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フランシスカン

ピオ本田哲郎神父

フランシスコ会学派は、
修道院神学の代表格であったはずなのに

「無原罪のお宿り」を、いろんな論争を経て勝ち得たのは
ドン・スコーツス(フランシスカン)

観想しながら、主キリストと結ばれるはずが
聖書研究所に籍をおいて、
ああでもない・こうでもないとやっているうちに
気が付いたら、主から離れ
自分の力だけを追求するようになっていた?

フランシスコ会には有名な司祭がいっぱいいらっしゃるけど
皆さん、実績も残し、お忙しいから
のんびりしている聖書学者の彼にお鉢が回って来て、管区長に?

任期中、何の実績も残せなかった・・・
フランシスコ会の管区長というのは個性的な修道者のお世話役

でも、心のどこかで、そのことを誇りにしている?

後任の管区長方からは、
比べようのないところに自分をもってきた?

そんな感じがする  
意地悪でしょうか?

それほどに、彼の管区長時代の評判は・・・

講演会で、司会者が
「元管区長」と紹介するのはよくあるが
彼の場合、講話の中で、自ら名乗るという
修道者には考えられないことをなさっている

聖フランシスコは、へりくだる人・・・
この人のへりくだり、謙遜って

『管区長までした私が
 へりくだって釜が崎で無一物になって
 小さくされた人たちと共に暮らしているんだ!』
と言わんばかり・・・自己満足?

修道院があっても、そこには住まず
別に部屋を借りることが清貧?
修道服があるのに、それを着ず
柄物シャツを着るのが清貧?

ゼノ修道士はボロボロの服を着て全国を回り
恵まれない人のために寄付や物品を募り
自分のために使うことはなかった

今、日本におられるご高齢の外国人宣教師の
スータンやローマン・カラーのシャツを見て欲しい
袖口はすじ切れたシャツでも、キチンと着ていらっしゃる

聖フランシスコや聖クララの修道服だって
接ぎあてだらけでボロボロだった

修道服とは本来そういうものだ
何を着ようか思い煩うことなく
全てを主に委ね、全幅の信頼のもとに
小さな者として生きる

彼の行状は悪魔的だ

◆ミサでの食パン(菓子パン)・ジュース使用

新教会法第899条
(1)ミサは、キリスト自身及び教会の行為であり、そのなかにおいてパンとぶどう酒の形色のもとに実体的に現存する主キリストが司祭の奉仕職をとおして自分自身を父である神に奉献し、かつその奉献と結ばれる信者に自らを霊的食物として与えるのである。


◆独自の聖書解説による教義否定
聖母はレイプされた等など


ここまでは、今まで「イエスの惑星」から批判され続けてきた
が、今回、資料を調べてネットを検索しているうちに
新たなことが判明した

◆奉献文の変更

典礼憲章第22条
(1)聖なる典礼の規制は、教会の権威だけに依存している。この権威は使徒座にあり、また、法の規定によって司教にある。
(2)法によって与えられた権能によって、典礼に関することの規制権は、一定の地域内においては、合法的に構成された種々の地域所轄司教団にも属する。
(3)したがって、他の何人も、たとえ司祭であっても、自分の考えで、典礼に何かを加え、除去し、変更してはならない


下記のブログを見ていただきたい

http://yaplog.jp/fxmichandeesu/archive/126
「釜ヶ崎で本田神父とお会いしました」
2009年05月10日(日) 16時51分
朝8時半にフレンドリーの友人と新今宮駅で待ち合わせて
一緒に『ふるさとの家』に行きました。・・・
ふるさとの家は、釜ヶ崎の方々に憩いの場として開放されています。
教会ではありませんが、
日曜日には、地域の方が気楽にごミサにあずかれます。
ごミサは、祈りも奉献文も、本田神父が釜ヶ崎独自のものにされています


【援助マリア会シスターEのブログより】
http://www.todo.eccl.jp/sub6_kama.html(2003年1月)
ミサは第一日目は「ふるさとの家」で、本田神父様の司式で「労働者と共に捧げるミサ」にあずかりました。ミサの式文もそれに合わせて作ってあるものを左右交互に読みながら祈るものでした。ご聖体拝領は、食パンの耳を落として小さく四角に切ったパンを御血に浸していただきました。次の日は、英神父様の司式で「愛徳姉妹会」の聖堂で、シスター方とセミナー参加者が一緒に。最後の日は「旅路の里」で守護の天使のシスター方と一緒でした。日本基督教団の牧師さんが3日間「この釜ヶ崎では特別です」とご聖体をいただかれました。・・・

http://www.todo.eccl.jp/sub2-1.htm2月13日(木)(2003年)
・・・今日の朗読で思い出したのは、「釜ヶ崎のセミナー」での3日間のミサでした。
それは、“特別”と言って日本キリスト教団の牧師さんもご聖体を拝領されたのでした。
まさに、パン屑ですよね。
3日目にこの方は「ぼくにもマザーテレサがご聖体が一日の糧、力であることが少し分かりました」と
おっしゃったことでした。
一日目に「ふるさとの家」のH神父様は「労働者のミサ」をされ、「ここに集っている皆にご聖体を差し上げたいと思いますが、もし、いやだと思う方は申し出てください」と言ってご聖体(食パンの耳を落とし、小さく四角に切ったもの)を配られ御血に浸していただきました。決して、子犬にやっておられるのではありません。
しかし、他の神父様方もあずかっておられましたが、「あれは、やばいよね」と首をかしげておられました。
2・3日目は、「旅路の里」のH神父様(イエズス会)の司式でした。牧師さんが「拝領出来ますか」と聞かれると「この“釜”ではそんなの関係ないですよ。だいたいこんなことに縛られるのがおかしいのとちゃいますか」と答えられました。イエスさまも同じでしょう。
時々、ファリザイ的見方の自分が恥ずかしくなります。“信仰を増してください!”・・・



このような逸脱を有名な神父がすることにより
長崎の中心地のシスターであっても受容してしまう
そして、他の会の司祭にまで伝染する

まるで、底なし沼か 蟻地獄

このイエズス会司祭は、
現在、鎌倉のイエズス会日本殉教者修道院所長として
説教CDまで出しておられるが
誤りに気付いて立ち返られたことと信じたい

本田神父だが、もうここまで来ると
カトリック司祭とは言えないと思う
本田教教祖にでもなられては?

こういう人物を重用する「正義と平和協議会」
これもカトリックの部門としては失格だと思う

コメント

聖書も独自の翻訳のがあるのでは?

本田神父の独自の解釈により翻訳?された【聖書】もあるのではないですか?

独自の本田式聖書がありますよね?

こうなると

カトリックでもなく、キリスト教でもなく…やはり、本田教になるのではないかと
一種の新興宗教と言うか…

ゼノさんを見習って欲しい!

教区時報

今日、うちの教区の教区時報をもらったら、
教区典礼委員会の記事があったのだけど、その中で

「第二バチカン公会議以降、世界の教会では様々な典礼的試みや工夫が・・・・あるものは本質をはずれた逸脱を招いたようです。・・・・各自がそれを考え深めていくことはとても大切なことですが、判断を下すのは公の機関という事になります。典礼は私的な物ではなく公的なものです。ミサの司式者である司祭も、会衆である信徒も・・・・私的な思いでミサを歪めていいものではありません。」
いうことが書いてありました。

うちの司教様、バチカン巡礼から帰られたけれども、。もしかして感化されて何か指示をだされたのかな?

少しいい記事でした。

ケニッチーさんへ

大阪教区では、もうこの3年ほど毎年のように、司祭はミサを勝手に変えてはならないと繰り返し教区長メッセージで言われてきました。

それで、この状態です。

聖香油のミサでは、司祭団は教区長に毎年、従順の誓約更新をされます。

聖香油ミサにおいて、神のみ前での誓いが、どういうものであるか・・・e-259

従順の模範を示さずに、信徒に何を示すのでしょうか?

