する。
遂に彼は、「政治神学」という言葉を持ち出し
キリスト教の隣人愛と兄弟愛ゆえに
新しい分野に駆り立てる
その分野とは、人間にふさわしい、キリスト教的に生きることのできる生活にとって、できる限り 適切な一社会における、そうした生活のための社会機構上の前提条件に対する責任の分野であり、本来の政治の分野のことである。この責任は今日では――昔と違って――もはや少数の人だけによって になうことができるものではなく、ひとつの社会の中の一人々皆にその責任が要求されている。…
この責任は昔以上にいっそう多くの選択を許す可能性ある決断の分野でとられなければならず、もはや単なる推論的な知性の問題ではなく、むしろ自由そのものの問題だからである。たとえ幾多の異なった仕方であろうとも、政治は今日ではもはや、議論の余地なしにこの政治のために神から委託されている「当局者」だけの課題ではなく、各キリスト者の責任になっている。
このように言いながら、民主化された社会において
信者にキリスト教的社会構築のための政治責任を説く
そのキリスト者の政治的責任について
従来の社会的な諸構造と状況とを防御することだけが、キリスト者の使命でありうるというように考えてはならない。
あるキリスト教徒が心の底からキリスト教的な態度により、あれこれの点で保守的であるということ、また彼が理論的な基本的見解か、もしくはまた正当に彼に帰せられる自由な決断によって、特定の社会的事実の存在を支持するということは、全くありうることである。その人は今後とも保守的でありうるし、それを恥じる必要もない。
などといって、保守的な態度も、寛大に存在を許してやるって?
でも、それって「恥じる必要もない」なんてわざわざ書いて
要するに、保守的なのは適当ではないと誘導する
私たちキリスト教徒は、あたかも社会政治的変化にとってダイナミックな力が、もっぱら他の人々の事柄であるかのようにふるまってはならないし、また未来の人間の罪や有限性や幻滅に支配されたことと全く同様に、従来の社会構造を防御することだけがキリスト教の使命である、というふうに考えてはならない。
でも、このように政治責任を果たせるキリスト者は
欧米や我が国などの民主的な国であり少数だ
その民主的国家にあって
ダイナミックな社会変革とは何を意味するのか
それこそ、社会主義ではないか
「未来の人間の罪や有限性や幻滅」とはどういうことか
有限の存在である私たち人間は
神において常に希望をもち、正義が行われるように努力する
それではいけないのか
そして彼は保守派に批判?暴言?を浴びせる
神の摂理が、神の耳にだけ交響的に響くような世界の演奏会の中で、各人に皆それぞれ固有のパートをわりあてていて、それ故に事情によっては、私たちは反対抗議をしてはいけないということや、啓蒙期以来、結局は世界史の神的シンフォニーにとって不可欠でもあるような保守的な人のパートは、教会のキリスト者にわりあてられたということをキリスト教的謙虚さのうちに考慮すれば、すべてが説明されるのであろうか。・・・
延々と保守派に対する恨みがましい批判をした後
彼の本心であることが語られる
神学の全体に対してイデオロギーを批判する仕方で関わるような問いが、政治神学といったものを形成し、私たちがその場合、あらゆる側面からその本質をそれほど綿密にきわめなくてよいとしても、政治神学にその権利が与えられるのである。・・・
政治神学は、至るところで革命家や現代主義者たちを見つけ出そうとするいらだちの心で、はじめから拒否されてはならないものである。
このように寛大に受け入れてほしいと書きながら
どうしてこんなに、恨みがましいのか
で、この本、彼がいつ書いたのかと思ってあとがきを見ると
1984年、80歳のお祝いに対する感謝の手紙の後に
送られてきたものとのことで
その後、間もなく帰天されたので、まさに遺稿
彼の主張した神学から派生した解放の神学は
カトリックの本流から外れたものと
ほぼ結論が出た頃に書かれているので
こうも恨みがましいのである 納得!!
たとえば、こんな感じ
教会の中でのイデオロギーの疑いが強く、また反動的に思われるような神学や政策に対して、自己防衛しなければならないと思いこんでいるような神学や政治の主張者たちにも、全く同じように自分たちの敵対者に対して、兄弟的寛容さが求められているのであって、この兄弟愛もまた、あらゆる希望に反して落ち着いて待機する可能性を包んでいるということも当然認められる。
今日のキリスト信者には
昔は与えられなかったような政治的責任がある
たしかにこの社会においては、またおよそ教会においても、指導的役割をになう者がいて、それが各人にふさわしくはないにしても、その権能は万人から尊重されなければならない。だが今日では、教会の具体的な統治様式において、当局的思考が減退しているために、兄弟愛はなおさらいっそう強力に効力を発揮しなければならない。ところで指導的役割の全権を尊重することは、教会においては、唯一にして同一の恵みにおける同じ主を通していっそう包括的で、いっそう深いところにある兄弟愛に基づいているのである。
>教会において、ふさわしくない「指導的役割をになう者」も
「その権能は万人から尊重」してほしいってことのようだ<
これって、政治に走る聖職者?
