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典礼違反

本田神父の洗礼論って?

私はピオ本田哲郎神父をカトリック司祭として見ることはできません

彼は洗礼の秘跡さえも否定します

「釜が崎の人たちは、もうすでに
聖霊と火によって洗礼を受けている」
と言います

この言葉、そう洗礼者ヨハネが

「私は水によって悔い改めの洗礼を授ける。しかし、わたしの後からおいでになるかたは、わたしよりも力があるかたであり、わたしはそのかたのはきものを脱がせてあげる値うちもない。そのかたは聖霊と火とによって、あなたがたに洗礼をお授けになる。」
(マタイ3・11)

この言葉を使っての説明だが
これはイエズス・キリストが聖霊と火によって授けるってこと

では、釜が崎の人たちには誰が授ける?
その証しは?
カトリックにおける水の洗礼は
聖ペトロに与えられた権能によって
秘跡として定められ、つながれている

「わたしはあなたに天の国の鍵を授けよう。あなたが地上でつなぐものは、天においてもつながれ、あなたが地上で解くものは、天においても解かれるであろう。」(マタイ16・19)

「特別に水による洗礼を望む人には授けるけども
もうすでに聖霊と火による洗礼を受けているから必要ない」


これはカトリックではありませんね
本田教です 無洗礼派です

暴言の数々には圧倒されます

「あんな水をちょろちょろとかけられて何が変わる!?」

私がこのことについて
「その時、はっきりとわからなかったとしても
変えられた自分に、徐々に気づきます
強められている、導かれていることに気づきます」
と言うと、それを否定し言葉尻だけを取り

「そうでしょ!すぐにどう変わるわけではない」

「洗礼とは一度死ぬことを指すんだ
だから、東方教会のように一度水に沈んで死んで
その中から出て来て生まれ変わるんだ
あんな水をちょろちょろかけたって何も変わらない」


では、東方教会の一度水に沈んだら
それで死ぬんでしょうか?
生きてるでしょ?死んでないでしょ?

秘跡とは「しるし」です
目に見える形で、私たちに示される聖寵です

神の子イエズス・キリストに
ヨルダン川での悔い改めの洗礼は必要だったんですか?
イエズスは悔い改めなくてはならなかったんですか?

でも、イエズス・キリストは洗礼をお受けになった
私たちに罪から解放されて
生まれ変わり、新たに生きていくことを
御自ら教えてくださったんでしょう?

だから、それが弟子たちに引き継がれていった

聖パウロだってアナニアから洗礼を受けた

目が見えなくなった聖パウロのところに行った
アナニアは聖霊が注がれるように祈り
それによって目が見えるようになった聖パウロは
アナニアから洗礼を受けた

洗礼を受けて新しい生命に
神の国の共同体の一員として生まれ変わった

これを否定してカトリックとはいえません


第二の理由

「行った先の小教区で差別を受けるから洗礼は授けられない」

これって変ですよね

洗礼は救いを受けるために
生まれ変わって永遠の生命に入るために受けるんでしょ?
神の国の一員になるんでしょ?

「汚れた服を着て臭いが充満するような状態で
教会に行けば嫌がられる
そして嫌がられていることで、その人は傷つく」


そんなにとことん汚れた状態でミサに行くことが
普通では考えられないし
でも、そういう立場に立った時
何を選択するかです

まず、持っている中でできるだけ相応しく整えるんじゃ?
汚れたそのまんまで入って行けと教えてる?

主の晩餐に招かれた者は持てる物の中で
最上の物を着れば・・・と思いますけど

この方はいつも極論を言って、責任転嫁をするわけです

着替えるものがなければ
風呂にも入れず臭いが充満していたら
ミサに与るためにシャワーくらい浴びれるように
教会の人は取り計らってくれるんじゃないの?

そう何気なく言うと
「どうしてそんなことをしなくては教会に行けないのか!」
と仰るんですけど
互いに思いやるってそういうことじゃないの?

その人が尊厳をもって生活できるように
信徒はいろいろと配慮しますよ

それを受けいれる方にも
勇気がいるのかもしれませんが
新しく生きるとは双方の思いが重なって
神の家族として強められるんだと思いますが

心と物質と両方、相応しく整えるということが
大切なんだと思います

それもこれも全否定ですけど

見事に虐げる者と虐げられている者との構図を
作り上げるわけです

そこに本当の救いはあるんでしょうか???

この聖書学者は、
自分の都合のよいところだけを選択して
聖句を持ち出し
本質のところをうまく隠し、正当化する

普通に秘跡を否定するよりも
聖句・神のみ言葉を利用して
いえ悪用して、そのように使うことは
もっと罪が重いのではないでしょうか

それでカトリック司祭
アシジの聖フランシスコのみ跡に
従う者と言えるんでしょうか?