でも、セルフインティンクションは、日本で信徒にはっきりと方針の説明をしたのは、京都・大阪教区だけです。

それでも、守らない修道会があるんですから、困りものです。

No title

ピオ本田神父の記事を読ませていただいて感じた事なんですが…

普通の神様を愛しているカトリック信者ならば、まずこの神父様のミサには与らないです。

悪い言葉でいうなら、e-192 の皮を被った狼、又はユダ、又は反キリスト、又は背教者でしょう。

聖フランシスコは清貧の聖人です。
身なりだけ清貧ではなく心も清貧でありました。

本田神父に言いたいです。
主が聖フランシスコに何と言ったか覚えていらっしゃいますか?
『私の教会が崩れ落ちる』とおっしゃいました。
これは、聖フランシスコの後継者である聖フランシスコに従う全ての司祭に言った言葉であると思います。

もし、あなたがカトリックの本当の司祭なら主の言葉に耳を傾けてください。

そして、聖変化こそが人間が行い得る天地創造以来の最大の奇跡だと言う事を感じ取って下さい。

また、聖母様がいなければ人類は救われなかったという事も感じ取って下さい。
                 (代理投稿)

教団、教派?

始めまして

日本正教会(東方教会)に籍だけおいていますピーメンと申します。
東方教会は、カトリックさんにとって”異端”でしょうか?

ミサ通常文の”キリエ”がギリシャ語であることを思えば、
また旧約聖書ははじめヘブライ語、のちギリシャ人70余人の学者
によってギリシャ語に翻訳され(セプチャギンタ)のちラテン語。
新約聖書ははじめギリシャ語、のちラテン語・・・ということから、
ギリシャ正教会のほうが、ローマ・カトリックよりも歴史が古い
ことは間違いないと思っています。

初代教会五本山、エルサレム、アンティオキア、アレクサンドリア、ローマ、コンスタンチノープルのうち、
ローマがカトリック、コンスタンチノープルが正教会(オーソドックス)のそれぞれ元になったと
認識しています。(あとの三つはイスラム教徒の手に落ちた)

”異端と戦う”と序文にありますが、正教会では、正教会以外はすべて”異端”と見ています。と言っても、”異端=Heresy”は、差別語ではなく、”正教会とは完全に教理が一致しない別のキリスト教”という意味です。ですから、三位一体を否定したアリウス派は”異端”ではなく、”異教=もはやキリスト教の仲間ではない”とみなしています。

そこで・・・
正教会もカトリックも、旧態然とした体質は一緒だと感じましたね。
私はバプテスト、聖公会、アッセンブリーズなど色んな教派を見てきましたが、共通して言えることは
”教団・教派によるヒト・カネの囲い込み”です。

何も信徒を増やすばかりが”伝道”ではないはずです。カトリックの神父さんは教会外からも
”良い評判”を受けておられるでしょうか?(ティモテⅠ3:7)

私の経験では、教派の壁を越えて尊敬できた聖職者は、バプテストもT牧師さんだけでした。
正教会の神父も尊敬できません。俗物化しています。殆どの教会がパリサイ化しています。
ガラテヤ書を読めばよくわかります。全章朗読しても20~30分で読めますよ。

URLは、本田哲郎神父さま讃える文章です。
教団内部の評価と、教団外部の”隣人たち”の評価を比べて見られたらいかがでしょうか?

>>このような逸脱を有名な神父がすることにより
>>長崎の中心地のシスターであっても受容してしまう
>>そして、他の会の司祭にまで伝染する

失礼ながら、笑止千万!
主イエス自らが、ユダヤ教からの”逸脱者”だったのではないですか?
ユダヤ教の”ラビ”でおられた主イエスが”逸脱行動を取られた”ところから
”キリスト教=新しい教え”が始まったのではないですか?

あなたがたの”正・邪”は教団内部でのみ通用する規律ではないでしょうか?
カトリックでも故;マザーテレサは宗教、教派の壁を超えて尊敬されるべき方だと思います。
正教会にもセルゲイ杉原千畝兄がいます。
(ユダヤ人6000人の命を救った外交官)

バプテストには、マルチン・ルーサー・キングJr牧師、ジミー・カーター元大統領。

本田神父さまは、自らギリシャ語から聖書を翻訳されたと聴きました。
その中で、マタイの5章”山上の垂訓”の”心の貧しき者は幸いなり”くだりを、
”霊的に満たされていないゆえに神に力づけて頂ける状態”と説かれたそうですが、
一方、新共同訳聖書の翻訳に関わった、日本聖公会の故;M司祭さんによると、
「”心の貧しき者”ではわかりにくい。私は、”神により頼む者”という訳を提案したんだが・・・」
と仰っていました。
(R大学出身のよしみで聖公会の教会にも行きましたので・・・)

多くの教会では、どこの教会にもいつかない私のような者を軽蔑されるところが多いですが、
私の聖名”ピーメン”は、砂漠の師父ピーメン、
キリスト教がローマの国教になったとき、権力側に着くのを嫌って生まれ故郷のエジブトで
孤高の信仰生活を送った聖師父からもらっています。・・だから教団、教派、教会には行かないのです。

最後に、正教会で学んだことの伝道を(一信徒として)・・・

①フィリオクエは間違いです。聖霊(聖神)は”父と子”ではなく”父”から出ています。
根拠は・・・創世記第一章。”地は混沌としていた。神の霊が水面を覆っていた。
(神・父からすでに聖霊が出ている!)神は言われた。「光あれ!」
・・・この「光あれ!」という"神・父のことば”が、”ロゴス=御子”なのです。
受肉(正教会では”籍身”)する前の主イエスです。

②正教会ではマリヤ崇敬はカトリック以上に熱心です。
♪常に幸いにしてまったく疵(きず)なき生神女(しょうしんじょ=テオトコス)

しかし、マリヤさまの無原罪説は採りません。
マリヤさまも私たちと同じように原罪を背負って生まれて来ましたが、
主イエスを身ごもって、天使ガブリエルから受胎告知
(正教会では”生神女福音)を受けたときに、

「みことばのまま、この身になりますように
 Let it be to me according to your word」
・・・と”信仰告白されました。この”Let it be”という信仰告白によって
”義”とされたのであります。元ビートルズのポール・マッカートニーは、
ここ(ルカ1:38)から、”Let it be”という言葉を取ったと考えられます。

③”煉獄”は間違いです。これはカトリックによる”発明”です。

④教皇権は正教会では、一部ウクライナの信徒以外は認めていません。しかし
教皇さまは、正教会の府主教と同等な聖職者とみなしています。
正教会には全教会に君臨する聖職者はいませんので・・・

正教会では、聖体拝領を聖体礼儀(リトゥルギア)と言います。
(プロテスタントでは聖餐式)
正教会の聖体礼儀は、頑固に他教派の信徒には受けさせません。
聖公会の司祭に受聖餐拒否されたあと、
(他教派で先例を受けていたが聖公会では司祭の判断事項であるので)
正教会に入信(帰正)し、聖体礼儀を受ける身分になりました。
正教会の聖体礼儀は、ローマ教皇でも受けることができません。

・・・・・でもそれがなんになるのでしょう?”心”が伴わなければ、
どんな立派な僧衣を着てどんなおごそかな司式をしたって、
空しい”宗教儀式”にすぎないのではないでしょうか?

聖公会の韓国人の司祭さんを尋ねたとき、彼は自分が食べようと思って持っていたアンパンを
当然のように半分割いて私に差し出しました。
・・・司祭さんがパンを割いたのだから、(それも隣人=友情のしるしとして)
心は”聖餐=分かち合い”だと思っています。

私に受餐拒否をした司祭の差し出すホスチアは、”聖餐”とじは感じません。

✝同じ聖堂の中である者は飢えているのに、ある者は酒に酔っている

”隣人愛”とは、もっとも基本的な、”食べ物の分かち合い”ではないでしょうか?