彼らを主において兄弟愛から
「指導的役割の全権を尊重」してねってことのようだ
彼は次のようなことを書いている
今日の状況において発揮されるべきキリスト教的兄弟愛から生じる今ひとつの結論は、政治的責任で あり、それ故にまた政治神学がこのキリスト教的兄弟愛の本質から必然的に生じてくる、という洞察の中に成立する。
遂に彼は、「政治神学」という言葉を持ち出し
キリスト教の隣人愛と兄弟愛ゆえに
新しい分野に駆り立てる
その分野とは、人間にふさわしい、キリスト教的に生きることのできる生活にとって、できる限り 適切な一社会における、そうした生活のための社会機構上の前提条件に対する責任の分野であり、本来の政治の分野のことである。この責任は今日では――昔と違って――もはや少数の人だけによって になうことができるものではなく、ひとつの社会の中の一人々皆にその責任が要求されている。…
この責任は昔以上にいっそう多くの選択を許す可能性ある決断の分野でとられなければならず、もはや単なる推論的な知性の問題ではなく、むしろ自由そのものの問題だからである。たとえ幾多の異なった仕方であろうとも、政治は今日ではもはや、議論の余地なしにこの政治のために神から委託されている「当局者」だけの課題ではなく、各キリスト者の責任になっている。
このように言いながら、民主化された社会において
信者にキリスト教的社会構築のための政治責任を説く
そのキリスト者の政治的責任について
従来の社会的な諸構造と状況とを防御することだけが、キリスト者の使命でありうるというように考えてはならない。
あるキリスト教徒が心の底からキリスト教的な態度により、あれこれの点で保守的であるということ、また彼が理論的な基本的見解か、もしくはまた正当に彼に帰せられる自由な決断によって、特定の社会的事実の存在を支持するということは、全くありうることである。その人は今後とも保守的でありうるし、それを恥じる必要もない。
などといって、保守的な態度も、寛大に存在を許してやるって?
でも、それって「恥じる必要もない」なんてわざわざ書いて
要するに、保守的なのは適当ではないと誘導する
私たちキリスト教徒は、あたかも社会政治的変化にとってダイナミックな力が、もっぱら他の人々の事柄であるかのようにふるまってはならないし、また未来の人間の罪や有限性や幻滅に支配されたことと全く同様に、従来の社会構造を防御することだけがキリスト教の使命である、というふうに考えてはならない。
でも、このように政治責任を果たせるキリスト者は
欧米や我が国などの民主的な国であり少数だ
その民主的国家にあって
ダイナミックな社会変革とは何を意味するのか
それこそ、社会主義ではないか
「未来の人間の罪や有限性や幻滅」とはどういうことか
有限の存在である私たち人間は
神において常に希望をもち、正義が行われるように努力する
それではいけないのか
そして彼は保守派に批判?暴言?を浴びせる
神の摂理が、神の耳にだけ交響的に響くような世界の演奏会の中で、各人に皆それぞれ固有のパートをわりあてていて、それ故に事情によっては、私たちは反対抗議をしてはいけないということや、啓蒙期以来、結局は世界史の神的シンフォニーにとって不可欠でもあるような保守的な人のパートは、教会のキリスト者にわりあてられたということをキリスト教的謙虚さのうちに考慮すれば、すべてが説明されるのであろうか。・・・
延々と保守派に対する恨みがましい批判をした後
彼の本心であることが語られる
神学の全体に対してイデオロギーを批判する仕方で関わるような問いが、政治神学といったものを形成し、私たちがその場合、あらゆる側面からその本質をそれほど綿密にきわめなくてよいとしても、政治神学にその権利が与えられるのである。・・・
政治神学は、至るところで革命家や現代主義者たちを見つけ出そうとするいらだちの心で、はじめから拒否されてはならないものである。
このように寛大に受け入れてほしいと書きながら
どうしてこんなに、恨みがましいのか
で、この本、彼がいつ書いたのかと思ってあとがきを見ると
1984年、80歳のお祝いに対する感謝の手紙の後に
送られてきたものとのことで
その後、間もなく帰天されたので、まさに遺稿
彼の主張した神学から派生した解放の神学は
カトリックの本流から外れたものと
ほぼ結論が出た頃に書かれているので
こうも恨みがましいのである 納得!!
たとえば、こんな感じ
教会の中でのイデオロギーの疑いが強く、また反動的に思われるような神学や政策に対して、自己防衛しなければならないと思いこんでいるような神学や政治の主張者たちにも、全く同じように自分たちの敵対者に対して、兄弟的寛容さが求められているのであって、この兄弟愛もまた、あらゆる希望に反して落ち着いて待機する可能性を包んでいるということも当然認められる。
今日のキリスト信者には
昔は与えられなかったような政治的責任がある
たしかにこの社会においては、またおよそ教会においても、指導的役割をになう者がいて、それが各人にふさわしくはないにしても、その権能は万人から尊重されなければならない。だが今日では、教会の具体的な統治様式において、当局的思考が減退しているために、兄弟愛はなおさらいっそう強力に効力を発揮しなければならない。ところで指導的役割の全権を尊重することは、教会においては、唯一にして同一の恵みにおける同じ主を通していっそう包括的で、いっそう深いところにある兄弟愛に基づいているのである。
>教会において、ふさわしくない「指導的役割をになう者」も
「その権能は万人から尊重」してほしいってことのようだ<
これって、政治に走る聖職者?
彼らを主において兄弟愛から
「指導的役割の全権を尊重」してねってことのようだ
異端?