フランシスコ会の管区長は答えて欲しい
コメント

まずはおつかれさまでした

まずはおつかれさまでした。

大阪教区やフランシスコ会の司祭方の中から、
味方になってくださる方々が増えてくださるよう、
お祈りします。

今のところ、お祈りくらいしか役に立てませんが......。

ペレグリノさんへ

有り難うございます。

少し風邪気味だったのですが、そんなことを言ってる時ではないので
マスクをして出かけました。

毒気にあたって、少々こじらせてしまいました。
ただいま、養生中です。

誤りがあるのかないのか、はっきりとさせましたので
次の段階の管区長への報告を済ませました。

ペレグリノさんをはじめ皆さん
祈りながら、どのようにフランシスコ会管区長がなさるのか
注視していてください。

また、前述のブログにあった記事を書かれたシスターにも
責任ある神父様からの指導をお願い致しました。

もう黙って見ている時期は過ぎました。
これ以上酷くならないように
一人ひとりが声を上げる時がきていると思います。

自分がその害を受けなければ良いという問題ではありません。

本田師が日韓司教交流会で講話?

先月中旬に大阪教区で開かれた日韓司教交流会の際、
本田師が講話を行なったとの情報もありますね。

このことからもわかる通り、本当に問題なのは、
本田師に利用価値を認め、陰に陽にサポートしている人々です。
しかも、残念ながらそこには聖職の方々が多く含まれている......。

大阪教区やフランシスコ会の中から、正面切って、
本田師に立ち向かえる聖職の方々が出て来ないことには......。

「信徒の時代」とは、よく言ったものですね。
教義も秘跡も、根こそぎ崩されようとしているというのに、
聖職の方々はどこで何をしておられるのやら......。

......こんなことはあまり言いたくありませんが。

ペレグリノさんへ

私もずっと、そのことが気にかかっています。

まるで、本田神父に手をつけられないように
防御しているようなものです。

こういうことによって、ますます名声を高め、
秘跡の冒涜も正当化し、
秘跡を形骸化させようとしている一派がいるとしか思えません。

それは、どの人たちかは既に分かり切ったことですが。

そうやって、裁治権者が処分できないように牽制しているのです。

でも聖座は、名声や知名度など関係なく指示してきますから
そのような通達があれば、教区長も従わざるを得ません。

その時、傷つくのは誰ですか?
確信犯の本田神父と取り巻きは自業自得。
レオナルド・ボフのようになりますかね?

本田神父を信じて来た信者は非常に傷つきます。
教会から離れてしまう人も出るかもしれません。

そのためにも、説教や講話禁止を上長命令で早く指示すべきです。

そのことは、管区長への手紙に触れておきました。

管区長が信者をどのように思っているかに尽きると思います。
決断すべき時に決断しないで、傷を深めるかどうか・・・

私もこのことを書くべきかどうか悩みました。
でも、これ以上傷を深めないためにも
真実を広めていく必要があるのです。

No title

この記事を読んで、本田神父が好きになりました。

まさにカトリックの精神を持っている神父です。

カトリックの宝です。

私たちは、彼に及ばないものです。

ただ耳を傾けて、教えを頂くのがいいでしょう。

聖書は儀式の大切さを説くけれども、またその無用をも説きます。
そして、儀式の無用を説く聖書の言葉は、その有用を説くそれよりもはるかに荘厳で、はるかに偉大です。

カトリックとは普遍です。
その真理に生きることを否定しません。
カトリックはそれを抱え、内に宿します。
カトリックが何ゆえにカトリックであり、その深さが単なる混沌ではなく深みにおいて一致を見出しているかの神秘を、
この後の信仰生活において知っていくことができますように!

No title

山本さん
「あんな水をちょろちょろとかけられて何が変わる!?」
と洗礼の秘跡すら否定する人物が、何故 カトリックの宝 なのか、私にはさっぱりわかりません。
なぜなんですか ???
理由をわかりやすく教えてください。

山本さんへ

あなたや本田神父の信仰はローマ・カトリックの信仰とは言えません。

ローマ・カトリックは使徒継承の教会で、秘跡を抜きにして
語ることはできません。

本田教信者の方には何を言っても無駄でしょうが。

あなたの目に素晴らしいと思えることでも
ローマ・カトリックの教会法に違反しているのですから
聖ペトロのつながりから解かれた状態です。

世の中には、規範というものがあります。
釜が崎の人々と同様に、その規範を破壊することに
意義を見出されるのは、良識ある人のすることではありません。

このようなことが、どういう結果をもたらすか
どうぞ、ご自身の目でしっかりと見ていてください。

No title

私は本田神父の典礼破壊行為や怪しげな「洗礼」を認めることが出来ません。
それに彼の「信仰」にも同意できかねます。

カトリックの司祭がカトリック教会の典礼や秘蹟を蔑ろにすることは赦されるとは思いません。
それではカトリック司祭とは言えないと思います。

本田神父が釜ヶ崎の人々を愛情を持って接するのはいいのですが、だからといってカトリック信仰や秘蹟を蔑ろにしていいとは言えない。

洗礼の秘跡について

ローマ・カトリックはプロテスタントと違って
洗礼の秘跡を受けるまでに、最低6か月程は
入信希望者e-63求道者e-63洗礼志願者として過ごします。

その間に、教えを勉強し、祈り、教会共同体とも交わり
神の愛の中で、自分を見つめ直し、
「新しく生きる」「生まれ変わる」ことということを捉えていくんです。

そうして、神の愛を感じ、その中で生きることを決心するんですが
本田神父は、この全てを否定していると思います。

「釜が崎の人はすでに聖霊と火による洗礼を受けている」
それで終わってしまっている・・・

そうではなく、釜が崎も他の地域に暮らす人も皆
神様から招かれているんです。

その神の招きに応えて生きるかどうか、決心をすることです。
その決心をしたら、さまざまな困難を越えていく力を願い
自分の殻を脱ぎ捨てる決心をするということです。

今まで、気ままに暮らしていた人も
神が自分に望まれる生き方を知り、
そのように努力しようとする事でしょ?