くれぐれも、キリスト教会が、パリサイ化なさいませんように・・・

✝間違った福音を伝える者は、のろわれよ! (ガラテヤ書)

・・・・・聖使徒パウロの説く”信仰義認”、これがルターの宗教改革の
原動力になった。カトリック内部でも改革が起こり、
イグナチウス・ロヨラ、フランシスコ・ザビエルが活躍した。

・・・ついでに
マルチン・ルターは、マリヤ崇敬に熱心でした。マニフィカートも作曲しています。
あるカトリックのシスターが、
「ルターはマリヤさまの愛から離れてしまった。」
と言っていましたが、これは間違いです。

ルターはカトリック以上にカトリックの典礼を熟知していました。
ルター派の礼拝はミサです。教会音楽の最高峰
(立教大学名誉教授皆川達夫先生のたまわく)
J.S.バッハはルター派です。

・・・そこんとこお間違えなきよう。

”異端と戦う”も良いですが、”異端=Heresy”という言葉を定義しておかないと、
戦うべき相手がわからなくなりますよ・・・・・

本田神父さまとて神ならぬ身。無謬であるはずもありませんが、
今まで他の人がやらなかったことをされています。
批判するにしても、認めるにしてもちゃんと根拠を明らかにしませんと、
主イエスを十字架にかけたパリサイ派と変わらなくなりますよ。

聖フランシスコ(当時としては”逸脱行動)を認め、その足に口づけした
教皇インノケンティウス三世の謙遜さが持てますかどうか・・・

  主や光栄は爾(なんじ)に帰す 今もいつも 世々に アミン!











ピーメンさんへ

異端について、長文の御意見をありがとうございます。

あなたは、東方教会信者とのことですので
私たちと認識が異なって当然かと思います。

私たちはローマ・カトリック信者としての意見を書いています。

東方教会は、ローマ・カトリックにとって
異端ではなく、別れてしまいましたが「姉妹教会」です。

どちらの教義がどうのこうのと言うのは
あなたがどのように感じられるかはご自由ですし、
私は教会の責任ある立場の方にお任せすべきと思います。

私は使徒継承の教会を信じておりますので
天国の鍵を託された方につながり、教導に従うべきと思っています。

私が言う「異端」は、大きく2つあります。
1つは、キリスト教全体から認められていない異端
統一協会、モルモン教、エホバの証人など。

もう1つは、ローマ・カトリックに所属しながら
堂々と、教義に反することを言う方々です。
その方々が、ローマ・カトリックから離れていれば、
私は別にとやかく言うつもりはありません。
これは、一個人の問題ということになるからです。

本田神父様はあなたの目には、ご立派な方なのですね。
でも、私たちにとっては教義を否定し、信者を惑わせ、
何よりも秘跡を冒涜する看過できない司祭です。

ある一部の方々から社会的評価が高くとも
彼の行いは、アシジの聖フランシスコの精神を
踏みにじるものだと思っていますが
ローマ・カトリック以外の方々が、
彼を慕われるのはご自由にというしかありません。


ウチの司教さまが・・・?

maggieさん

早速レスありがとうございます。
無視されなかっただけでも光栄です。
あなたがどう思われるかわかりませんが。
私は教団組織に対して、アイデンティティはありません。

色んな教派を転々とした関係で、各教派の優れたクリスチャンのことを知る機会に恵まれました。
優れたクリスチャンなれば、教派の違いは気にならなくなるものだと思っています。

バプテスト派の尊敬するクリスチャン、新垣勉さんが、プロテスタントの牧師でありまがら、
カトリックの聖歌”アヴェ・マリア”を歌う。それが正教徒の私が感動して聴いている・・・・

この話を、カトリックのシスターたちがやっている書店で話しましたら、シスターから返って来た言葉は、
次のとおりでした。

「あなたは”教派の壁”にこだわっている。
”教派の壁”にこだわってはいけないと、ウチの司教さまが仰っていた。」

・・・・空いた口がふさがりませんでしたね。”教派の壁”にこだわっているのはどちらでしょうか?
それも”教派の壁”にこだわってはいけないというのが”ウチの主教さま”なんですね。
プロテスタントの牧師さんが、
「教派の壁にこだわってはいけない。」
と言ったら、このシスターは聴き従ったのでしょうか?

私のほうこそ、”教派の壁にこだわらず”優れた聖歌を分かち合う気持ちで申しあげたんですけどね。
シスターの返事は、
「ウチの司教様が・・・・・」
・・・どちらが”教派の壁”にこだわってるんでしょうか?

オーソドックスだろうがカトリックだろうがバプテスト、メソジスト、プレスビタリアン、会衆派、フレンド派etc.・・・見上げるお方は一人のはずです。ひとりの主イエスよりも、”教団組織”のほうが大切ですか?

欧米の各国は国によって主なる宗教が決まっています。わが国では確固たる民族の宗教が固まっておらず、
「私は無宗教!」という人が多数派です。そんな中で、”キリスト教”の各教派が、”教会の一致”という大命題に取り組まず、各教派が勝手なことを言っている。でもね、世間から見れば、”キリスト教”でひとくくりなんですヨ。それがわかってなければ、”伝道”などできるはずがありません。

あなたは”カトリック”という枠から、一歩も出ようとしておられない。
カトリックは、聖公会、正教会と同じく、あまり聖書を読んでおられない。

マタイ伝 大宣教命令
✝ 世界中に出て行って、私の福音を述べ伝えなさい

あなたがたは外に出て行こうとはせず、ひたすら”囲い込もう”としている。”異端と戦う”
なんて言ってるけど、”異端”とは何か?”戦う”意味がどこにあるのか?明らかにしていない。

だから日本社会では、教派によらず、クリスチャンは”変わった人”と見られているのですよ。
「キリスト教同志の”内ゲバ”」と取られるのがせいぜいです。

教団内部で納得してみな幸せならばそれで良いかも知れませんが、それでは”伝道”などとても出来ませんよ。そもそも”伝道”が具体的にどういうことをすることなのか?考え直してみることも必要ですね。




アシジの聖人

http://www.youtube.com/watch?v=t-msmuDZfRs
↑教皇インノケンティウス三世に謁見する 聖フランシスコ

maggie さんは、このシーンの登場人物の誰に近いとお考えですか?

ピーメンさんへ

>maggie さんは、このシーンの登場人物の誰に近いとお考えですか?

???

私のことですか?それとも、本田神父のことですか?

私なら、聖フランシスコの後ろにいる弟子たちでしょうね。
軽い戸惑いを覚えつつも、フランシスコに従う人たちです。

本田神父は、このシーンには登場しないでしょうね。
だって、権威を認めていないのですから。

聖フランシスコのキリストを思い、
キリストによって油注がれ、母なる教会を導くように
聖霊の照らしをいただかれている教皇様に対する
敬虔な態度は素敵でしたね。

maggieさんへ

>>私が言う「異端」は、大きく2つあります。
>>1つは、キリスト教全体から認められていない異端
>>統一協会、モルモン教、エホバの証人など。

>>もう1つは、ローマ・カトリックに所属しながら
>>堂々と、教義に反することを言う方々です。
>>その方々が、ローマ・カトリックから離れていれば、
>>私は別にとやかく言うつもりはありません。
>>これは、一個人の問題ということになるからです。

”異端=Heresy"という用語の定義の問題だけではないのですね。
ちなみに、”キリスト教全体から認められていない教団”は、もはや
”キリスト教”ではないのですから、正教会では、”異端”ではなく、
”異教”と言い切っています。ですから、御子イエスの神性を認めない
アリウス派は、”異端”ではなく、”異教”です。”異端”にしても”異教”
にしても、善悪とはまずは関係ありません。

むしろカトリックさんや正教会では、一部の福音派(もどき?)の教団がするように、ヒステリックに伝統的な仏教や神道までも”異教”と呼んで
”偶像礼拝”とか”風物崇拝”と言って退けるようなまねはしていませんね。聖公会も。その分、理性的だと思っています。

