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正平協

日本の教会の中の共産主義

戦後、日本のカトリック教会を歪めて来たもの

その一つは、労働組合と思う
「労働者の正当な権利要求のため」という口実のもと
マルクス主義に大きく傾倒していった

戦後、高等教育を受け、堅実な仕事に就いた信者が多いが
多くはその就職先企業で労組に入って影響を受ける
労組での教育、働く労働者の権利について
マルクス思想を教えられる

その顕著なのが日教組
戦前は教師は聖職者と称えられ、慕われた
それなりの知識と共に、高いモラルを要求され
自身を律して、献身的に働かれた
だが、今や教師は一般労働者となった
人を教えることについての責任から逃避した
人格的交わりから逃避した

教師という聖職に、献身的な教師像に憧れて
多くの信者が教師職を志望し、就いた
そして、マルクス思想に染められていった

私の知人にも教師が何人もいる
教師になってすぐに日教組に半強制的に入れられ
その実態に気づき、距離を置き
孤高であっても、教師という職務に
神からの召命を感じ、貫いてきた人が何人もいる

ローマ・カトリックの教えとマルクス思想とは
相いれないものであるからだ
要理をしっかりと身に付けた信者は
孤高であることを選択した

次に、日本のカトリック教会内においても
ヨーロッパの思想の乱れを受けた司祭によって
日本の教会にも持ち込まれた

ヨーロッパのローマ・カトリック教会では
教義から外れた司祭を宣教地に追い払った歴史がある
ティヤール・ド・シャルダンはフランスでありながら
中国、アメリカを転々としてきた

しかし宣教地においては、ヨーロッパからの宣教師として
敬意をもって迎えられ、受け入れられてしまう

また、フランスから正統派の司祭と共に労働司祭が来日した
彼等は就職し、一般社会の中で悩みを抱えた若い信者を司牧した
彼等は共に祈り、語らうという連帯感で
心の隙間を満たしたが
その一方で権威を軽視する傾向を示し
そこにも進歩派的思想を注入した

戦前に来日された宣教師方には
このようなことはなかったが
戦後、各修道会から派遣される司祭は
このような影響が大きく
ヨーロッパには置いておけないと判断された司祭が
何人も修道会司祭として日本でご活躍
特に大学教育においてご活躍で
あまりの脱線ぶりに、その役職を解かれてもなお、
以前の肩書ゆえに地方教会で影響を及ぼす
「元●●大学教授」と持て囃され、有り難がられる
正統な神学者、研究者なら、最後まで教育機関に置き
地方に派遣などしない

こういう彼らが司祭養成の任を担ってきたのだから
その間に養成された司祭(本州の司祭)も
ちゃんと祈りのうちに神と繋がっていなければ
その影響を大きく受けた

ボーン・クリスチャンの場合
それまでの祈りにおける神とのつながり
そして家庭での信仰が堅固だから大きくぶれることが少ない

かたや、成人洗礼の司祭は大きな影響を受けている
祈りが習慣として身に沁み付く前に
日本の大神学校に行った人は悲劇的だ

こうして、秘跡は軽視され
「祈りと活動は両輪」と歪めて教えられ
酷い時には「祈りよりも活動」を求められる

ローマ・カトリックでは
祈りの中で神との霊的交わりにおいて
その実りとして活動となるのだ
間違ってもらっては困る!
その模範、マザー・テレサをよく見て欲しい!

そしてもう一つ、教会内の「正義と平和」

最近は市民運動が活発だ
何かあるとすぐに市民運動団体が現れる
しかし、よく見てみるとその中に
うまく左翼活動家がもぐりこんでいる
共産主義学生運動に取りつかれた人たちが
社会から拒絶され、姿を変えて入り込んでいる

抗議行動や活動、組織化に手なれた彼等は
その団体の中で、どんどんと立場を堅固にしていった
知らず知らずのうちに
イデオロギーによる教育をされ
引きづられることとなる