本田神父が求めているのは、
その人たちがその時に満足すること

でも、霊の渇望、神を待ち望む心を経ることによって
より大きな祝福された喜び、救いに至ることを
無視していると思います。

猫かわいがりすることだけが、愛ではないし
そんな近視眼的にしか見られないのは悲劇ですね。

No title

カトリックは見える秘跡から見えない神秘を知ることを語るけど、
でもその究極は見えない神秘から見える秘跡が見えてこないとダメでしょ。
本田神父はカトリックの中に留まりつつ、形式を無にすることを語るからそこに緊張があるし、霊的な覚醒を促す力がある。

このブログでは「形式がなくていいんだ!」と本田神父が主張していると非難しているけど、まるで次元が異なっているのだと思う。

カトリックが見える秘跡の内にある見えない神秘という実質を失ったら、単なる宗教で終わる。
でも、実質が形式を凌駕するのであれば、カトリック教会自体が生きる。
誰もが本田神父のいうことに頷くべきではないと思うけど、
見える秘跡の大切さをしっかりと知る人であればあるほど、
その秘跡の神秘を極めるためにも、
見える秘跡を無とするかのような本田神父の言葉に深く頷く必要がある。
深く頷いて本田神父の言葉を受け取って、自分の受けた洗礼が単なる
「ちょろちょろの水」としてしまわないようにしないといけません。
洗礼を受けた者が、クリスチャンだと語りながら、小さい者を虐げるのであれば、その洗礼は「ちょろちょろの水」のようなものだと言われても文句はいえないでしょう。
だからこそ、本田神父の言葉を受けた私たちは、秘跡を無にしないためにも、釜が崎で仕えている彼の前に跪く必要があります。
聖座忠誠派などと言ってお高く留っていないで、彼よりも低く仕えることをしなくては、本田神父の言葉の重さには敵いませんよ。

山本さんへ

あなた方の論調は、いつも本末転倒です。

形式などといったことはありません。
私の周りのピース9メンバーと同じ論調ですね。
そうやって、私たちに「形式主義者」という
レッテルを貼るんですよね。

私は本田神父が、現世的な救いにばかり目を向けて
魂の救霊を軽視しているのが
ローマ・カトリック的ではないと思っています。

説明も、行き当たりばったりの嘘ばっかりだったし
教区長を手玉に取るようなやり方も汚すぎます。

あなたは、私の何を知っているんですか?
お高くとまっていると思うのは
あなたの偏見です。
歪んだものの見方ですね。

それも、あなたが尊敬する本田神父に似ていますが。

私たちの秘跡を大切にしたいと純真に願う信者を
「ネオコン」と呼んだ人とそっくりです。

人にはそれぞれ召命があり、与えられた場があります。
それに従い、応えて生きるんです。
その中で、小さな人たちを大切にするんです。

あなたたちとは「小さな人」の定義から全て異なるのでしょうが。

「彼より低く仕える」???
本田神父ほど神から遠ざかって生きるつもりはありません。

本田神父が謙遜な人とは思えませんが・・・
彼は身を低くして生きてなんかいませんよ。

お偉い元管区長さまという立場からなら
少しだけ低くしているのかもしれませんが。
でも、フランシスコ会において
そもそも、管区長は「仕える人」。
講演会で、元管区長と名乗ることからも
「自分は謙遜で身を低くして生きている」と
自己陶酔なんでしょうけど。

実際は不遜な人で
あの人には敬意を払うということがありません。

身を低くしてというより
霊性を落としてしまって・・・って感じ。

常識も全て落としてしまって・・・

本田教信者とは…

maggieさん

ああ、こういう人がおられるんですか。
開いた口がふさがらない…。
お気の毒に、洗脳されて…。

正統なカトリック要理を知らない、あるいは勉強する機会に恵まれなかった人たちは、ころっとひっかかるんでしょうね。

教会が教える「洗礼の秘跡」についても「聖体の秘跡」についても、理解していない。

秘跡=サクラメント、神秘=玄義、有用・無用、の言葉の意味も理解できていない。

・啓示とは何?→本田師が言ったこと…!
・啓示の源泉は何?→本田師の著書…!

本田シンプル脳、本田依存症に陥っていおられるのかもしれません。
してあげたい症候群(予備軍)の方なのかもしれません。

本田師がやっていることと、主張していることを、識別できないかわいそうな人たちですね。

山本さんは、本田師のやっていることの何が問題なのか理解できていない勉強不足の方だと思います。

まあ、まともな教会なら、こんなことを言われても誰も相手にしないでしょう!