”異端=Heresy”は本来差別語でも非難する語でもなかったのが、
いつも間にか差別語になってしまっている。

失礼ながら、maggieさんは聖フランシスコの仲間たちには思えません。
フランシスコは”異端審問”に合っているからです。教団組織が、後ろ盾を持たないフランシスコと仲間たちを、裁こうとしているからです。
私ピーメンも、神ならぬ身、断言はできませんが、むしろ本田神父さんのほうが、聖フランシスコに近いと感じています。もっとも、部外者としてはイメージや新聞記事でしか判断できませんが。

聖体拝領の形式にこだわるよりも、本質=心を見るべきではないかと思いますね。神は心を見られる。正教会の”聖体礼儀;リトゥルギア”でも、パンとワインが手に入らなかった時代、米飯と味噌汁で聖体礼儀を行なったこともあったと聞いております。

私としてはむしろ、「正義と平和協議会」そのものに、危惧を感じています。私は聖公会の学校を出ましたので、聖公会の教会も知っています。
私の地元では、カトリックや聖公会の聖職者で、”信仰”と言うよりも
”教義・教理”というよりも、”イデオロギー化”して政治活動に熱心で、
”信仰生活”の本質を踏み外しているのではないか?と思われる方々がいます。

教団内部という”狭い視野”で、社会を政治を見ることは、非常に危険なことだと思うのであります。聖公会の聖職者で、政治的イデオロギーに走り、反論を認めないような狭量な人々もいます。

教団内部には”言論の自由=日本国憲法第20条”はないのでしょうか?キリスト教会で何か”心情左翼化”した人々は、さかんに”平和主義=日本国憲法第9条”を口にしますが・・・・

聖フランシスコは、バチカンから”異端審問”にかけられた人なのですね。時の教皇インノケンティウス三世がフランシスコを認めなければ、
フランシスコは死刑になり、ヤン・フスのように”殉教”していたでしょう。
教団内部に居場所を置きながら、聖フランシスコの仲間たちとは、何か違和感を感じますね。

むしろ教皇に従っていたブラザーたち。教皇に異を唱えることはできないが、教皇がフランシスコを認め、その足に口づけしたことで内心ホッとして、喜んでフランシスコたちを見送ったブラザーたちではないでしょうか?

”聖フランシスコの仲間”を自認されるならば、教団組織に居場所を作るべきではないのではないか?と思いますよ。

(・・・・ま、”はぐれクリスチャンのひがみ”と取って頂ければそれも結構ですが。聖フランシスコは当時としては”はぐれクリスチャン、主イエスも当時としては”はぐれユダヤ教徒”だったと思うのですけれども。)








ピーメンさんへ

あなたが、ローマ・カトリックではないので
これは、平行線をたどることですが
はっきりと言えること、それは

聖フランシスコはご聖体を何よりも大切にしたということです。

異教徒に和解のために話をしには行っても
異教徒にご聖体を配るというようなことはしませんでした。

聖フランシスコは、神御父の愛、キリストの愛そのものであるご聖体を
軽んじるようなことは、一切しませんでした。

キリストを観想すればするほど、ご聖体を大切にした

これが、聖フランシスコの修道生活の基礎です。
そして、キリストに、より一致するために
清貧の生活を選んだ・・・・

表向き清貧な生活をしているから
聖フランシスコの優秀な弟子と限りません。

そこに、神の愛とキリストの人性のすべてが1つの形となってくださった
ご聖体へのへりくだりと霊的渇望がなければ
信仰者として何の意味があるのでしょうか?

聖フランシスコの精神に真に触れるならば
ローマ・カトリックから離れて、有り得ないと私は思っています。

ご聖体を軽んじたり、冒涜するような弟子は
聖フランシスコの弟子として有り得ないのですよ。
いくら、それが元フランシスコ会管区長であろうと
高名な、社会活動家、聖書学者であろうと。

ご聖体に対するこの感覚は、きっとおわかりにならないでしょうが。

あきれてものが言えませんね・・・

>>聖フランシスコの精神に真に触れるならば
>>ローマ・カトリックから離れて、有り得ないと私は思っています。

もう一度、動画を見て下さい。
maggieさんはご自身を、”聖フランシスコの仲間の立場”と仰った。
ローマ・カトリック=教団は、聖フランシスコ”異端”として裁こうとしたのではないですか?教団組織をバックに、離反者を裁こうとしている人が”聖フランシスコの仲間”とは、笑止千万ですね。

いずれにしても、あなたが教団組織の論理でしか発言できない方だということがはっきりしました。ローマ・カトリックは正教会と同じく歴史が古い分だけ、歴史上の過ちも多いと思います。

免罪符(しゅくゆうじょう)の乱発、異端審問、魔女裁判・・・

聖体礼儀は私も正教会で随分受けて来ました。正教会のリトゥルギアは他教派の信徒やノン・クリスチャンには一切受けさせず、その意味では”純粋”を保っています。私は例えば東京のニコライ堂で聖体受けることができます。あなたはできません。ローマ教皇とて正教会の聖体に預かることは出来ません。

・・・・しかしそれが何になりましょうか?聖体に聖変化が起きるとか起きないとかいう愚かな議論には興味がありません。ご聖体のマティリアルよりも、それを拝領する場所に、主がご臨在されるかどうかが重要なのですよ。

聖フランシスコは映画化もされ、カトリック信徒だけの聖フランシシコではありません。

カトリック信徒だと言われる麻生元総理が、喜納昌吉議員に
「あなたはクリスチャンでしょ?」
と聞かれて、
「クリスチャン?いや”カトリック”ですよ。」
と答えておられましたね。

してみると、カトリックとしては他のキリスト教諸派を見下し、別物と自らを思っておられるのでしょうかね?

カトリックのほうが、”キリスト教”ではなく、”カトリック教”という特殊な宗教ではないですか?

①フィリオクエ ②煉獄 ③マリヤさまの無原罪 ④教皇権
・・・これらは本来の”キリスト教”の教義にはないものです。
他人を”異端”と呼んで裁く前に、自らの”異端要素”を検討して
みられたらいかがでしょうね?

まあ、カトリックさんが身内だけ囲い込んで満足している”宗教団体”
ならば、私などが口を出す筋合いではないですが・・・・

しかし第一ティモテ3章7節にはこうありますわな・・・

✝教会のかしらとなる者は、教会外からも良い評判を得る者でなければならない。

オタクの教団で、教会外からも良い評判を受けておられる方は、どなたでしょうか???

ピーメンさんへ

>聖フランシスコ”異端”として裁こうとしたのではないですか?

当時の高位聖職者の一部は、彼を理解できず、異端や、気の狂った者のように扱おうとしました。
でも、教皇様は、聖霊の照らしを受けて、その霊性が如何に大切なものであるかを悟られ、擁護されました。
だから、修道会として認められたんですよ。

あなたは、あった出来事の1コマだけを断片的に批評されますが、私はそれを通して神様が如何に導いてくださったかという視点で見ます。

>聖体に聖変化が起きるとか起きないとかいう愚かな議論には興味がありません。

このようなご聖体に対して「愚かな」「興味がない」という信仰の方には、何を言っても無駄と思います。
あなたが正教会の信徒であったとは・・・

>それを拝領する場所に、主がご臨在されるかどうかが重要なのですよ。

これって、見事にプロテスタント的です。

こういう論議をしたければ、カトリック司祭にしてください。

確認しておきますが、私は聖フランシスコをカトリック信者だけのものと言ったことはありません。

ただ、聖フランシスコの精神を真に深く知ろうとするならば、ローマ・カトリックのご聖体への信仰を避けては通れないと言ったまでです。

どうぞ、お間違いなきように!極論を仰らないでいただきたいです。

ここは、私のブログであり、日記であります。
神学論争をするために設けたブログではありません。

どうぞ論争を続けてください!

maggieさん!
「ここは、私のブログであり、日記であります。
神学論争をするために設けたブログではありません」と言っておられますが、
私はそのような逃げの態度は間違っていると思います。

このブログが公開されており、その結果、誰もが読むことができ、
また、コメントを投稿する欄がある以上、
読者が自分の様々な意見や考えを公的に返答することが許されているはずです。

maggieさん!
そうではありませんか?

maggieさんはこのブログでご自分の意見を明白に主張し、
特に、本田神父という個人名を公表して、
他者を鋭く批判しておられる以上、
それに対する自己への批判も正面から受けるべきです。

私はカソリックでも正教会でもありません。
また、本田神父の事も良く知りません。
しかし、
ビーメンさんの意見は新鮮で、大変勉強になって教えられています。

真剣な論議は
私にとってもあなたにとっても、また、多くの人にも有益であり大切です。
どうぞ、堂々と議論を続けてください。v-42

論点はどこなのでしょう?