カール・ラーナー
この人は、どうしてこうももっともらしい文章の中に
こそこそと変な言葉を潜りこますのだろうか
はっきりとした形での批判ではなく
それとなく そういう感覚に誘い込む
そういう意味で悪質だと思う
私たちのキリスト教的兄弟愛が、ただ単にはるかな隣人の現世的幸福や、世俗社会における権利や正義だけに関わっていてはならず、かえってこの隣人の本来の救いにも、すなわちその人に神自らの約束が、無条件で限りのないイエス・キリストという歴史的に把握しうる姿を通してとらえられることに関わっているのであることも同じく当然である。
「歴史的に把握しうる姿」という言葉は、ここで必要だろうか
神の約束は、イエズス・キリストを通して・・・で充分なはずだ
ここで、この言葉を挟むことにより
歴史的に把握できないようなことは
信じなくてもよいという風に感覚的に植え付ける
歴史的に把握できることの他に
聖伝、神に導かれた信仰の歴史がある
信心業などは特にその部類で、信仰を豊かに実らせるものである
だが、彼らは、頭で理解できるものにしか価値を認めない
やはり啓蒙主義からの思想、プロテスタント的
今日若いキリスト教徒たちが、正当にも全世界で自由と社会正義を闘争的に支持しようとしているとき、彼らは人類の究極的一致が、神とイエス・キリストによるその神聖なる恵みのうちにあってようやくはじまるところで、世界に広がるこの兄弟愛が停止してはならない、ということを忘れてよいわけはない。今日、全世界における自由と正義に対する人々の明らかな信仰の表明と断固とした挺身は、それだけでもう福音化の第一歩であり、ぜひとも必要な手段であるかもしれない。またこの第一歩は、それが人間的兄弟愛の素朴な行為として、私心なく故意でなしに行われるときにのみ正しくなされるのであるかもしれない。とはいえこれらすべてのことは、はっきりとした世界宣教と福音化に対するキリスト者各自の兄弟的責任を除外しはしない。
「自由と社会正義を闘争的に支持」することが
兄弟愛であるとして駆り立てる
この「闘争的」という言葉にはキリスト教的な香りがしない
この言葉から連想するものは暴力的闘争である
極限状態にあるとき
教会は力による闘争をやむを得ないものとする
だが、その先には、真のキリスト教的正義の秩序が
準備されていなくてはならない
それもなく、闘争に駆り立てるならば
それはただの「破壊」だ
彼は、その闘争が「素朴な行為」として
なされるように要求するが
それでは、ただの暴動になる恐れすらある
こういうことに「福音化の第一歩」とか
「断固とした挺身」という言葉を平然と使い
キリスト者を駆り立てる恐ろしさを感じる
こそこそと変な言葉を潜りこますのだろうか
はっきりとした形での批判ではなく
それとなく そういう感覚に誘い込む
そういう意味で悪質だと思う
私たちのキリスト教的兄弟愛が、ただ単にはるかな隣人の現世的幸福や、世俗社会における権利や正義だけに関わっていてはならず、かえってこの隣人の本来の救いにも、すなわちその人に神自らの約束が、無条件で限りのないイエス・キリストという歴史的に把握しうる姿を通してとらえられることに関わっているのであることも同じく当然である。
「歴史的に把握しうる姿」という言葉は、ここで必要だろうか
神の約束は、イエズス・キリストを通して・・・で充分なはずだ
ここで、この言葉を挟むことにより
歴史的に把握できないようなことは
信じなくてもよいという風に感覚的に植え付ける
歴史的に把握できることの他に
聖伝、神に導かれた信仰の歴史がある
信心業などは特にその部類で、信仰を豊かに実らせるものである
だが、彼らは、頭で理解できるものにしか価値を認めない
やはり啓蒙主義からの思想、プロテスタント的
今日若いキリスト教徒たちが、正当にも全世界で自由と社会正義を闘争的に支持しようとしているとき、彼らは人類の究極的一致が、神とイエス・キリストによるその神聖なる恵みのうちにあってようやくはじまるところで、世界に広がるこの兄弟愛が停止してはならない、ということを忘れてよいわけはない。今日、全世界における自由と正義に対する人々の明らかな信仰の表明と断固とした挺身は、それだけでもう福音化の第一歩であり、ぜひとも必要な手段であるかもしれない。またこの第一歩は、それが人間的兄弟愛の素朴な行為として、私心なく故意でなしに行われるときにのみ正しくなされるのであるかもしれない。とはいえこれらすべてのことは、はっきりとした世界宣教と福音化に対するキリスト者各自の兄弟的責任を除外しはしない。
「自由と社会正義を闘争的に支持」することが
兄弟愛であるとして駆り立てる
この「闘争的」という言葉にはキリスト教的な香りがしない
この言葉から連想するものは暴力的闘争である
極限状態にあるとき
教会は力による闘争をやむを得ないものとする
だが、その先には、真のキリスト教的正義の秩序が
準備されていなくてはならない
それもなく、闘争に駆り立てるならば
それはただの「破壊」だ
彼は、その闘争が「素朴な行為」として
なされるように要求するが
それでは、ただの暴動になる恐れすらある
こういうことに「福音化の第一歩」とか
「断固とした挺身」という言葉を平然と使い
キリスト者を駆り立てる恐ろしさを感じる
異端?
カール・ラーナー ?
