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カール・ラーナー ?


終盤になって、彼は、「共同体における兄弟愛」をテーマに書いている

  私たちのところには、たしかにキリスト教的基礎共同体それ自体が 世界の中のどこかで持ちうる
  多くの機関があるけれども、そいう機関は、社会一般の団体や組織によって履行されていて、その
  ために私たちの間では、キリスト教的基礎共同体にとって、ほとんど問題にはならないのである。
  しかしながらこのことは、キリスト教的に生き生きとした愛と兄弟らしさを想像した際に、キリスト
  教的基礎共同体の多くの課題と自己遂行の道が発見されえない、ということを意味してはいない。
  というのは、何といってもますます匿名になっている管理社会の中では、人々はいよいよ孤立してゆき、
  幾多の欲求や困窮に対して、よるべのない孤独のうちに見捨てられた状態で暮さなければならない
  からであり、そうした困窮状態においては今日の世俗社会も普通の教区共同体も、彼らの救援に
  駆けつけることはできないからである。
  このような幾多の欲求や困窮状態にあっては、金銭も民間の機関も助けることができず、むしろ兄弟
  らしい隣人の心だけがそれをなしうるのである。

社会保障が整備された社会にあって
彼は、修道会の存在理由を模索する

そして、社会保障から取り残された人々
無関心の世の中に目を向けられない人たちのためにこそ
自分たちの隣人愛が必要なのだと説く

近代の個人主義の中では、
修道会や組織の統合などが必要になってくるが、
多様な生活様式、取り巻く社会的環境の差を挙げ、
教会内において、それさえも困難だと認めている

しかし、それは、「多様な生活様式、取り巻く社会的環境の差」が原因なのだろうか

修道会というのは、活動主体の集団ではなく、霊性による集団だから
霊性の差というのが大きく関係する
創立者のカリスマによって、それぞれにカラーがある

修道会の統合は、事業体の統合、譲渡とは異なる

霊性は除外して、活動主体に考えるという彼の特徴だ

  今日の状況が大規模の宗教的な相互交流を可能にし、不可欠にしていること、また基礎共同体は
  私たちの間でも必要であること、また教会行政の管轄区域から成る教区共同体は、上から、そして
  単なる個人主義の宗教的欲求のサービス部所から真実の共同体に変質しなければならず、そのような
  共同体の中でこそキリスト者は、教会を成立させている精神と同一の精神から兄弟的にも生きるのだ
  ということを、何ら変えるものではないのである。

「大規模の宗教的な相互交流を可能にし、不可欠にしていること」

これは、彼の主要テーマの一つ

他宗教、また他のキリスト教派との対話は必要だが
しかし、「相互交流」の名のもとに迎合することはないのだ

寛容であることと、迎合とは明らかに違う

教義は、影響を及ぼされたり
曖昧にしたり、染まることなどあってはならない

彼は、自分の主張した教会が参与しての社会変革が、挫折に終わった後も
「真実の兄弟体」への変質を要求し、教区組織を
「上から、そして単なる個人主義の宗教的欲求のサービス部所」と誹謗する

やはり、ヒエラルキーや信心業などの否定へとつなげるのだ



そして、信者一人一人に対して問う

  平均的に私たちは、今日でもまだ非常に非兄弟的なメンタリティーをもった宗教的個人主義者である。
  このようなメンタリティーの個人主義者は、宗教的なことであれば、ただひとりで心の最奥に
  秘められた状態に閉じこめておかなければならず、そのことについては 自分の兄弟姉妹に何ひとつ
  語ってはならないといった印象を与えている。

  教会外の諸宗教運動や宗派などでは、たしかに信仰を表明することをよろこぶ気風があって、彼らの
  とらわれない率直さや声高な調子は、自分のキリスト教の光を升の下に置こうとしない人をさえ
  驚嘆させ、おそれさせることがある。……
  諸宗派の攻撃的な宣伝以外の場所のどこで、宗教的対話がとらわれなく行われているであろうか。…
  人々は宗教的対話をすることは場所柄にふさわしくないと、また不謹慎だと思っているが、しかし、
  このような沈黙は根本的には無意味なのである。

  すなわち、そのような話は、信仰をもたない仲間の間で宗教が理解され、受け入れられるという
  見込みが多少ともあるような時に、当然私たちは良心的に語るように努めなければならない。
  これは非常にむずかしいことであって、教会においては十分に訓練されていない。

これは理解できなくもないが
その理由として次のように書くのは 如何なものか

  なぜなら教会は あまりにも伝統的な宗教的表現形式を無条件に、また排他的に固執しなければ
  ならないと思いこんでおり、そうしないと教会の信仰の実態をあいまいにしたり、失うという危険が
  あるからだと思い込んでいるからなのである。

そして、伝統を大切にする者を「保守反動主義者」として誹謗する
まさに暴言である

  気むずかしい心の保守反動主義者の自信たっぷりな口調で語ってもならない。
  このような反動主義者は、神を自分のブルジョア的財産の防御のために乱用するという危険のうちに
  あるのである。

貧しい者にだって、
伝統を大切にし、神聖さを取り戻したいと願う権利があるのに
彼の言い方だと、それは豊かな者の考え方だと排除されているようで
これこそ差別的だと言わざるを得ない

それに、彼は大きな間違いをしている
私たちが、信仰を語ることに関して訓練されていないのは事実だが
その原因に、伝統的なものをあげるのはあたらない

その最も大きな原因は
教会内、とりわけ聖職者、修道者の
第二バチカン公会議後の混乱、迷走にある

その大きな要因となったのが、彼自身の神学による
伝統、権威、信心業などの否定であり
社会変革への強烈な傾倒である

彼の神学に傾倒する聖職者や修道者のために
要理教育は廃れ、基礎となるものがあやふやになった

伝統を慕う者は、隅に追いやられ、排除され、迫害された

そのような中で、どうして自信をもって語れるだろう

しかし、そのような今の世にも受洗者がある
これこそ、神のみ業、神の奇跡とも思える
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