ず~と読み返してみると・・・
真剣な議論ではあったとしても論点が”本田神父”ではないようですね。
ピーメンさんは基本的に”反組織中心主義””反権威””反体制”的なスタンスではないですか?もしそういう傾向をお持ちであれば正統カトリックに対しては反発を感じられるかもしれませんが・・・
このエントリーの本文はさておき、maggieさんがコメントで返答されている内容は伝統的カトリックとしては”正統”な話だと思います。
そのカトリックの”正統”に関わる部分が議論の中心となるのであれば「こういう論議をしたければ、カトリック司祭にしてください」というmaggieさんの言葉は頷けますけど・・・

カトリックという”異端”

異端=heresyとは、正統=orthodoxに対する概念です。
”異端”は本来、分類語であって差別語ではないのです。
正教会orthodoxから見れば、カトリックは”異端”です。
なぜならば、教理が完全には一致しないからです。

①フィリオクエ②煉獄③マリヤさまの無原罪④教皇権

これらは初代教会にはなかったものであります。正教会では
”カトリックの発明”と言って否定しています。

あなたがたは、ことあるごとに”異端”という言葉を使って他教派や
自教派の離反者を批判しますが、自らの教団が”異端”と呼ばれうる
ことも自覚しておいて頂きたい。

私も正教会を代表して話してはいません。正教会がカトリックを教理上
”異端”としているという客観的事実を述べているに過ぎません。
しかし私の乏しいキリスト教史の知識の中でも、教団組織の中で権力をふるっている人々よりも、追放されたり、離反したりした人たちが次の歴史を作っているように思えます。

カトリックがかつて(あるいは今でも)”異端”と呼んだ人々
・・・ヤン・フス(名誉回復はヨハネ・パウロⅡによりますか?)
  マルチン・ルター、ジャン・カルヴァン、ツヴィングリ・・・

英国国教会(国ごとカトリックから離反)から追放されたり迫害されたりした人々・・・
ジョン・ウィクリフ;聖書を英語に翻訳したかどで死後骨を焼かれた
              チェコのヤン・フス(火あぶりにされた)に影響               を与えた
ジョン・スミス;国教会の迫害を逃れてオランダでバプテスト派を立ち上         げる。現代米国では最大派閥になっている。この教派か         ら、キング牧師、ジミー・カーター氏が出ている
ジョン・ウェスレー;国教会の長老であったが、迫害を受けた。米国では
           二番目の派閥になっている。

・・・そうそう、私は”正統カトリック”については素人ですから、謙虚に教えを請いたいと思いますが、宗教改革者たとえばマルチン・ルター教授の名誉は回復しているのでしょうか?

あるカトリックのシスターが、
「マルチン・ルターはマリアさまの愛から離れてしまった。」
と仰ってましたが、ルターはマリア崇敬に熱心で、マニフィカートも
作曲家として多く作曲したと聴きました。

もし、宗教改革者マルチン・ルターが、カトリックの教団内で未だに
”異端者・離反者”として非難されているのであれば、なるほど
何を話しても”平行線”になりますね・・・・





hana hana さんへ

何か、思い間違いをなさってませんか?

このブログは、私が日々感じたことなどを書き連ね、それに対する意見交換をするところです。
討論するために設けたものではありません。

でも、当然、ローマ・カトリックが土台となります。
そのローマ・カトリックを受け入れられない方は、対象外です。

そのような方は、カトリック司祭のところに直接言ってくださればよろしいかと思います。

信じる、信じないは、誰かに明らかな迷惑をかけない限り、個人の自由ですし、誰も強制することはできません。
これは思想信条の自由であって、とやかく言われることはないのです。

ローマ・カトリックを土台として、自由に意見交換が出来るように掲示板も設けています。
掲示板と個人ブログの違いをお分かりでしょうか?

ただ、思想信条の自由があるのですから、他の教派の批判は致しませんし、神の呼び掛けに、如何に素直に心を開いて応えていくか、信じて歩んでいくか、それは個人の責任でもあると思っています。

ピーメンさんへ

あなたは、私のブログの対象外の方です。

何故なら、あなたは、ローマ・カトリックに対して悪意のようなものを持ち
それに対して反発し、論争を吹っ掛けているからです。

それは、私のブログの基本的な「ゲスト」の範疇からかけ離れています。

しかし、せっかくのあなたのコメントに、無視するのも隣人愛に欠けるかと思い、限られた範囲でお答えしてきましたが、私はあくまでも信仰上の話で、神学論争や教義云々の問題ではないのです。

私は、信仰上から説明し、あなたは教義に反発をされる・・・私は教義を信じるから、ローマ・カトリック信者であって、あなたは他の教義を信じるから他の教派なのです。
ここに何の矛盾もなく、「こう信じなさい!」と言ったこともありませんし、どう信じるかは、あなた次第です。

一言付け加えるなら、発言されたシスターは、大雑把にプロテスタントを捉えていたのでは?と思います。
私自身も、あまり必要性を感じないので、プロテスタントの教義には疎いのですが、マルチン・ルターは聖母崇敬者であったのは有名です。

ですから、シスターのあの言葉は狭義ではあてはまらないし、広義においては、秘跡から遠ざかり、キリストの最も近くにいらっしゃる聖母からも遠ざかるという意味で、解釈できなくもないでしょう。

ただ、聖母信心の篤かったマルチン・ルターが今の形のルーテル派教義を望んだのか・・・・・少し不思議ですが。

maggieさんへ

maggieさんへ
本田哲郎という人物がカトリックの神父でありながら、文字にするのもおぞましい聖母を冒瀆する説を流布している事を知った時は、反射的に私も不快以上の感情が沸き上がりました。本田哲郎氏を認める事はできない。普通のカトリック信徒なら当然の反応だと思います。
カトリック信徒の聖母に対する敬慕の心は、やはりカトリック以外の方にはわからないのでしょう。

これからも、普通のカトリック、正統なカトリックの目線でどんどん直言してください!! 私も頑張ります!!




maggieさんへ

御聖体を侮辱していると思うと恐ろしくなります…罪深い僕ですら聖櫃が見える前で畏敬を感じ、罪を悔いているのに(カトリック者ならば告解を受け、御聖体を敬うのが正しい礼儀ですが…)…あーヤダヤダ…
その本田神父のモラルはどこへ行ったんでしょう…不思議でなりません…