人権や平和、自然保護の名のもとに
歪められた物の見方をするようになる
全方向に向かわなくてはならないのに
ある片方の側にばかり固執することとなる

ローマ・カトリックとして「正義と平和」を求めるはずが
安易に、これら市民運動と行動を共にするうちに
このイデオロギーが深く教会内にも浸透した

信者の中には、公然と
社会主義国家樹立を目指すという信者までいる

大阪教区のA教会においては、そういう団体のために
教会施設を貸し出したりもしている

この結びつきによって顕著な特徴を示しているのが
「正義と平和協議会」の下部組織「ピース9」
この「ピース9」は、3人ずつのグループごとに登録される
この組織作りは共産主義者の組織つくりと見事に一致する

「ピース9」の活動指示は
各グループに直接、FAXなどでダイレクトに伝えられ
その指示に対して他のグループ会員と疑義をはさんだり
意見交換する機会を奪う
従順に本部の指示を守ることのみを求められる
まさに識別の力を薄めるためとしか言いようがない
本部に不信感を抱き、離れるグループがあっても
影響を最小限にとどめられる
そうやって組織維持を図っている

この組織、民主的でも何でもなく
上意下達そのもので
それこそが毛沢東的共産主義

これがどうして「ピース(平和)」と言えるのか?

私たちはこういう日本の教会の動きを頑なに拒否する
あるべき教会の姿を取り戻してほしいと願う

すると、彼らの態度はいつも同じだ
私たちを「右翼」認定
釜が崎の本田神父は「ネオコン」と称した
これこそがレッテル貼りだ

私たちは、右翼でもネオコンでもなく
ローマ・カトリックとしての信仰を求めること

神のはからいは時に適って美しく、正しい
このような歪んだ聖職者のもとで苦しむ私たち信者のために
文明の機器PCを与えてくださった
私たちは、聖座の教導・意思をダイレクトに知ることができる

私たちはダイレクトに聖座の教導を知り、従い
神に感謝と賛美をささげ、祝福を願いたい
コメント

教会内左翼によるレッテル貼り

日本のカトリックはおかしくなってしまった

教皇様に忠実、オーソドックスなまともなカトリックの信仰を守ろうとすれば、教会外からでなく「教会内」から、信者だけでなく時には司祭からも、非難される、右翼呼ばわりされる…

インカルチャレーション(文化内受肉・日本の文化的土着化)を主張する運動家の中には、ついに「日本キリスト者」なる言葉を使う方まで出ている

日本キリスト者?

ローマ・カトリックでなく日本キリスト者

ならば、カトリックを名乗らず独自に「日本キリスト教」教団を作って運動して欲しい
日本のカトリック教会を土着化・日本独自のキリスト教の大義名分のもと、引き裂かないで欲しい

私はキリシタン文化こそ日本において花開いた日本文化に根差したキリスト教文化だと思う
だが、キリシタン文化が正しく評価されてないように思う

彼らはローマ・カトリックの信仰に忠実であろうとした

皮肉な事に、キリシタン達が命懸けで守ってきた信仰を私達は破壊しようとしている

日本キリスト者?!

初めて聞きました、日本キリスト者って・・・

でも、教会で語られる事をまとめると、なんだか納得できるかも。

「あー、そういう発想なんですね。ラテン語やグレゴリオ聖歌を槍玉に挙げるけど本音はローマカトリックが嫌いなんですね」と。

そんな人たちは、さっさと法人化して独立して欲しいです!

No title

一匹のらにゃんさんに、非常に賛同!

私も、日本におけるカトリックの精神性の源流はキリシタンだと思う。

キリシタンは今以上にラテン語での祈りを大切にしていたし、日本語の祈りとて 「がらさみちみち玉ふまりあに御れいをなし奉る・・・・」と非常に格調高いですよね。

キリシタンの信仰や受難を忘れない為に、年に数回は、(トリエントミサも含め)当時の言葉で御ミサがあってもいいくらいだと思う。

キリシタンのピュアな信仰を知れば知る程、本田哲郎の言動とか正平協とか、霊的な財産を破壊してるように見える。「今は変だよなあ~」と思わずにいられないですよね。

近代以前に、日本にカトリックが宣教されたことを、神様と聖フランシスコザビエルに、私は本当に感謝しているのです。

嫌な感じです

カトリックは元来、共産主義とは相いれず、保守的で
独裁政権などを除いては
良き国民たらんとするのが伝統的です。

それを、「正義と平和」を掲げて、その価値観を切り崩し
知らず知らずのうちに左翼に引きこもうとしていると思います。

「小さくされた人々」→「人権活動」→「市民団体」(左翼団体系)