これまで魅力のある人に霊的に出会われなかったかわいそうな方だと、あわれまれるだけでしょうね。

魅力のある司祭や聖人は古今東西世界中におられるのに…。

視野の狭さが災いしたか…!

No title

山本さん
「わかりやすく説明してください」とお願いしたのにわかりにくいな。 禅問答みたいだ。 直球を投げてくれ。

ホームレスを支援していることは立派だ!
ただ、それ以外は全てでたらめだ!

「あんな水ちょろちょろ・・・」とかいう人物の言葉のどこに重みがあるのかさっぱりわからん。
「形式を無にすることを語るからそこに緊張があるし、霊的な覚醒を促す力がある 」らしいけど、そんなことで覚醒するのが信仰なのか?

要は「形にとらわれて本質を見失うな」とか言いたいのだろうけど、形をおろそかにして心を失ってる。

踏絵を拒んで死んでいったキリシタンの殉教者に「あんな水ちょろちょろ・・・」とか同じことが言えるか!
ましてや噂されているマリア様に対する暴言が事実なら、
絶対許されない!

No title

テスト中

今日は待降節第3主日ですが

今日のミサの福音朗読に、「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(ルカ3・16より)が含まれていましたね。

いつの年のどこの教会どの神父様だったか、この「聖霊と火」についての説明をミサ説教中に耳にしたような。


......「聖霊と火による洗礼」という表現で、ヨハネは(自分の洗礼にはないが)主イエズス・キリストからの来るべき洗礼にはある、二つの重要な賜物を暗示されました。

主イエズス・キリストからの洗礼の秘跡においては、洗礼によって新しい命への誕生が実現します(ヨハネの福音3章のイエズスとニコデモの問答を参照してください)。

「聖霊と火」のうち「聖霊」とは、洗礼による新しい命の誕生によって、受洗者が御父の養子、キリストの神秘体の一部(すなわち教会の一員)、また聖霊の神殿となるお恵みを暗示しています。

また「火」とは、新しい命への誕生に伴って、それまでのすべての罪がことごとくゆるされるというお恵みの、比喩的表現です。続きの「手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」(ルカ3・17)というたとえの「隅々まできれいにし、......消えることのない火で焼き払われる。」という部分は、まさに「すべての罪がことごとくゆるされる」ということを暗示しています。

イエズス・キリストからの洗礼は霊魂に消えることのない刻印を残しますが、永遠に消えることのない刻印であるため、繰り返し受けることのできない、ただ一度限りの秘跡です。

ただ一度限りの秘跡という観点からすると、洗礼の秘跡によって与えられる豊かなお恵みの中には、「一度与えられたらもうなくならないお恵み」と、「一度与えられたら二度と与えられないお恵み」の、二種類のお恵みがあるのがわかります。人間は悲しいことに弱いものですから、洗礼の後も罪を犯してしまいます。ですが、罪のゆるしのために二度目の洗礼を授かることはできません。そのために、ゆるしの秘跡があります。洗礼は二度は受けられません。......


......おぼろげですが、だいたいこんな内容だったと記憶しています。

聖霊と火による洗礼

ペレグリノさん

よく分かるお話、有り難うございます。

秘跡は、私たちが行う行為(しるし)によって
主キリストから聖寵をいただくんだと思います。

その行為は、天国の鍵をいただいた聖ペトロの後継者によって
定められたものです。

水はチョロチョロであっても、敬虔に祈り求めながら行うところに
それまでの罪や弱い自分は焼き尽くされ
聖霊によって永遠の生命につながる新しい生命に
生まれ変わるんだと思います。

神の国の一員、教会共同体の一員となるんです。
教会に通えない人も、霊的に互いに結ばれて
みさかえのために働くんです。

ある人は祈りと犠牲で
ある人は祈りと共に行動による愛の実践によって。
全ては神様が召してくださった各々の召命です。
目に見える成果だけが評価されてはいけないんです。

そのしるし(秘跡)を否定することは
彼等の救いを真剣に考えていないことになります。

「カトリック教会以外にも救いはあると第2バチカン公会議は言った」
と仰いますけど、それは神様に委ねる話で
確実な話ではないように思います。

良心に従って誠実に生きた人間を
いつくしみ深い主はお見捨てにならないだろうというもので
不確かなものです。
だから、私たちはそのキリストと繋がれずに亡くなった人のためにも
神のおんあわれみを求めて祈るんです。

キリストを愛したいと願っているなら
永遠の生命へと繋がれなくてはならないでしょう?