このように私たちは、どれほど自分たちに困難に思われようとも、今日、歴史上の制約、局面の暫定性を伴う具体的な世界教会の中で生きている。そして教会はまさに今、その暫定的局面と制約の中にあるのであって、ともかくもまだ将来のより良い段階には達していない。こういう教会の中で私たちは生きなければならず、またローマにおけるイタリア的形式主義にも、耐える状態におかれざるをえない。それは何といっても、かしこにいる私たちの兄弟には自明なことなのであり、たとえ私たちが―兄弟として尊敬されていて―そうした問題における自分たちの願い、悩み、そして苦痛をはっきりと通告する権利があるとしてもそうなのである。
イエズス様から委ねられた首位権やヒエラルキーを
イタリア的形式主義としか見られない人たち
彼らを、どうしてローマ・カトリックと呼べるのだろう
苦痛としか考えられないなら、悩みの中から、
素直に受け止められる信仰を願っていただきたい
はじめに、彼はヨーロッパ的なものを否定していたが
結局は、イタリア的形式主義にターゲットを絞った
頭でっかちの、心から神に頼ることを知らないあなたたちを
可哀そうな隣人として見ることは出来ても
兄弟として尊敬するに値しないと思う
いくら理論を重ねても、神を畏れず
神から与えられた秩序を
自分たちの考える秩序に変えようとするあなた方を
もう友とも呼べない
可哀そうな隣人が
これ以上、人を惑わすことのないように祈るのみ
人々は、現実のひとつになった世界規模の世界史の内部での教会そのものの中で、教皇職が実際的に、全く新しい積極的機能をかちとることができると考えるかもしれない。その機能というのは、これまで教皇職が具体的には全然持っていなかったもので、今日私たちが本能的に探し求めているにもかかわらずおそらく他の場所で見いださないものであり、私たちカトリック教徒として希望と忍耐のうちに、教皇職について信じていることの、今ここでの具体的な結果と特徴として教皇職に対して是認しうるものなのである。
ここで、不遜にも、彼は、教皇職について
自分たちが職務を決めようとする
教皇様は、時代に沿って、自らが判断されて
キリスト者には神の教えを
そして非キリスト者にも
人間としての「良心」を目覚めさせるべく
世界中の人々に語りかけられる
しかし、それを歪めて伝えるマスコミがいる
特に、日本の左傾化著しい大手マスコミ
そして、それを増幅させるかのようなカトリック新聞
日本の教会の高位聖職者たち
本来の教皇様の愛の語りかけを歪め、冷笑し
批判対象にすり替えられている現状がある
彼らは、自分たちが望みうる教皇職
「世界の良心の表現」の行使であっても
結局は、権威を認めないのである
全面否定はせずに
そのように仕向けるしたたかさを感じる
イエズス様から委ねられた首位権やヒエラルキーを
イタリア的形式主義としか見られない人たち
彼らを、どうしてローマ・カトリックと呼べるのだろう
苦痛としか考えられないなら、悩みの中から、
素直に受け止められる信仰を願っていただきたい
はじめに、彼はヨーロッパ的なものを否定していたが
結局は、イタリア的形式主義にターゲットを絞った
頭でっかちの、心から神に頼ることを知らないあなたたちを
可哀そうな隣人として見ることは出来ても
兄弟として尊敬するに値しないと思う
いくら理論を重ねても、神を畏れず
神から与えられた秩序を
自分たちの考える秩序に変えようとするあなた方を
もう友とも呼べない
可哀そうな隣人が
これ以上、人を惑わすことのないように祈るのみ
人々は、現実のひとつになった世界規模の世界史の内部での教会そのものの中で、教皇職が実際的に、全く新しい積極的機能をかちとることができると考えるかもしれない。その機能というのは、これまで教皇職が具体的には全然持っていなかったもので、今日私たちが本能的に探し求めているにもかかわらずおそらく他の場所で見いださないものであり、私たちカトリック教徒として希望と忍耐のうちに、教皇職について信じていることの、今ここでの具体的な結果と特徴として教皇職に対して是認しうるものなのである。
ここで、不遜にも、彼は、教皇職について
自分たちが職務を決めようとする
教皇様は、時代に沿って、自らが判断されて
キリスト者には神の教えを
そして非キリスト者にも
人間としての「良心」を目覚めさせるべく
世界中の人々に語りかけられる
しかし、それを歪めて伝えるマスコミがいる
特に、日本の左傾化著しい大手マスコミ
そして、それを増幅させるかのようなカトリック新聞
日本の教会の高位聖職者たち
本来の教皇様の愛の語りかけを歪め、冷笑し
批判対象にすり替えられている現状がある
彼らは、自分たちが望みうる教皇職
「世界の良心の表現」の行使であっても
結局は、権威を認めないのである
全面否定はせずに
そのように仕向けるしたたかさを感じる
異端?
カール・ラーナー ?
彼は隣人愛を「兄弟愛」として徹底した愛を要求する
人は自分の愛のうちに沈黙したままでいることができず、あたりまえであるかのように その愛の苦しい幻滅を耐ええないとしても、それでもその人は自分に問うてみなければならない。自分はきわめて礼儀正しくふるまえる生活の知恵による利己主義を、真に人間を無私のものとし、その人を神の測り知れない深みに投入するような まことの愛と取り違えているのではないか、と。それ故、本当に理解するならば、兄弟愛とは非常に危険な言葉なのである。
フランシスカン的、また一般的「兄弟」の観念から逸脱して
強烈な愛を「兄弟愛」と呼び
非常に危険な言葉だと言いながらも
彼は、この「兄弟愛」を使い続ける
それなら「兄弟愛」などと使わなければいい
わざわざ、使い続けるのは
それを、暗に私たちに要求するからであろう
そこまでの隣人愛を皆が求められるものだろうか?