ケニッチーさん、ステパノ・アクラさんへ

元来、ご聖体に対する信仰のない人と同じ土俵で話せるわけがないのです。

でも、本田神父擁護のためには、正教会(と言っても、正教会護教派ではないようですが)やプロテスタントの方々が、同じ土俵で語れないことをとやかく仰って、閉口します。

信仰は、本人と神との関係ですので、昔ならいざ知らず、現代において「こう信じなさい」とは言えず、「私はこう信じます」としか言えません。

それが、信教の自由でもあるのでしょう。
そして、その後は、自己責任ということです。

聖フランシスコのご聖体への信仰がなければ、ただの浮浪者グループです。

その辺を、無視して、小さき者、貧しき者の外面だけを追い求める現在のフランシスコ会司祭方(全部ではなく)には、閉口を越えて、嫌悪感すら覚えています。

No title

「ここは私のブログですから、反対意見は認めません。」
ってことですね。ならば公開ブログにしなさんな。
ググッてもHITしないようにして置いてください。
ネットは公共物ですから。
伝統的カトリックも見事に”囲い込み宗教”になっていることを
突きつけられて非常に不愉快です。外に漏れないようにやってほしい。
・・・”隠れキリシタン”みたいにね・・・

ピーメンさんへ

>「ここは私のブログですから、反対意見は認めません。」

そんなことは書いていません。
ただ、誤りと思うことは誤りだと書いているだけです。

そして、このブログはローマ・カトリックの信者や関心のある方々といろんな思いを共有するべく開いています。

ですから、他の教派の方と教義論争をするつもりはなく、その意味であなたが対象外だということです。

ところで、ネットは公共のものであり、私的な面も併せ持っています。

ブログは多くの方々の目に入るようになってはいても、個人の日記の場合もあり、情報交換などのツールでもあります。

私のブログの場合、親しんでくださっている方々にデリケートな方も多く、その関係上、他教派との神学論争や荒らしのような投稿があると影響が大きいので、コメントは承認制にさせていただいております。

>ならば公開ブログにしなさんな。

公共のものだと仰るわりに、この言い方はどうなのでしょうか?
個人のブログに対してあなたから指図を受ける謂われはありません。

>ググッてもHITしないようにして置いてください。

これも、本末転倒です。
見たくなければあなたがアクセスしなければ済む話です。
あなたの意に沿わないブログなどはHITしないようにって、それはえらく自分勝手なお話ですよね。
公共のものにそのような注文をつける権利があるのでしょうか?

でも、あなたがお望みのようなので、あなたが以後このブログを見なくて済むようにアクセス・ブロックして差し上げましょう。

私も忙しいので、今回のIPアドレスでブロックをかけますが、他のツールまでは対応しかねます。
ご了承ください。

No title

>ならば公開ブログにしなさんな。

>>公共のものだと仰るわりに、この言い方はどうなのでしょうか?
個人のブログに対してあなたから指図を受ける謂われはありません。

・・・矛盾していませんよ。公開できないのはむしろあなたのほうの都合ですから。MIXIという方法もありますし。
迫害時代にスパイが入り込まないように信徒以外は会堂の外に出てもらったことの名残が正教会の式文にも残っています。

♪啓蒙者出でよ 啓蒙者出でよ 啓蒙者一人もなく 
  我等安和にして主に祈らん    ・・・とね

現代は迫害時代ではないので、これは時代錯誤だと思います。
(個人的には)
ならば本田神父さんが、釜ケ崎の人々の憩いの場を作るのに
教会や礼拝の形式をとることはおかしいかもしれませんね。
釜ケ崎にはノンクリスチャンの人々のほうがむしろ多い
でしょうから・・・

いずれにしても、カトリック教団内部の問題ならば部外者としては障らずにおきますが、ならばカトリックの問題はカトリック内部で解決して下さいな。

究極の教会は、内村鑑三が述べた
「地球が教会 全人類が信徒」
ということになると思いますがね。

”万人救済主義”・・・興味ありませんか?

パブロ・カザルスもスペインのカタロニアで
世界平和を祈っていたそうですしね。
http://www.youtube.com/watch?v=CAGBYm-HvTQ






ピーメンさんへ

お気に召さないのに、よくアクセスされるのですね。

>いずれにしても、カトリック教団内部の問題ならば部外者としては障らずにおきますが、ならばカトリックの問題はカトリック内部で解決して下さいな。

これが、ローマ・カトリック内でおさまる問題ならばよかったのですが、正平協やシナピスは中核派と思われる団体と協力関係にあるようで、そうもいかないのですよ。

教会外の方々にも誤解を与えているようなので、情報は情報としてネットで流します。

後は取捨選択するのは各個人の問題です。

あしからず・・・

No title

 
>聖フランシスコのご聖体への信仰がなければ、ただの浮浪者グループです。

 こういう言い方はちょっとな。ただの浮浪者グループをどうにもできないならば神など空しいではないか。
 
 ご聖体がどうのって話なんか吹けば飛ぶような話だよ、実際の貧乏は。
 

相手が貧しいからといって

相手が貧しい人だからといって、まがい物を提供しているのだとしたら、それこそ相手に対する最高の侮辱でしょうね。

指導されたようですが、残念ながら何も変わっていません

はじめまして

こちらの記事は約3年前に投稿されたようですが、それから2年8ヶ月あまり経過した昨年7月末の時点でこの嘆かわしい状況に変化はなく、本田師にも指導に従うご意思も、ご自分の主張を改めるお気持ちもないようです。

以下、本田師の「講座」に参加された方のブログ記事を紹介します。

――マリアはヨゼフ以外の男の子を生んだ。証拠は残っていないけど、
強姦か、売春ではなかったのか。精霊が妊娠させたのでは決してない。
(論楽社ほっとニュース 本願の声に耳を傾ける――本田哲郎さんの「講座」のレポート(その1)http://blog.rongakusha.com/?eid=878377

「心底貧しい人たちは、神からの力がある」(マタイ5、本田哲郎訳:「心の貧しい人々は幸いである」というのは誤訳)
(論楽社ほっとニュース 本願の声に耳を傾ける――本田哲郎さんの「講座」のレポート(その2)
http://blog.rongakusha.com/?eid=878378

そういう聖書の解釈に基いて、釜ヶ崎の「ふるさとの家」の毎週日曜日の「労働者のミサ」を本田さんは行なっている。
洗礼を受けていない労働者のおっちゃんにも、無教会派仏教徒の私にも、パンとブドウジュース(アルコール問題があるので
ワインではない)を与えられている。「これはイエスの体である」「イエスの血である」と。聖体拝受だ。

 これはふつうのキリスト教教会では非クリスチャンにやってはいけないこととされている。

 ローマのカソリック本部から文書が届き、指導を受けることになる。審問(裁判)も開かれた。
本田さんは堂々と解釈を述べ、「除名するならしてくれ、私から辞することはない」と――。
その後、なぜか不問に処せられているそうだ(笑)。
(同上 http://blog.rongakusha.com/?eid=878378

個人的には、不問にされているというよりは、大阪教区でも指導する気はなく、教皇庁から通達に形だけ応えたということだと思います。大阪教区、特に社会活動を好む方々はローマではなく本田師の言動を賛同支持しているので、指導が形式的なものにとどまるのは当然だと考えます。

新大陸さんへ

貴重なご情報を有り難うございます。

もう何年も前に、フランシスコ会H管区長に手紙で
講演会などを禁止してほしいとお願いしたのですが・・・

まぁ、お返事もいただけませんでしたし、
手紙もなかったことになっているのでしょうか?

残念です。

臭いものに蓋どころか、
避けて、見て見ぬふりでしょうか??