私は彼が真に釜が崎の人々のためにやっているとは思えません。

真にその人々の救いを願うなら
古い殻を脱ぎ捨て、新しい生命に生きることを説くでしょう。

彼の行いは社会矛盾と人間的弱さに迎合しているだけで
自己満足であり、悪霊の働きからくるものだと思います。

maggieさん、久しぶりです

新ブロクで初めての書き込みです。
聖ペトロから受け継がれた秘蹟を軽んじる神父がいるなんてとんでもないですね。
でも、本当はそんなこと言う資格がないです。まだ入門者でもないのに、聖日を守らず、ミサにも行かない聖涜常習犯でもっととんでもない不埒者なのです。
「信仰を保つのは難しい」「無神論の両親に合わせてしまう」などと理由をつけてしまう。もっとしっかりしないと。

そんな訳で、こうバカな事ばかりしていますが、相変わらず元気です。

『十二使徒の教訓』から

「洗礼も聖書にはこのやり方でするようにとイエスは言っていない」という発言もあったらしいですが、イエズス御自身による具体的な指示が新約聖書の記事にないとすれば、ではペトロをはじめとする十二使徒たちは実際にどうしていたのでしょうか(ヨハネ4・2には、洗礼を授けていたのはイエズス御自身ではなく弟子たちであった、とあります)。

『十二使徒の教訓(ディダケ)』の第七章「授洗についての指示」には、次のようにあります(ニコロ・タッサン編『古代教会の声』(聖母文庫)41ページ)。


 洗礼についてはつぎのようにせよ。すなわち以上の事柄を全部語ってきかせてから、父と子と聖霊のみ名により流水の中で洗礼を授けよ。流水がない時には、ほかの水の中ででもよいし、冷水で授けることができない時には温水ででもよい。またそのいずれもない時には、父と子と聖霊のみ名において水を三度頭の上に注げ。


......十二使徒たちは、各宣教地の多様な地理的条件(気候風土)に対応して、実際的な判断をしていたということでしょう。

イエズス様の指示による洗礼

ペレグリノさん

私も、本田神父の話を
『馬鹿らしくて聞くに堪えない』
『こういうふうにして、皆さんを煙に巻くんだ』
と思いつつ、参考までに静聴?していました。

ここで普段なら、感嘆しながら「そうですね」e-349
との声が返ってくるのでしょうが
私は「はぁ~?」e-444って感じで
首をかしげたまま同意しなかったものですから
少々番狂わせで、過越しから聖パウロの手紙まで
延々とチョイスしながら
自分に都合のいい箇所ばかりを持って来ていました。

『そんなことを恥ずかしげもなく
裁治権者の前でよくやるなぁ~e-351
ヒエラルキーを否定しているようなものよe-350e-259
って思いました。

ペレグリノさんがあげた
イエズス様に派遣されて、
弟子たちがほうぼうの町に出かけていく風景を
脳裏によぎらせながら、聞いていました。
『あらら・・・』って感じ。

なめてると思ったのは、帰り際に裁治権者に
「教会法が専門ですか?」と尋ね
「いえ、teologia spiritualeです」
とお答えになっていました。

これでほっとしたんでしょうね。
霊性神学で、
教会法でも聖書学でも教義神学でもないのですから。

彼は悪質だと思ったのは、
聖座を完全に無視しているわけではなく
聖座の特例事項の許可ばかりを御丁寧に調べているようでした。

それを、勝手に自分にあてはめ、
「このように後から聖座も認めるようになるんだ」
と、厚かましくも言っていました。

どう言おうとも裁治権者の口から
「特例はここではあてはまらない」
と告げられたことは何よりです。

ステパノ・アクラさんへ

本当にお久しぶりです。e-348

一歩を踏み出す勇気ですよね。
その決心がなかなかつかない。
いろんな理由もあって・・・
そのうち、どんどんとそれに甘んじることに慣れて来て
気になりつつも、どんどん教会から遠くに・・・

青年よ!かつての熱い心を思いだしてv-421v-290

昨日投稿した神父様の説教への追加

後になって思い出したことですが......。

その神父様は「聖霊と火」に関する説明の中で、「聖書では、『火』というのはほとんどの場合、悪しきものをことごとく滅ぼし尽くす神様の御力の比喩、象徴です」とおっしゃったと記憶しています。

......おぼろげな記憶のため、もちろん一字一句正確というわけではありませんが......。

No title

>そんなにとことん汚れた状態でミサに行くことが
>普通では考えられないし
>でも、そういう立場に立った時
>何を選択するかです

>まず、持っている中でできるだけ相応しく整えるんじゃ?
>汚れたそのまんまで入って行けと教えてる?


記事を読み直してみたけど、このようなことを主張している時点で、maggie様が私とはまったく反対側のところに立っている人であることがわかりました。

maggie様、人はあなたのように社会的にも恵まれて育てられた人ばかりではありません。
maggie様は、この時代に文盲の人が結構いることを御存じでしょうか。
御存じであれば、なぜに彼らが文盲であるかに関心を持たれたことがありますでしょうか。
釜が崎はボランティアに一致があります。
その一致した働きによりシェルターまでもできました。
でも、寿町や山谷においては今日においてもいまだ、足にウジが湧くまでに至るのに誰の助けても得られず、孤独に死を待つだけの人もいたりします。
現場というのは、きれいごとではすまされません。

洗礼の「ちょろちょろの水」という言葉は、おそらく本田神父のトラップでしょう。
このトラップとは「あること」の試金石です。
ある人はこれをくぐり抜けることができません。
「あること」とは何かを生涯における信仰の課題とされてください。