信仰に応じて、深まり、その度合いも異なり
召命に応じて求められるものは異なると思う
これって、フランシスコ会の本田哲郎神父の言う
「毎週ミサに与ったからといって天国にはいけない
釜が崎の人たちこそが天国に行けるんだ」
って言葉に通ずる
でも、私の尊敬するコンベンツアル会の神父様は
「自分が与えられた環境・状況の中で
いかに懸命に生きるかが大切だ」とお話くださった
神様と結ばれて 懸命に生きることが大切だと思う
それが無私なのかどうかは・・・
それこそ信仰の実りだと思うけど
さて、彼は真の兄弟愛が伴っている
もう一つの結果として
「私たちの宗教的主観性における
派閥的なメンタリティーの克服」をあげる
私たちは今や世界教会の中で生きている。そしてこの世界教会は、単に私たちの個人的な趣味や、20世紀後期個人主義的主体主義のメンタリティーに合わせて裁断されたものではない。そこにはもうヨーロッパ人は十分に居る。ところがアフリカ人、ラテンアメリカ人等は 後期個人主義的な私たちのメンタリティーと生まれつき共感していないというのに、彼らがいよいよ私たちと同一の市民権を、唯一の教会の中にもっているのである。彼らのメンタリティーは、私たちが欲しようと欲すまいと、一なる教会において作用していて、私たちもそれにとらえられるほどである。このことは私たちにはしばしば不愉快であるかもしれない。特にこの異質なメンタリティーが知らず知らずのうちに、たとえ全くそうでなくとも、無邪気に、そして当然のこととして、しかも率直に自らもカトリックだと感じていて、それほど無造作ではないとしても自分を示している。
これって、偏見に満ち満ちていると思うのですがねぇ
ミサや典礼に対しては、多様性だと言いながら
メンタリティーを異質と捉えるのは
矛盾した考え方と思う
メンタリティーと文化とは重なり合うものだけど
ミサなどでの表現方法を異質(不愉快)と
感じることはあっても
メンタリティーを不愉快に思うなんて
自分たちは如何ほどの者なんだ?!
これこそ、おごり高ぶりではないか
ポーランドのマリア崇敬は、全くカトリック信仰と共に授かったものとして、いつどこでもそのようなものであると自認している。それゆえにこのマリア崇敬は、全教会でも重んじられるように努められるであろう。たとえそのようなマリア崇敬が、私たちの感覚には多くの点で異質であるかもしれず、私たちのところでは かなりの抵抗をひき起こすことになってもである。
何?異質のメンタリティーて
結局は聖母信心に対しての侮蔑だったのかな
マリア崇敬は重んじられるように努力しなくても
子供が母親を慕うのと同じで自然と生ずるもの
だから、妨害さえしなければいいだけ
マリア信心を否定するところに血は通わない
マリア信心を異質・抵抗と感じるところには
基本的な愛が見いだせないように感じる
当然のことながら教会の多くのことが、人々にしっくりしていない。だがなぜ多くのことがしっくりしなければならないのか。教会がまさにある人々にとって あるがままのものでなければならないのなら、そのときには他の人々は何をすることになるのであろうか。イタリア人はと言えば、おそらく 彼らにしても私たちドイツ人にしても幸いなことに、法律上の事柄にはあまりやかましくなく、偏狂に受けとることもないのではないか。南米人のマリア崇敬は、おそらく理論の上ではキリスト論が設けている限界に関しては、私たちよりもさほど気を遣わないであろう。私たちのところでは、それと気付かずに、実際にはあつかましい個人主義と利己主義の危険にあるのではないだろうか。
南米よりも西欧の信仰の方が優れているというのか?
最初に、西欧的なものは全否定していたのに
彼らにとって西欧的なものは、
教皇の権威・ヒエラルキーであって
知的な信仰は、西欧が優れていると?
確かにアウグスチヌスやトマス・アクイナス、
ボナベンツラなどの思想家は
西欧で信仰の基盤を整え、発展させたけど
それは、西欧への神様の宿題であった
神の目から、何も、西欧が
信仰面で優れているわけでもないと思う
キリスト論が設けている限界とは何か?
どういう理論なのか?
南米の人々が聖母に心を寄せるとき
イエズス・キリストが存在しないとでも言うのだろうか
イエズス・キリストと聖母は切り離せない存在として
純粋に慕い、祈って、誰に批判されることがあるのか
中南米の人々のように
幼子のように純粋に神により頼む心は、
何よりも尊いとイエズス様は教えられたではないか
神の前に何が尊いのか・・・
フランス啓蒙主義的な個人主義は
独善的になり得る
人は自分の愛のうちに沈黙したままでいることができず、あたりまえであるかのように その愛の苦しい幻滅を耐ええないとしても、それでもその人は自分に問うてみなければならない。自分はきわめて礼儀正しくふるまえる生活の知恵による利己主義を、真に人間を無私のものとし、その人を神の測り知れない深みに投入するような まことの愛と取り違えているのではないか、と。それ故、本当に理解するならば、兄弟愛とは非常に危険な言葉なのである。
フランシスカン的、また一般的「兄弟」の観念から逸脱して
強烈な愛を「兄弟愛」と呼び
非常に危険な言葉だと言いながらも
彼は、この「兄弟愛」を使い続ける
それなら「兄弟愛」などと使わなければいい
わざわざ、使い続けるのは
それを、暗に私たちに要求するからであろう
そこまでの隣人愛を皆が求められるものだろうか?