こんにちわ。

最近こちらの記事読ませていただきました。わたしはカトリック信者ですが、もうほどほどつかれきってます。なんか教会はおかしいです。これまで読んだブログの中にもありましたが。。教会の上層部(司祭やリーダー格)の方々いきずまるとまやかすか怒鳴るかなんです。めんどくさいと思えばこちらにはなにも言わせないように圧迫してきます。人間関係で混乱し何がなんだかわからなくなってギリギリ状態ではなしてみるとこんなかんじです。ご自分がたが絶対らしいです。どんなに周りに被害こうむっても傷つけられてもひとの痛みはわからないそうです。はっきりある司祭にいわれました。ひとりで背負えきれなくなっても関係ないそうです。ただ神に祈れと。。そういいながらもその司祭は今は祈っても辛くなるばかりだから祈ってもしようがないそいうです。。? なんだかなぁ。。いう言葉がありません。
でもそういう方々イエス様やマリア様の悲しみわかるのでしょうか?あの人身激痛処じゃない惨劇が。。もう既に何だかんだと難しい教理勉強するより十字架のリアルな黙想とイエス様の心思って見た方がいいかも。。あまり天国行きのポイントや維持するためにガツガツしないほうがいいかも。。とはいってもそれぞれに生活があるので立場上仕方ないのでしょうか?とくにその司祭のかたを恨んでるわけでもないし長い間信仰をまもってきたかたなので壊すつもりはまったくないのですが、どうにかならないのかなぁ。。この体制なのか考えかたなのか。。という混沌とした状態です。でもはっきりしていることは偽善者とは関わりたくないです。もう巻き込まれたくないし、毒をもられてくるしむのは自分だけですから。。よっぽど強くない限り嘘つきとはかかわらない方がいいです。知らず知らずの内にこころの平和天国から頂いたこころもこわされます。余り良くないものとの論争避けた方がいいかも。。敵対心や 討ち負かそうというこころイエス様に反してるとおもいませんか?世間がそんなかんじで教会がすでに染まってるのが残念です。
すみません。突然現れてこんなこといって。。でも皆さんが良いと思うところで認め合ったらいいのでは?あとは、神様まかせということで!










ありばばさんへ

教会にはいろんな人が集うので、「キリストにおいて一致する」と言っても、かなりの不協和音が出ることがあります。
でも、教会で怒鳴り声などは聞きたくないですね。

私自身、小教区評議会副議長や委員会の委員長をしてきて、毎週毎週、会議ばかりで会議に追われ、疲れ果てました。
肉体的にではなく精神的に。

裏切りや陥れるということも、残念ながら、実際に教会でもありますしね。
人が集まるところでは避けて通れないのかもしれません。

ミサが終わると蜘蛛の子を散らすようにさっと帰って行かれる方が多いですが、それも防衛策なのかなぁ?と感じます。

人を頼りとすると裏切られることがありますから、神を頼りとして、人には過度な期待をしないことなんでしょうね。
そうすれば、素直に喜ぶことができるのかも・・・

我慢に我慢を重ねていると、気づいた時には心の傷が簡単に修復できないほどになってしまうことがあるので、距離を置くのは大切かもしれません。

頭で相手の弱さを認めていても、心が拒絶反応や嫌悪感ということもありますから、そういう時は距離を置くことにしています。

悲しいことです

カトリック信徒の気持ちを逆なでするような発言をして、人を傷つけていることに気付かない人に神父を名乗ってもらいたくないと思う。

パウロさんへ

この神父様の言動については、ネット利用者の間では結構有名なのですが、残念ながら、ネットをあまりご利用にならない聖職者の方々はご存じないことが多いのです。

そのために、フランシスコ会の聖書学者として九州までも講演会の講師を依頼するということが起きています。

罪つくりな方です。
当然、修道会にも大きな責任があるのですが・・・

アシジのフランシスコもどれほど嘆いておられるでしょう・・・

教会が祈りの場でなくなっている

人の心を殺伐とさせ、政治的発言でもって自己主張する神父が多くなっている。教会が祈りの場であることを忘れた神父が多すぎる。信徒の教会離れは今後も続くと思う。

パウロさんへ

もう、そろそろ、神父様方も気づかれてもいい頃と思います。
牧者たる者が、神から託された羊を追い払っているようなものです。
でも、希望を見失うことなく待っていたいと思います。

感謝です

このサイトは、多くのカトリック信徒の共感を得るサイトだと思いました。今後も頑張ってください。

パウロさんへ

有り難うございます。

私たちが教会に集うのは、心を一つにして神に祈りを捧げるためですが、なかなか困難な状況にある教会も存在します。

私はどんな組織でも自浄作用がなければ、健全な組織とは言えないと思っています。
教会であっても、誰かに丸投げではなく、疑問を持てばそれについて疑問を解消できるように求めるべきだと思っています。

ただ、難しいのは、さまざまな困難を報告し、それを分析し、指摘することは、批判にもつながります。

私たちはカトリックとしてヒエラルキーを大切にしていますが、表現方法で誤解を受ける可能性も高いのです。

私は性格上、結構、聖職者の方々や教区にお願いをしたりする方ですが、信者として置かれた立場も異なり、直接お伝えするのが難しい方々もいらっしゃいます。

「嘆き」は「憤り」となり、時としてそれは「憎悪」にもなります。

憎悪を持つのは悲しいことで、神様から遠ざかってしまいますから、そうならないように、どこかで嘆きを表して心の重荷を軽くしていただければと、聖母マリアの花園掲示板を開設しています。

No title

とても魅力的な記事でした。
また遊びに来ます!!

感謝

まだ全部読み切っていませんが、すごくためになるブログで感謝しています。ゆっくりと時間をかけて読んでいきます。また投稿されている方々のご意見も、むしろわたしの心をより熱心な信仰に導くようです。

教会に行ってもお互いに信仰上の事でコミュニケーションをとるのは難しいので、このような場所で、ある程度きちんとご意見を読む事ができ、貴重な事だと思います。

イエズス会のH神父様は今麹町におられ(2014年)、御聖体の事で個人的に45分ほど直にお話をさせていただいた事がございます。ですので今日ここで彼の考えを、もう少し聞き知る事ができ彼への理解を助けられました。




コメントをくださった方々へ

現在、両親の介護中で、ブログを更新できておりませんのに、コメントをいただきありがとうございます。

イエズス会の神父様は弱い立場の方々に寄りそわれる方で、癒しのミサをされていることも存じております。
釜ヶ崎は特別な場というのであれば、何もそこでミサをする必要はないと思います。
みことばの祭儀でいいのではないでしょうか。
聖体の秘跡の有効性にも関わることです。
もし、聖体の秘跡が有効でないと分かっていながら続けているならば、それを知らずに与っている信徒に対する裏切り・詐欺と思います。
信州巨峰ストレートジュースをワインの代わりに用意しているヴィンセンシオ・ア・パウロの愛徳姉妹会のシスターも共犯です。

信徒で有る無しに関わらず、平等(?)になさりたいならば、信徒のみにゆるされる秘跡をすることはなく、みことばと祝福の祈り、聖霊の導きを祈ればよいと思うのですが・・・

立派な神父様だけに、本田ワールドという蟻地獄に引っかかってしまわれたのでは?と残念です。

本田神父とお話しした際、この口調で相手を引き込んでしまうんだと、実に印象深かったです。

プロテスタントです

一連の激論(論争)読ませていただきました。はっきり言って、訳が分かりません。疲れてしまいます。私の所属している教会(日本キリスト教団)では、牧師が社会派で聖餐式はオープン(洗礼を受けていない者も聖餐に与れる)でやってます。この件では教団の本部とゴタゴタしていて裁判沙汰(キリスト教会が国家権力に仲裁を頼むこと自体が、どうなのでしょうか?)になっています。最終的には洗礼の有無がどうであろうと、すべての人がキリストの恵みに与ることができるというのであれば、オープン聖餐や本田神父の聖体拝領もありなのかな、思っています。ただ、両者とも、キリスト教の歴史から云えば最先端すぎて、認めることのできない人々が多数いることでしょう。でも、歴史を振り返れば同じ出来事が多々あり繰り返していますよね。イグナチオ・ロヨラも・・・。やはり、どなたかが言っていたように、イエス・キリストがどの様な人々に一番目を注いでいたか、が肝心なのではないでしょうか。つまり、
"for the poor, the weak, the unloved, the unwanted, and the lonely"
すみません、未熟な考えで・・・。