「戦争反対」→「憲法9条」→「市民団体」(左翼団体系)

「小さくされた人」ではなく「小さな人」です。

この小さな人と共に在ることは、
人権活動(闘争)でなくてもできるはずです。
模範は、マザー・テレサです。
マザー・テレサは、いつくしみを注ぐだけでデモはしませんでした。

戦争に反対することは、憲法9条を守ることではないはずです。
もっと、他にも手段をそれぞれが考えうると思います。

だから、カトリック教会が他の団体と
アピール行動などする必要はないのです。

左翼に組することは自殺行為です。

今のままでは、一般からも
「カトリックは、非常識!」
「夢物語に生きている」
と、見做されて、信用を得ることができなくなります。

今まで、先人達が築いてきた信用を
地に落とすようなことは辞めていただきたいです。

それどころか、現在、行われていることは
過去の否定、先人方の「総括」(連合赤軍みたい!)

この動きの顕著な聖職者や信者は、
反富裕層信者的色合いを持ち、冷たい視線を注ぎます

富裕層イコール抑圧者なんでしょうか???

それぞれに懸命に働き、なし得た成果なら
それぞれに、それに相応しい貢献もされるはずです。

こういう傾向には、本当に心の狭さを感じます。

教会の中も険悪になるはずですね。


maggie様へ
私使徒ヨハネをはじめ、多くの信者が希望といいますか心の拠り所を求めて教会に入り洗礼を受けています。そんな中教会ではいろいろな問題がある事に気づかされ愕然とする時もあります。
しかし、理解できない事がいっぱいあります。
そこで、maggieさんにこの掲示板において、負担のかからない程度において講座みたいな形でいろいろ教えてほしいんです。
たとえば、信者になるにはどうしたらいいのか?(これからなる方のために)どういう教会を選べばいいのか?信者になってから教会内でどういう事に気おつけたらいいか?ミサはどういうミサが正しいのか?トリエントミサって?昔のミサと今のミサの違いは?正平協って何?外国には正平協はあるの?
なぜ、こんなにも正平協が教会に入り込んでしまったんでしょうか?
なぜ、日本の司教団は聖座に従わないのか、なぜそれが許されるのか?
セルフインカル-ション?誰がこんな事をしていいと許可したんでしょう。 フォークミサって?
いろいろあります。知れば知るほど複雑になり頭がぐちゃぐちゃになりそうですが、いかがでしょうか。

自分の国を大切に思わない、キリスト教信者

こんばんは
そうですね、カトリック教会内で、反日的な思想を持ち出して、靖国神社の事、従軍慰安婦等の捏造話をもちだしながら、カトリック教会に所属しているのは、とても”卑怯”な行動ですね、そのような活動をするのであれば、独立すべきですね、国内では古くから”独立教会”(札幌バンド)といわれている教会があります、「内村鑑三」先生が唱えた、無教会主義があります、ある意味、この無教会主義は 現在のような教会の左翼かがひどくなっている今般、理にかなっている考え方だと 自分は感じます。 無教会主義で、”原始福音キリストの幕屋”というところがありますが、
 我らの信条
我らは、日本の精神的荒廃を嘆き、大和魂の振起を願う。
我らは、日本人の心に宗教の復興を願い、原始福音の再興を祈る。
我らは、無教会主義に立つ。従っていかなる教会・教派にも属せず、作らず、ただ旧新約聖書に学ぶものである。
我らは、キリスト教の純化を願うが、日本の他の諸宗教を愛し、祖師たちの人格を崇敬するものである。
我らは、政党・政派を超越して、愛と善意と平和をもって、日本社会の聖化を期し、社会正義と人間愛を宣揚するものである。
キリストは言いたもう、
"すべて労する者、重荷を負う者、
  われに来たれ、
    われ汝らを休ません"
参考までにURL→http://www.makuya.or.jp/tv/strmg/index2.htm