山本さんへ

そうですね。
私は、釜が崎の人たちと環境は大きく異なります。

でも、人はそれぞれに与えられた環境があります。
その中で、周りの弱い立場の人たちのために働くんです。

ゆえに、全ての人が釜が崎の人たちと同じ目線に立たなければならないことはないと思います。
また、今、奉仕活動をしている人々も、同じ目線に立ったと思うのは、自己満足に過ぎないと思います。
実質的に、飢餓の状態や寝床もないわけではないのですから。

上から目線であろうと、相手を尊重することはできます。
なぜなら、相手に神の被造物である存在を認めるからです。
神から与えられた良心によって、またキリストによって示された隣人愛によって、相手を思いやる心が問題なのだと思います。

何か言えば、「上から目線だ」と斬り捨てる方々は、大きな思い違いをしていると思います。

マザー・テレサは、寝る場所も食べ物にも困っていませんでしたから、同じ目線であったとは言い難いと思います。
でも、人間としての尊厳を受けられなかった人々に、キリストの姿を見、敬意を払ったではありませんか。

マザー・テレサは本田神父のように、闘争心むき出しにはしませんでした。
心の平安を与えるために出来うる限りの努力をされたんです。

弱い立場の人は、釜が崎の人たちだけではありません。

昨晩も、JRで投身自殺の人がいました。
遅れた電車を待ちながら、希望を見失った人々に対して教会が無力であることを感じ、申し訳ない気持ちでお祈りを捧げました。

まずは、その人たちの心の痛みを感じることが大切だと思います。

maggieさんへ

こんばんわ、ステパノ・アクラです
今日は久しぶりにミサに出席して、ベトナムの神父様にお会いできて素晴らしい一日になりました。
話は変わりますが、僕も第二バチカン公会議以前のように再び洗礼を受けてカトリックの一員になりたいのが本音です。
使徒継承されていない教派で洗礼を受けて、堅信を受けなおしてカトリックの一員になったとしても、カトリック者として本当に受け入れられたのかどうかが不安になります(考えすぎかな…)。

maggieさんはどう思いますでしょうか?

追伸)信仰だけを取り上げた「信仰を持って一生を戦う男」と言うブログを作りました。
どうかリンクさせていただけませんでしょうか?

ステパノ・アクラさんへ

リンク、よろしくお願い致します。

聖公会の場合は、カトリックから離れても、儀式においてカトリック的要素を結構、保持しているので、洗礼についてはそのままになるんだと思います。

カトリックでも、緊急洗礼の時には、信者が授けることもあるんですから。

洗礼は「しるし」で、霊に証印を刻み、それまでの原罪・自罪を清めてくださるのは、主キリストですから、主に信頼していると大丈夫ですよ。

ただ、要件を満たしていない洗礼の時には、やり直しもありますが、聖公会の場合は、そういうことはないと思います。

前にお知らせしたことがあると思いますが、たま~にコメントを入れてくださるフランシスコさんも聖公会からの転会組で、今、熱心に追い求めておられますよ。

頑張ってねv-344

待降節に相応しい出来事、主に立ち返り、主を私たちの心にお迎えする・・・良かったv-291v-351

山本さんへ(1)

 山本さん、貴方の生きざまは神の御心にかなったものでしょう。弱者に対する優しいまなざし、それはそれで素晴らしいものであり、私はそれに異論を唱えるつもりはありません。人が天国に入るための本質的な条件は知識ではなく行いです。貴方の行いは十分にそれに相応しく、貴方の知識の欠如は大きな問題にはならないでしょう。まずこれを前提とした上で話を聞いて下さい。

 一神教と多神教の違いとはなんでしょうか。カトリックは一神教です。これは天から与えられた啓示(命令)に無条件に服することを意味します。たとえば、パンとぶどう酒でミサを捧げよと命じられたのであれば、そのようにしなければなりません。

 古今東西、パンを焼いたり、ぶどう酒を醸造することが難しい地域や時代もあったはずです。江戸時代の日本であれば、パンの代わりにご飯を用いて、ぶどう酒の代わりに地酒を用いてミサを立てることができればどんなに便利だろうと思った宣教師もいたことでしょう。しかし、「形式なんてどうでもよい。俺がルールだ。聖座は現場の事情を顧みない石頭だ。緊急の場合、必然性がある場合は規則など守る必要はない」と説いた司祭がいたという記録は残されていません。

 砂漠のど真ん中で、ある人が死にかけていて、洗礼を望んだとしましょう。水がないために臨終洗礼が授けられません。だからといって水の代わりに砂で洗礼を授けることは許されていません。このような時、人は何もすることができず、すべてを天に委ねることしかできません。(恐らく「望みの洗礼」として、この人は天において洗礼を受けた扱いになるはずです)

 つまり、一神教というのは融通の利かないところがあります。何故、神は何事も臨機応変にすることをお許しにならないのかと嘆くのではなく、神の真意は人知の理解を超えた計り知れないものであるという態度(これこそが真の謙遜)でひたすら命令に従うのが一神教の特徴です。できる限りのことをした上で、人は力の及ばぬ部分を神に委ねます。

 一方、多神教は神を自己のコントロール下に置きます。八百万の神を崇拝する民族は豊作の神に穀物の実りを願い、航海中に嵐に遭えば、海の神にその鎮圧を願います。つまり、自分の都合がよいように神を利用するのです。自分の便宜のために神に「こうしろ」と命じるのです。この違いを何度も比較してみて下さい。