信仰に応じて、深まり、その度合いも異なり
召命に応じて求められるものは異なると思う
これって、フランシスコ会の本田哲郎神父の言う
「毎週ミサに与ったからといって天国にはいけない
釜が崎の人たちこそが天国に行けるんだ」
って言葉に通ずる
でも、私の尊敬するコンベンツアル会の神父様は
「自分が与えられた環境・状況の中で
いかに懸命に生きるかが大切だ」とお話くださった
神様と結ばれて 懸命に生きることが大切だと思う
それが無私なのかどうかは・・・
それこそ信仰の実りだと思うけど
さて、彼は真の兄弟愛が伴っている
もう一つの結果として
「私たちの宗教的主観性における
派閥的なメンタリティーの克服」をあげる
私たちは今や世界教会の中で生きている。そしてこの世界教会は、単に私たちの個人的な趣味や、20世紀後期個人主義的主体主義のメンタリティーに合わせて裁断されたものではない。そこにはもうヨーロッパ人は十分に居る。ところがアフリカ人、ラテンアメリカ人等は 後期個人主義的な私たちのメンタリティーと生まれつき共感していないというのに、彼らがいよいよ私たちと同一の市民権を、唯一の教会の中にもっているのである。彼らのメンタリティーは、私たちが欲しようと欲すまいと、一なる教会において作用していて、私たちもそれにとらえられるほどである。このことは私たちにはしばしば不愉快であるかもしれない。特にこの異質なメンタリティーが知らず知らずのうちに、たとえ全くそうでなくとも、無邪気に、そして当然のこととして、しかも率直に自らもカトリックだと感じていて、それほど無造作ではないとしても自分を示している。
これって、偏見に満ち満ちていると思うのですがねぇ
ミサや典礼に対しては、多様性だと言いながら
メンタリティーを異質と捉えるのは
矛盾した考え方と思う
メンタリティーと文化とは重なり合うものだけど
ミサなどでの表現方法を異質(不愉快)と
感じることはあっても
メンタリティーを不愉快に思うなんて
自分たちは如何ほどの者なんだ?!
これこそ、おごり高ぶりではないか
ポーランドのマリア崇敬は、全くカトリック信仰と共に授かったものとして、いつどこでもそのようなものであると自認している。それゆえにこのマリア崇敬は、全教会でも重んじられるように努められるであろう。たとえそのようなマリア崇敬が、私たちの感覚には多くの点で異質であるかもしれず、私たちのところでは かなりの抵抗をひき起こすことになってもである。
何?異質のメンタリティーて
結局は聖母信心に対しての侮蔑だったのかな
マリア崇敬は重んじられるように努力しなくても
子供が母親を慕うのと同じで自然と生ずるもの
だから、妨害さえしなければいいだけ
マリア信心を否定するところに血は通わない
マリア信心を異質・抵抗と感じるところには
基本的な愛が見いだせないように感じる
当然のことながら教会の多くのことが、人々にしっくりしていない。だがなぜ多くのことがしっくりしなければならないのか。教会がまさにある人々にとって あるがままのものでなければならないのなら、そのときには他の人々は何をすることになるのであろうか。イタリア人はと言えば、おそらく 彼らにしても私たちドイツ人にしても幸いなことに、法律上の事柄にはあまりやかましくなく、偏狂に受けとることもないのではないか。南米人のマリア崇敬は、おそらく理論の上ではキリスト論が設けている限界に関しては、私たちよりもさほど気を遣わないであろう。私たちのところでは、それと気付かずに、実際にはあつかましい個人主義と利己主義の危険にあるのではないだろうか。
南米よりも西欧の信仰の方が優れているというのか?
最初に、西欧的なものは全否定していたのに
彼らにとって西欧的なものは、
教皇の権威・ヒエラルキーであって
知的な信仰は、西欧が優れていると?
確かにアウグスチヌスやトマス・アクイナス、
ボナベンツラなどの思想家は
西欧で信仰の基盤を整え、発展させたけど
それは、西欧への神様の宿題であった
神の目から、何も、西欧が
信仰面で優れているわけでもないと思う
キリスト論が設けている限界とは何か?
どういう理論なのか?
南米の人々が聖母に心を寄せるとき
イエズス・キリストが存在しないとでも言うのだろうか
イエズス・キリストと聖母は切り離せない存在として
純粋に慕い、祈って、誰に批判されることがあるのか
中南米の人々のように
幼子のように純粋に神により頼む心は、
何よりも尊いとイエズス様は教えられたではないか
神の前に何が尊いのか・・・
フランス啓蒙主義的な個人主義は
独善的になり得る
異端?
カール・ラーナー ?
おそらく教会とその霊性のうちには、この点で今日私たちが全然考えていないような幾多の可能性があるだろう。世俗社会の領域で、まだ全然実現されていないような(だからといってマルキシズム的社会主義者となる必要はない)人々の社会化という課題が私たちに伝えられているように、たぶん教会においても、高度な霊的社会性の諸形態が可能になるかもしれない。その形態は、私たちの反省する意識にとってはまだ十分に知られていないものであり、また私たちがすでに知っていて、しばしば悩まされてさえいるような教会の相互のコミュニケーションの諸形態をも純化することができるようなものであろう。そのうえさらに十分考えられるのは、私たちもまた相互のコミュニケーションと教会的共同生活(たとえば典礼において、また教会のしきたりにおいて)のあり方をおろそかにし、また委縮させていたということである。たしかに私たちは、それらのことを伝統の側から知っていた。ところが真に兄弟的なコミュニケーションにとってのその意義という点では、そのあり方を見くびっていたのだ。
彼らは、「実現されていないような人々の社会化」
という言葉を持ってくる
そしてそれは「マルキシズム的社会主義者となる必要はない」
と断るのは、目指すものが、
それに似た社会主義(共産主義)だからであろう
「高度な霊的社会性の諸形態」と
思わせぶりに甘い誘惑を仕掛ける
彼らが言う委縮させ、
おろそかにしてきた教会的共同生活のあり方とは、
神聖な荘厳ミサにおける聖体の秘跡での
神との一致という「典礼」
ヒエラルキーに忠実な牧者と信徒という「教会のしきたり」か?