 サンプル番組「建国の日を迎えて」を視聴できます。


 札幌市のプロテスタント教会のある一派は、反日の思想丸出しのプラカードを持ち、街をデモ行進する教会が有名です。
ほとんど どこかの労働組合を連想させるような教会です。これ以上キリスト教の印象を悪くさせるような行動はやめてほしいと自分は思いますね、キリスト教が日本に根付かない大きな理由ですね。

No title

>だから、カトリック教会が他の団体と
>アピール行動などする必要はないのです。

カトリックは普遍ですから、どんな団体の中に入っていってもいいと思いますけど・・・

むしろどんどん入っていくのがいいと私は思っています。
私個人は、憲法9条会とは無縁ですし、お誘いをいただいたことがありますが、そちらには関心がいきませんでした。
でも、関心ある人は参加されるのがいいと思っています。
いろいろなところで関わりがあるのがいいです。
教区の司祭でも社会派といわれる方々は、やはり独自の視点を持っておられます。
話していて、巻き込まれたくないなあと思いました。

私が社会活動をしてる人たちに時折感じる嫌悪は、「弱さ」を権威としてしまっていることがあることです。
「小ささ」もまた権威とすることができます。
「聖座」を権威として語りたがることも、私にはあまり変わりありませんが・・・
神さまと向き合うと聖座とも向き合うことになります。
それは聖座を背景として語るのとは違います。
神さまと向き合うことをやめたら根本を失います。
本田神父は向き合っているのでしょう。
私たちはあそこまで向き合うことができないのだから、まだまだ未熟なのです。
本田神父の語ることを胸に刻んで、なおも聖座忠誠派を語るのであれば、お見事ですばらしいことです。
そうであれば、秘蹟はさらに神の神秘へと私たちを誘うでしょう。

彼には彼の役割があります。
彼からは真摯に聞いていくのがいいでしょう。

No title

v-360使徒ヨハネさん

そうですね。
少しずつ、考えていきますね。
こちらは、入信希望者には刺激が強いかもしれません。e-351

前のブログの方をリニューアルして、取り上げようかなv-361

先人たちから伝えられてきた信仰を継承していきたいです。


v-360北の旅人さん

ようこそ。

プロテスタントをよくご存知ですね。

本来、カトリックは自分が生まれたその国に対して
キリスト者として誠実に生きることによって
その精神性と他者への愛を身をもって証ししてきました。

その精神性を失い、自己満足?的活動ばかりが
教会では求められてきているような気がします。

教会の中の弱い、苦しむ人には素っ気なくいながら
炊き出しに生き甲斐を感じていたり
何だか、見せかけだけのような気がします。

キリスト教的「小さくあること」を求めるのは結構ですが
経済的に裕福な人を敵視するようでは
それは、キリスト教的ではなく、
階級闘争・共産主義的としか言えません。

日本のプロテスタントは韓国人牧師が結構多くて
そういう教会は、かなり攻撃的ですよね。

本田神父シンパ?

山本さんとは、何を言っても平行線なのでしょうが
カトリック教会の聖職者が政治色の強い団体に入る?

今、行われているのは、そういう団体に入るというよりも
「ピース9」は自らつくり、「憲法20条の会」まで・・・
目新しいターゲットを次々と設定して、闘争に駆り立てる感じ。

教会には、いろんな思想の人が集うわけですから
聖職者は、中立であること
否、それらから影響を受けないところに
ご自身をおいていただきたいです。

釜が崎では、本田神父をはじめ、聖職者や修道者が
署名活動などをしていますが
そういうのも、支援活動の場に持ってくることに
信者ではない、一般のボランティアから
冷たい視線を向けられています。

No title

この間は自分のブログへのコメントありがとうございました。

2点ほど教えて下さい。

一つは、こういうことを軽々しく聞くのは失礼に当たるかもしれないと思いつつお聞きするのですが、カトリックで言う「神」とは、人格的な存在のことではないのですか?
自分は部外者で、今までそういう理解をしてきたのですが、人格的な存在ではないとの指摘を受けたようなので気になっています。