 

山本さんへ(2)

 本田神父は教会外の人には謙遜な人に見えるかもしれませんが、大司教の教導に従わず、キリストの代理者たる教皇の教えに背き、聖座を蔑視し、何事も自分の頭で考え抜いた結論に従って行動しています。これは謙遜ではなく傲慢というものです。ぶどうの木から落ちたぶどうは芳醇で良い薫りを漂わせていたぶどうであっても、徐々に腐り始め、それを食した人は下痢に見舞われます。

 本来であれば、現状のルール内で対処できない問題があれば、大司教に相談し、その指示を仰ぐのが司祭の務めです。本田神父は何故、それをせずに何事も独断で決行するのでしょうか。それは12使徒の後継者として選ばれた司教の権能を重んじず、自分より理解の浅い者、無知な存在として無意識のうちに見下しているからにほかなりません。大司教との面会時もその態度がありありであったというではありませんか。

 「どうせ言ってもわからないだろうから」という懸念から無許可で新しい習慣を始め、最終的には強引にそれを追認させてやろうという魂胆がみえみえです。もしそのようなことが一司祭に許されるのであれば、世界各地にぶどうの木からこぼれ落ちた司祭が溢れかえり、カトリック教会はなんでもありの世界と化し、もはやカトリックではなくなります。

 

山本さんへ(3)

 司祭の務めとは当たり前のことを当たり前にすることです。画期的なことをする必要は一切ありません。典礼の規則を遵守したミサを捧げ、信徒にのみ聖体拝領を授けることはそんなに難しいことでしょうか。釜ヶ崎ならばそれがとてつもなく難しくなるのですか。

 信徒にのみご聖体を授けることは差別でもなんでもありません。今年のクリスマスイブのミサでうちの教会の主任司祭は未信者は拝領できない旨、かなり大きな声でアナウンスしました。大きな教会ですのでクリスマスのミサはキリスト教に興味をもつ未信者も大勢来られます。時々、誤って列に並び、なにがなんだかわからぬうちに拝領してしまう未信者がいるため、毎年、この司祭は神経を尖らせています。

 この司祭のことを差別主義者呼ばわりする人はいません。「俺たちを見下すな」と怒る未信者もいません。この司祭は神のしもべとして汚聖が起こらぬよう精一杯頑張っています。司祭として当たり前のことを当たり前に述べているだけです。そのような真面目さにむしろ清々しいものを感じます。

 釜ヶ崎の人々の中で「俺たちにはご聖体を授けてくれないのは差別だ」と不満をこぼす人がいるのであれば、それが差別でもなんでもないことを説くのが本田神父の役目です。

 不潔という理由で普通の小教区に行けないのが事実ならば、本田神父が要理を教え、洗礼を授ければよいでしょう。その許可を大司教に願い出るべきです。

 それをしないのは洗礼という秘跡を全く重んじていないからにほかなりません。「水をちょろっとかけただけで何が変わる?」という発言は暴言を通り越して、神への反逆です。

 

山本さんへ(4)

 キリストが「洗礼を授けなさい」とお命じになったから我々はその言葉に従っているわけです。その理由などは考えません。これが一神教というものです。

 聖アウグスチヌスは、砂浜に穴を掘り海水の全てをその中に流し込もうとしている少年を見て、神のはかりしれない摂理を人間の頭で理解しようとすることの空しさに気付きました。神への全幅の信頼があるのであれば、つべこべ言わずに洗礼を授ければよいのです。

 「洗礼? 何故、そんな厄介なプロセスを踏む必要があるのだ?」と神の啓示を疑問視する態度は神の前で傲慢となります。

 釜ヶ崎の人々が火と聖霊によって洗礼を受けていると解釈するのであれば、その解釈が正しいかどうかを長上に確認すべきです。大司教があてにならないのであれば、ヴァチカンに問い合わせるべきです。自分だけの判断で何事も進めるやり方はカトリックでは断じて許されません。

 カトリックの司祭を辞めて、新興キリスト教を始めるべきであるという多数の人々の意見は決して本田神父を揶揄するものではなく、ここまで離れてしまってはカトリックの司祭として聖職停止の対象になることを危惧しての警告なのです。



 

板倉問題に寄せて

 昔、大阪教区では、板倉神父問題がありました。戦後の混乱期、当時の生野教会の板倉神父は、日本の教会の現状を憂いて、「カトリック教会の改革」と言う冊子を出版されましたが、大した議論もないまま、突然、破門状がラテン語でおくられてきました.
この処分を主導したのは、後の田口枢機卿です。
この後、板倉神父は、処分を不服として「地位保全」の訴訟を
大阪地裁におこされましたが、残念ながら病死され、訴訟は終わりました。
確かに、教会には、ルール、教会法があります。
イエスの共同体を維持するためのヒエラルキーも必要でしょう。
しかし、私たちは、他者の判断で信仰の道に入ったのではありません。
聖フランチェスコは、神の意志を感じて、全てを捨て、托鉢の道を選びました。
当時の教会の在り方を正すために、主はフランチェスコを選ばれたのです。
聖フランチェスコの精神からすれば、本田神父を否定する方は、聖フランチェスコを否定することになるのではないですか?本田神父の行いを祈りを持って見守りましょう。