彼らの言う「真に兄弟的なコミュニケーション」とは、
首位権など関係ない
皆が同権のそして教役者も信徒もない交わりなのか?
プロテスタント的集まりか?
はたまた活動主体の集まりであろうか?
この19世紀の個人主義的メンタリティーは、広く教会の中においてさえも、当然のことのようにあったのであるが、たとえ私たちが教会の中で本当に霊的な社会主義者なるつもりはなくとも、私たちはそのメンタリティーに恒久的な妥当性と持続性とが約束されているということはできまい。
この言い回し、もうお気づきであろうか?
「たとえ私たちが教会の中で本当に
霊的な社会主義者なるつもりはなくとも」
という言葉は、別に必要ではないのに、あえて使い
「霊的社会主義者」を善きものとして印象付けている
今日でも近代的教会の様式で、自分と自分のキリスト教的使命とを、できるだけ孤立して処理する人は、どうしても自分を変える必要はないであろうが、そういう人は少なくとも他人に対しては、それとは別な、霊的な点でもより兄弟的な生活様式の場を認めてやるべきなのである。
信仰には各々にあった形があり、認め合うべきものである
が、それは、教会の教えに適っている場合だ
「孤立して処理する人」よりも
「兄弟的な生活様式」(集団)が
反カトリック的な存在ならば、たちが悪く
容認などできないのである
普通のキリスト者の生活を見ると、キリスト者の正常の道徳意識においては、誰かが隣人に何ひとつ不正を加えず、またその隣人が誰かに正当に求めうる事柄の要求を満たしたならば、彼は隣人を愛したのだ、という考えが優勢であるように見える。しかしながら実際にはキリスト教的隣人愛という「掟」は、その神への愛とひとつになっていて、利己主義の粉砕を要求しているのであり、また隣人愛とはいっても根本に追いては、人間相互の主張の分別ある調整であり、ただ協調のうちにやり取りすることだけを要求しているのだという観念の克服を要求しているのである。
彼はカトリックでの隣人愛の受け止め方を
矮小化している
「優勢であるように見える」のではなく、
それは最低限を指している
彼は、隣人愛を
「神への愛とひとつになっていて」とよく使う
だが、私は思う
神への愛からあふれ出たものが隣人愛だと
ひとつであって ひとつではない
なぜなら、無神論者も人間愛(隣人愛)を示す
私たちキリスト者の隣人愛は、
神への愛の実りといってもいいと思う
彼は、神への愛と隣人愛ゆえに
利己主義の粉砕を要求する
だが、そうだろうか?
神への愛の成熟によって、
利己主義を脱却していくのではないか
私たちが求めるのは利己主義の粉砕ではなく
信仰の成熟、そしてその実りとしての隣人愛だと思う
神への愛と隣人への愛がひとつであることが本当に理解されるならば、そのとき隣人愛は、その局限された、制御しうる成果という点で個別的な要求というその位置から、全面的な生活実践の地位に移っていく。全面的な生活実践においては、私たちは全体として全面的に要求されているのであり、また過大な要求をされているのであるが、しかしながら、このようにしてまたそのようにしてだけ、自分自身から解放されているというあり方の最高の自由が勝ちとられるのである。
ここで、解放の神学の土台が現れたと思う
彼らの言う隣人愛は、
個別的な要求から全面的な生活実践に移り
全体として全面的に要求される
彼らのいう攻撃的な隣人愛は、
「自分自身から解放されているというあり方の
最高の自由が勝ちとられる」のだそうだ
その際私たちが、隣人愛と兄弟愛とを、根本においては同じことを意味している二つの語として解するならば、また人の心をその最大の課題から免除してくれるような客観的行為の要請としての兄弟愛という語が、隣人愛という語よりも誤解されることが少ないという理由から、兄弟愛という語のほうを好んでそういうならば、そのときは、神への愛と必然的に一つになった兄弟愛という語によって、人間全体とキリスト教の使命の全体が言い表されている、と冷静に言うことができよう。
彼はイエズス会員だから、
このような受け取り方をするのかもしれないが
アシジの聖フランシスコを愛する者として
このような「兄弟愛」なるものには抵抗がある
いや、はっきり言って不愉快だ
「隣人」よりも「兄弟」の方が関係は濃いわけで
「隣人愛」なる言葉は使っても
「兄弟愛」などとは普通は使わない
「神への愛」ゆえに兄弟となり
「兄弟」という言葉には、すでに愛が充満しているからだ
彼らは、ここで兄弟愛という言葉を使うことよって
ますますもって強制力のあるものと
しているのではないだろうか
そして「神への愛と必然的に一つになった兄弟愛」は
「人間全体とキリスト教の使命の全体が言い表されている」
キリスト教の使命は、福音をすべての人に伝えて
ともに神を賛美し、イエス・キリストの救いに
ともにあずかることだったのでは?