二つ目は、カトリックとマルクス主義が相容れないとは、具体的にはどのような部分を言うのでしょうか?
確かにマルクス的な史的唯物論には神はおろか、いかなる宗教も必要とされませんが、それはマルクス主義者にとっての話であって、宗教サイドからすれば、マルクス主義とは一つの科学であって、マルクス主義が不必要だと言うことでもない気がします。

以上、2点についてよろしくお願いします。
議論をしたいということではないので、誤解無きようお願いします。

2つの質問に・・・

kurahashiさん、ようこそ。

風邪気味の中、昨日まで、年末の仕事で徹夜をして少々、脳内の動きがフリーズ状態ですが、少しお答えしたいと思います。

ただ、私、神学を特に習ったわけでもなく、つたない知識と信仰からのお答えになります。

まず、「神」とは人格的なものかというと、そういう一面はあっても、それがすべてではなく、それを超えた存在と思います。

「人格」と言うとき、神の御子イエズス・キリストとなって私たちに示された生き方、愛を知ることができました。

キリスト教では、神と言うとき、「三位一体の神」=「父と子と聖霊」ですから、その中の「子」のイエズス・キリストによって示された「神の啓示」、神の教えは、そのものであって、すべてではないという禅問答のような感じになるかと思います。

旧約時代は神への畏れを強調され、そんな中で、御子キリストによって、神の愛が人間の目にわかる形で示されました。
神を畏れつつ、神との愛の交わりによって他者への愛もあふれ出る・・・ゆえにキリスト教は「愛の宗教」と呼ばれます。

マルクス主義ですが、人間は平等ですが、神のみ前に平等です。
人にはそれぞれ、神から望まれるものが異なっています。
神から与えられたもの(才能、環境などなど)を大切に、それぞれの召命(神様からの宿題というかその人の本来の存在意義のようなもの)に生きることが大切と言われてきました。

だから、マルクス主義のような、現世的物質的な万民平等ではないのです。

豊かに受けた者はそれを使って、どう生きるかが問われています。
そしてより責任も重いと思います。

マルクス主義には、神の思召しを無視して、平等を求めるところが出発点として食い違いますし、現在ある共産国家を見ると、目に見える形の成果追求で、本来の平等からは程遠く、心身障害者などに目を向けると、それが顕著に表れていると思います。

労働成果を生まない人間に対しての視線は冷たく、労働のための手段としての人間というような感じで、ナチスを思わせる感じです。

キリスト教は、労働成果をあげることが目的ではなく、一人ひとりが神から与えられた生命をより相応しく生きることを追求します。

障害や病気の人も苦しみや不自由を通して、人の目には意味を見いだせないかもしれませんが、霊的に(祈り)など、それなりの召命を生きていると思います。

的確なお答えができなくてすみません。

No title

神とは人格的な存在のことをも言うが、それが全てではない。

マルクス主義の平等とキリスト教の平等とは質的に異なる。

大変分かりやすい説明、ありがとうございました。

昔読んだ中国の映画監督の著書から

マルクス・エンゲルス『共産党宣言』(岩波文庫)40ページから。
 「今日までのあらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である」

『毛沢東語録』(平凡社ライブラリー)40ページから。
 「階級社会にあっては、だれでも一定の階級的地位において生活しており、階級の烙印をおされていない思想はない」

陳凱歌『私の紅衛兵時代 ある映画監督の青春』(講談社現代新書)59ページから。
 「思想教育の一環として、小さいときから私たちは、愛には階級性があると教えられてきた。愛と憎しみを分ける最終の境界が、階級だった。それには、親子の愛情も例外ではない。指導者を愛し、党を愛し、味方を愛す。しかし、階級社会での『味方』は変数であるから、しばしば昨日の味方は今日の敵ということになる。結局、変わらないのは、指導者への愛だけだった。愛が一時の、局部的な、特定の、非普遍的なものだったのに対し、憎悪は長期的で、全面的、普遍的なものだった。愛は毒薬であり、愛情は堕落、ヒューマニズムは偽善だった。だが、憎悪は正義を意味し、崇高な、そして安全なものだった」「巨大な人口がひしめきあっている国土で、憎悪をタイマツのように人から人へと手渡していけば、その結果はいうまでもなかろう」