P・アルペさんへ

日本キリスト教団の教義や礼拝がどのようになっているか、残念ながら存じません。

ただ、教義に関することは、教会内で解決すべきことでしょうね。
教会内で起きても、刑法に反するようなことならば、国家のもとの裁判に委ねますが。

要は、プロテスタントでも教派によって聖変化の捉え方が異なります。自分の所属する教会の教義に従うというのは基本ですので、本田神父がローマ・カトリックではなくプロテスタントの牧師ならば何の問題もなかったと思います。

どうして本田神父がローマ・カトリックに固執しているのかが理解できません。
彼の聖書解釈もローマ・カトリックのものというより、プロテスタント的です。

聖体

イエス様を主として受け入れていない人が、聖体拝領しても何の意味もないことです。聖体がその人の命となるのは、イエスは主であるとしている人に対してだけです。

きもち

信徒の代表から正義と平和のお勧めあったり、活動家が来て話し、印刷物売ったり。関西の本田というすばらしい神父様がまた九州に来るよ!と話すの聞いたり・・神父はそれ黙認なのか、喜んでるのかという感じって・・神様との絆を確かめたくて教会に行くのですが・・「こんなのとっても不快なかんじ!」になるからそんな雰囲気の教会行かないようになります。

政治的神父

聖書の言葉を語らず、この世のことにしか関心のない神父は俗物であって、信徒に必要ない存在です。

パウロさんへ

ご聖体か否か・・・
食パンと信州巨峰ストレートジュースはパンとジュースのままでしょうね。
ミサにあずかっているという意識の信徒に対しては裏切り行為です。

でも、司教様方もご自身の教区での講演会をよく許可されますね。
サタンの誘惑に協力しているようなものなのに。

匿名の方へ

九州の神父様方は、本田神父の「ミサごっこ」のことを『まさか、そんな神父はいないだろう』と思っておられるようです。

長崎のシスターでも騙されてしまうくらい、ソフトな語り口で、言葉巧みに自分の世界にひき込みます。

時間が経てばたつほど、一般の社会的名声が上がり、騙される信者も多くなるのに、司教様方には賢明な判断をしていただきたいです。

ちなみに、名誉司教となられた方も、バイブルハウス主催の巡礼に同行司祭として行かれるたびに、プロテスタント信者にご聖体を授けられます。
こういうのは伝染するんです。

匿名の方へ

ISILの人質となられた方々の無事解放を思想・宗教関係なく国民が一丸となって祈る時に、官邸前に「平和をつくり出す宗教者ネット」の人達が官邸前で祈念集会を開かれたとカトリック新聞に写真付きで掲載されていましたが、その写真を見て呆然自失になりました。

「後藤健二さんのいのちを守ろう」の横断幕の横に何枚もの「憲法を守れ 命が大事」のプラカードが写っていました。

無事解放を一心不乱に祈るべき時に、憲法を持ち出す神経が理解不能でした。

結局、彼らはこの事件を自分たちの主張をアピールするために利用したのです。その片棒を担いだのが日本カトリックです。

「命が大事」ではなく、「自分たちの主張が大事」なのです。

その写真を見て、体調を崩してしまい、持病の薬も効かなくなりました。
この時ほどカトリック信者であることが恥ずかしいと思ったことはないです。

教会離れ

教会の活動に幻滅して、教会と距離を置く人が出てきています。献金してもそれが政治活動に使われるのなら、したくないと思います。

パウロさんへ

日本のカトリック教会の一部なのか大部分なのかは分かりませんが、癒しを求めて行く所ではなくなったようです。

もう放心状態というのが実感です。

私の場合、介護の毎日の中で、時間を何とかつくって遠くの教会に行っても、掲示板などで見たくないものを見て、ガッカリして帰路につくのが多いです。

名誉司教の赤旗紙への投稿がもとで、聖堂入口の掲示板に堂々と赤旗紙の該当記事が大きく大きく拡大コピーされ、赤線まで入れられて掲示されているのを見て、眩暈がしたこともあります。

献金

今月から教会への献金を一切しないことにしました。
松浦吾郎の政治活動資金を提供する義務はないと考えたからです。
教会の主を何よりも大切にする姿勢が戻ることを期待し、祈り続けたいと思います。

No title

真宗大谷派円光寺HPで本田氏は「キリスト者の使命は、信者の勧誘ではなく、大切にされていない仲間たちを見たら、彼らを大切な仲間として身をもってかかわることですね。(2011年7月8日)」と述べている。神戸バイブルハウスで内容の薄い講演会を行い、参加費を徴収して、生活活動の糧にしている男が偉そうなことを言っている。宗教を金銭収集のタネにする態度を改め、釜ヶ崎でひたすら隣人愛の実践をしてください。

4月27日に投稿された方へ

本田 哲郎神父
「愛することより大切にすることを求めたい
 ―平和を実現するために―」
http://ww4.tiki.ne.jp/~enkoji/honda.htm

読みました。あっちに飛びこっちに飛びと浅~く長話をされてますね。
福音を宣べ伝えるというのはキリストの使命ですが、それを否定するならば、修道会に身を置く必要はないかと思います。

アシジの聖フランシスコが生きていたら、卒倒するかもしれません。

安定した修道者の身分に守られながら、あの話は虚しいです。
お金持ち・土地持ち・施設もちの修道会に身を置かれていて、あのような話をする意味がよく分かりません。

No title

今のカトリックでは、教会の外にこそ、救われるべき人がいると言います。

私も微力ながらつい最近まで、ホスピス病棟にて奉仕活動をさせていただいていました。

最近体調を崩し、1か月ほど静養期間に入らせていただきますが。ホスピス病棟にいらっしゃる方のほとんどが、仏教徒・無神論者です。僧侶の方も正装で来られるときもあります。

コルカタの聖テレサや本田神父様、他の貧しい国々で宣教活動なさってきた方々の目を、直にご覧になったことはありますか?本当に厳しいまなざしで、世の中を見ていらっしゃいます。

先月、初めて本田神父様にお会いしました。障害を持っている人、病気を患っている人など、本当に貧しい人にはとても優しく、接していらっしゃいました。むしろ、聖書だけを読んで信じる人、自分の目の前のことだけしか見ようとしない人には、大変厳しく接しておられます。

私は以前、働いていましたが、障害があるがゆえに社会から虐げられ、カトリック教会にてキリストに出会い、傷を癒してもらっています。その中で炊き出しの手伝いをさせていただいたり、今まで見たこともなかった、現在社会の下で暮らしている人たちを間近で見ています。

マザー・テレサや本田神父様は、確かに有名な方です。ですがその分、多くの批評をいただきました。多くの支持を獲得するとともに、多くの批評を獲得されています。ですがこの方々が動かなければ、カトリックは外の世界に向けていつくしみの扉を開けることはしなかったでしょう。


あまりに悲しい

カトリック信徒の聖書理解があまりに低いレベルであります。聖書について難しいことを語るのは嫌いだという婦人にも出会いました。小難しい話より、とにかく手を合わせて日々の幸せを祈ることのみで十分であるそうである。これはカトリック信徒の一部のことではないと思います。このような状況を聖職者は咎めることなく、献金の多寡が年に一度の信徒集会の関心事であり、震災被災地に赴いたことを誇裸子気に語り、社会活動の強化を声高に発言することで、自己の信仰の証として、善をなしている思い込んでいる。
本当に信仰生活を悩んでしまいます。教会とは何なのでしょうか。聖職者は何をしているのでしょうか。

強気な価格設定

いっとき絶版になっていた、岩波書店の本田哲郎神父の著書が、オンデマンドという形で再登場したそうです。驚くのはその値段で、なんと税込みで4536円! それこそ新共同訳聖書の安価なものよりも、高価なものになったということです。
売店で外国人の青年が何気なくその値段を見て驚き、「高い」とひとことだけつぶやいて、ため息をついていました。本来カトリック教会の売店にはおおよそ不向きなその本の内容を、もしもその外国人の青年が完全に知ってしまったならば、その百倍驚いて卒倒することでしょう。
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Author:maggie tonton
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