ここでは、攻撃的隣人愛=兄弟愛が
人間全体とキリスト教の使命ということになり
おそらく、ここから、
「社会の改革者」イエス・キリストというとらえ方が
出てくるのではないだろうか
彼らは、「実現されていないような人々の社会化」
という言葉を持ってくる
そしてそれは「マルキシズム的社会主義者となる必要はない」
と断るのは、目指すものが、
それに似た社会主義(共産主義)だからであろう
「高度な霊的社会性の諸形態」と
思わせぶりに甘い誘惑を仕掛ける
彼らが言う委縮させ、
おろそかにしてきた教会的共同生活のあり方とは、
神聖な荘厳ミサにおける聖体の秘跡での
神との一致という「典礼」
ヒエラルキーに忠実な牧者と信徒という「教会のしきたり」か?
彼らの言う「真に兄弟的なコミュニケーション」とは、
首位権など関係ない
皆が同権のそして教役者も信徒もない交わりなのか?
プロテスタント的集まりか?
はたまた活動主体の集まりであろうか?
この19世紀の個人主義的メンタリティーは、広く教会の中においてさえも、当然のことのようにあったのであるが、たとえ私たちが教会の中で本当に霊的な社会主義者なるつもりはなくとも、私たちはそのメンタリティーに恒久的な妥当性と持続性とが約束されているということはできまい。
この言い回し、もうお気づきであろうか?
「たとえ私たちが教会の中で本当に
霊的な社会主義者なるつもりはなくとも」
という言葉は、別に必要ではないのに、あえて使い
「霊的社会主義者」を善きものとして印象付けている
今日でも近代的教会の様式で、自分と自分のキリスト教的使命とを、できるだけ孤立して処理する人は、どうしても自分を変える必要はないであろうが、そういう人は少なくとも他人に対しては、それとは別な、霊的な点でもより兄弟的な生活様式の場を認めてやるべきなのである。
信仰には各々にあった形があり、認め合うべきものである
が、それは、教会の教えに適っている場合だ
「孤立して処理する人」よりも
「兄弟的な生活様式」(集団)が
反カトリック的な存在ならば、たちが悪く
容認などできないのである
普通のキリスト者の生活を見ると、キリスト者の正常の道徳意識においては、誰かが隣人に何ひとつ不正を加えず、またその隣人が誰かに正当に求めうる事柄の要求を満たしたならば、彼は隣人を愛したのだ、という考えが優勢であるように見える。しかしながら実際にはキリスト教的隣人愛という「掟」は、その神への愛とひとつになっていて、利己主義の粉砕を要求しているのであり、また隣人愛とはいっても根本に追いては、人間相互の主張の分別ある調整であり、ただ協調のうちにやり取りすることだけを要求しているのだという観念の克服を要求しているのである。
彼はカトリックでの隣人愛の受け止め方を
矮小化している
「優勢であるように見える」のではなく、
それは最低限を指している
彼は、隣人愛を
「神への愛とひとつになっていて」とよく使う
だが、私は思う
神への愛からあふれ出たものが隣人愛だと
ひとつであって ひとつではない
なぜなら、無神論者も人間愛(隣人愛)を示す
私たちキリスト者の隣人愛は、
神への愛の実りといってもいいと思う
彼は、神への愛と隣人愛ゆえに
利己主義の粉砕を要求する
だが、そうだろうか?
神への愛の成熟によって、
利己主義を脱却していくのではないか
私たちが求めるのは利己主義の粉砕ではなく
信仰の成熟、そしてその実りとしての隣人愛だと思う
神への愛と隣人への愛がひとつであることが本当に理解されるならば、そのとき隣人愛は、その局限された、制御しうる成果という点で個別的な要求というその位置から、全面的な生活実践の地位に移っていく。全面的な生活実践においては、私たちは全体として全面的に要求されているのであり、また過大な要求をされているのであるが、しかしながら、このようにしてまたそのようにしてだけ、自分自身から解放されているというあり方の最高の自由が勝ちとられるのである。
ここで、解放の神学の土台が現れたと思う
彼らの言う隣人愛は、
個別的な要求から全面的な生活実践に移り
全体として全面的に要求される
彼らのいう攻撃的な隣人愛は、
「自分自身から解放されているというあり方の
最高の自由が勝ちとられる」のだそうだ
その際私たちが、隣人愛と兄弟愛とを、根本においては同じことを意味している二つの語として解するならば、また人の心をその最大の課題から免除してくれるような客観的行為の要請としての兄弟愛という語が、隣人愛という語よりも誤解されることが少ないという理由から、兄弟愛という語のほうを好んでそういうならば、そのときは、神への愛と必然的に一つになった兄弟愛という語によって、人間全体とキリスト教の使命の全体が言い表されている、と冷静に言うことができよう。
彼はイエズス会員だから、
このような受け取り方をするのかもしれないが
アシジの聖フランシスコを愛する者として
このような「兄弟愛」なるものには抵抗がある
いや、はっきり言って不愉快だ
「隣人」よりも「兄弟」の方が関係は濃いわけで
「隣人愛」なる言葉は使っても
「兄弟愛」などとは普通は使わない
「神への愛」ゆえに兄弟となり
「兄弟」という言葉には、すでに愛が充満しているからだ
彼らは、ここで兄弟愛という言葉を使うことよって
ますますもって強制力のあるものと
しているのではないだろうか
そして「神への愛と必然的に一つになった兄弟愛」は
「人間全体とキリスト教の使命の全体が言い表されている」
キリスト教の使命は、福音をすべての人に伝えて
ともに神を賛美し、イエス・キリストの救いに
ともにあずかることだったのでは?
ここでは、攻撃的隣人愛=兄弟愛が
人間全体とキリスト教の使命ということになり
おそらく、ここから、
「社会の改革者」イエス・キリストというとらえ方が
出てくるのではないだろうか