『共産党宣言』の中のカトリックへの言及

マルクス・エンゲルス『共産党宣言』(岩波文庫)83ページから。
 「昔の異教時代の古典的著作が書いてある写本のうえに、修道士がくだらないカトリックの聖徒伝を書いたことは、誰でも知っている」

...「くだらないカトリックの聖徒伝」という言い草もさることながら、上記に引用した一文の真意はというと、前後の文脈からすると「カトリックの聖徒伝が異教の神話や伝説をカトリック流に『翻訳』して書かれたものだということは、誰でも知っている」というほのめかしを、ここでマルクスとエンゲルスはしています。つまり上記の一文には二重の悪意が込められています。

教皇庁にも

教皇庁にも「正義と平和評議会」がありその報告書の中で、教皇大使は9条を大変評価しておられます。

こういちさんへ

憲法9条は、武力の行使を平和の手段としないというものですから、賛意を示すのは当然です。

ただ問題は、現状がどのような状態にあるのかということです。

ヨーロッパ諸国のようなユーロ圏を築いても、
各国は軍隊を持っています。
それは、自国の平和は自国で守るということです。

しかし、それは教会内にあって大した問題ではありません。

もっとも問題なのは、
その憲法9条があるから平和だという誤解のもと
信徒に説教壇や聖堂内で指示をすることです。

教会の使命は、魂の救済です。
平和は、皆の心に、そして社会に・・・と広げていくものです。

バチカンは、聖職者にそして教会に
政治活動をするように求めてはいません。

それどころか、禁止しているのです。

憲法9条が好きなら、個人の心情だけにしていただきたいものです。

それを、聖職者の立場を利用して、
共産主義者と一緒に活動をする事など、問題外なのです。

そのようなことがしたければ、聖職者をやめるべきです。

カトリック教会の一番大切な目的

カトリック教会の一番大切な目的はそれは人々を天国に行かせることです。 そのためにはカトリックの教えを学び、confession に頻繁にいき、最低週に一回は communion を受けること意外にないでしょう。 カトリックの教えを学ぶことは大切で、それを知ることで、罪がなぜいけないか、なぜ confession が必要かわかります。 カトリックは 信仰と論理 だとよく聞きます。 カトリックの論理を St. Thomas Aquinas の書いた本を読んだり YOUTUBE で講義を聴いたり勉強することで カトリックの 論理が わかり始めると思います。WEB Page で  
http://www.churchmilitant.tv  
http://www.fisheaters.com/
はカトリックの教えをまとめて学ぶことができる WEB SITE の一つです。 カトリックの本の多くは 英語 または日本語 に訳されてない本がかなり多いので、深くカトリックの勉強をしようとすれば ラテン語の勉強もする必要があります。日本でも明治時代の神学校は授業はすべてラテン語でしたのもそれらの理由でしょう。
 

PAULさんへ

仰りたいことはよく分かりますが、そういう神学を勉強された方の中にも逸脱する方がいらっしゃいます。
前出の聖書学者の本田神父やイエズス会の倫理神学のM神父も聖トマス・アクイナスのスコラ哲学・神学を修められた方々です。
知識=信仰ではありませんから、祈り、黙想しながら、知識を得ようとしないと大変、危険な落とし穴に落ち込む危険もあります。
また、知識が無くても、幼子のような素直な信仰も主を喜ばせるものだということを忘れてはいけないと思います。
それぞれに与えられた環境があり、それに応じて、その中で、主と強く結ばれること、カトリック教会の不変の教えを求め、秘跡に近づくことが大切と思います。

PAULさんのレベルの高いコメントをご覧になって、落ち込んでしまった方がいるかもしれませんので、書き添えさせていただきました。

やさしい言葉で

ことさら英単語を並べずに、聖体拝領、告解と言っていただくとうれしいです。教養の高いことはわかりますが、私のような小さい者にはそのほうが優しく感じます。

パウロさんへ

同じお名前なのですが、少々難しい投稿が続きましたね。

私は常々、優しい言葉で、誰にでも理解できるようにと心がけていますが、それでも宗教用語の使用などでは悩みます。
もし、分からない箇所があったら質問してくださいね。
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