No title

主は、全ての見解を内包されている。
十字架の主は、全ての救いの源、時間と、空間を超えた救いの源である。
本田神父の投げかけている問いの答えを祈りを通して、私たちの問題として考えてみましょう。

雑魚さんへ

余りにも偏った考え方で、それでもカトリックと言えるのかと疑問に感じます。

まず、板倉神父問題ですが、これは、ヒエラルキーの上下関係問題ではなく、裁治権者である教区長(当時の田口司教)の指導に従わずに、勝手に出版したことに問題があります。
教区長の祝福を得て出版されるべきもので、内容に問題があるならば指導を受け、訂正しなくてはならないはずです。
それが教区司祭としての教区長への従順の誓いであり、もし修道会員ならば、総長・管区長への従順の誓いのはずです。

次に驚いたのは、自分が出版したものが原因で破門を言い渡されたからといって、どうして地裁に訴えるのかということです。
宗教上のことで宗教内の処分を受けたのに異議申し立てとを一般社会に起こすその神経がおかしいんですよ。
神学や教導に問題がなければ、破門にはなりません。
それに至るまでも、教区長からの指導を受けていたはずです。

こういうのを逆恨みというのです。

カトリック教会は聖ペトロの後継者として教皇をいただき、天国の門の鍵を持つ教皇の教導に従うのが基本中の基本です。
それについていけないならば、カトリック信者とは呼べません。

それを本田神父の問題と同じ線上で論じられても困ります。

まず、聖フランシスコの精神について、えらく偏った理解のされ方で驚いてしまいます。
これは、最近のフランシスコ会の本田神父一派(戸田神父を含む)の論じ方なのですが、聖フランシスコがいかに教皇に従順であったか、そしてご聖体に対する信仰などを無視して、自分たちに都合のよいところだけをチョイスした聖フランシスコの精神ですよね。
そんな薄っぺらなものではないです。
それはプロテスタント的聖フランシスコの精神です。

聖フランシスコが生きていたならば、真っ先に彼らの所に行って回心を呼び掛けたでしょう。
そして回心しないならば、共同体から追い出したでしょう。

それはご聖体のイエズス様を冒涜する行いだからです。
聖フランシスコが如何にご聖体を愛したか、ご聖体を前にして語りつくせぬイエズスの愛に涙を流した聖フランシスコの弟子の末席にいる者が、冒涜行為を繰り返している・・・これほど聖フランシスコを裏切る行いはないと思います。

アホンダラはルター派の観点でも完全に異端ですよ

滴礼による洗礼を愚弄し、恩寵の比喩である「聖霊と火による洗礼」
という表現を好き勝手に解釈するアホンダラはもはや過渡の
司祭とは言えない異端者ですし、こんな異端者を放置している
ゴロも同罪でしょう…
ちなみにルター派でもアホンダラは完全に異端認定ですなw
参考までにアウグスブルク信仰告白を貼っておきます
ttp://www.jelc.or.jp/belief/#belief_stitle4
はっきり言えばアホンダラは過渡や聖公会、ルター派では
受け入れられない異端者です!!
教職に専門教育を求めない日本のキリスト教極左三馬鹿
(過渡性弊狂・教団社会派・バプ連極左派)の一つ・バプ連にでも
逝けばいいのに>アホンダラ

広島のスネーク さんへ

本田神父の異端的発言はだんだんと問題化されることでしょう。

神戸バイブルハウスでは本田神父の講演会などを
今もよく企画されています。

悪魔に魂を売った神父の話を
わざわざ聴きに行くなど有り得ないです。

修道会でも問題化されつつあるようです。

バチカンへの直訴状と
それを出したことを管区長に伝えたのが
ようやく、効いてきたかな?

キリスト教が異端視しているものに
統一協会、エホバの証人、モルモン教がありますが
このカテゴリーに、
本田神父教も入るくらいかと思います。

板倉問題に寄せて

本田神父の西成での活動に敬意を持っております。師の宣教は、その聖書理解とともに、聖フランチェスコの精神に通じています。
現代のファリサイ人は、本田神父を卑しめ、西成の人々を排除し、ベタニヤを足場にしてイェルサレムへ向かわれたキリスト=イエスと聖霊の下で殉教した初代教会の信徒の心を否定しています。
さて、板倉問題を手続き論ですますご意見の方にも現代のファリサイの罪の深さを感じます。

Re: 板倉問題に寄せて

あなたはプロテスタントですよね。
プロテスタントの方にとっては、
本田神父様のなさっていることは何も問題ないと思います。

しかしながら、私たちはカトリックなので
ヒエラルキアのもとにいます。

プロテスタントの皆さんには、
ただの権威構造にしか見えないでしょうが、
信者は神父と、霊において親子のような関係であり
教区司祭(神父)も教区長(司教)とは親子のようなものです。

ですから、板倉神父様も当時の教区長と
もっとじっくりと理解を得られるまで
話し合われなかったことが残念です。

板倉神父様と当時の教区長
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