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典礼違反

典礼の混乱のもとは・・・

皆さんのところでも混乱が有るようですので
この際、総則をみてみたいと思います。

総則には

128 集会祈願が終わると一同は着席する。
司祭はごく短いことばで、信者をことばの典礼に招くことができる。
朗読者は朗読台へ行き、
すでにミサの前にそこに置かれていた朗読聖書から第1朗読を行い、
一同は[…]それを聞く。
終わりに朗読者は「主のことば」と呼びかけ、
一同は「神に感謝」と答える。
 ここで適当であれば短い沈黙のひとときをとることができる。
こうして一同は聞いたことを黙想することができる。



このように、なっているのが、例によって
日本では、「日本における適応」で


■第1、第2朗読後の応唱
朗読者は聖書に礼をし、
奉仕者が「神に感謝」
と答える。




このように変更されています

でも、不思議ですね

なんのための不都合があっての変更なのか???

当時は、第2バチカン公会議の精神で・・・と
「錦の御旗」のごとく振りかざし、
日本独自のものを、作りたかったとしか思えません

日本の文化・習慣から
ひどく不快に感じたり、不都合がある時以外は
規範書に忠実にすべきもののはずです

ですから、聖座は、各国の司教団に
新しく規範に忠実な典礼書を作成するように指示をし、
米国は、いろいろと抵抗を試みた末
忠実な典礼書と総則で申請し、認可されたそうです


かたや、日本の司教団は、いまだに日本の文化を主張し
何度もはね返されているようです

そのまま、忠実にやってくださっても
なんら困ることはないのに・・・
と、思います


ちなみに

聖福音の朗読の箇所も

総則は

134 司祭は朗読台で福音書を開き、手を合わせ、
「主は皆さんとともに」と唱える。
会衆は「また司祭ととともに」と答える。
それから「○○○による福音」と唱え、
親指で福音書と
自分の額、口、胸に
十字架のしるしをする。

他のすべての者も
同じようにする。

会衆は「主に栄光」と大きな声で言う。

香を用いる場合、司祭は福音書に献香する。
続いて[・‥]福音を告げ知らせ、
終わりに「キリストに賛美」と呼びかけ、
一同は「キリストに賛美」と答える。
司祭は福音書に接吻して「神のことばによって…」と
沈黙のうちに祈る。



そして、ここでも「日本における適応」で




■福音朗読の前後
司祭あるいは助祭は
福音書に十字架のしるしをしながら
「○○○による福音」と唱える。
また、朗読が終わると、司祭あるいは助祭は
福音書をおしいただいて
「キリストに賛美」と唱え、
会衆は「キリストに賛美」と応唱する。



元来、日本の文化には十字架をする習慣はありません
しかし、十字架はヨーロッパのものでもなく
キリスト教の信仰表現です
これを否定して、信仰は成り立ちません

十字架のしるしが日本文化とは異なるものだから
回数を減らしたかったのでしょうか???

ここで、額と口と胸を省略する理由が見当たりません


ついで、「主に栄光」と大きな声で言うというのは
高らかに答えるというべきものなのでしょうが
怒鳴られても困るとでも思われたのでしょうか???

その代りか?朗読後に福音書をおしいただいて
というふうに振り換えられています

でも、規範書は、会衆の行動を示し
適応では、司祭の行動になってます

不思議・・・

で、お気づきですか?

適応の方では「主に栄光」が書かれていません

良かったですね
実際に省略しているところはないようなので・・・



ちなみに、我が教会では
侍者が「神に感謝」と言い、一部が「神に感謝」と答えています

で、侍者がいない時は、
朗読者によって「神に感謝」という人もいれば
無言で終わってしまうことも・・・

私?

私が朗読の際は、侍者がいなければ「神に感謝」と言います

でも、朗読者が言うなら「主のことば」の方がいいかなぁ?


茨木教会の友人は
「神のことばです」と言っていましたよ

こんな混乱を生みだしたことを反省して
規範版に忠実にして
日本における適応なんてなしにしてほしい
コメント

ありがとうございます。

まず、励まして下さったサボテンさん、管理人さん、ちえさんに感謝。
ミサのやり方に関してはわかりませんが、ミサに対しての簡素化がどういう意味をもっているのか?司祭の皆様はわかっていらっしゃるはずなのに…。神様の恵みがそれだけ減るということです。簡単にいうと救われるはずの人間が救われないという事が現実にあり得るということです。中途半端なやり方に対しては中途半端な恵みしか与えられないという事です。
ミサに関しては、地上の人間だけに恵みが与えられるのではないんです。天国の聖人達、そして、煉獄の聖なる霊魂たちにくだります。ミサを人間が出来うる範囲内において真剣にやらないという事は、神様は当然の事、天におられる聖人や煉獄の聖なる霊魂たちへの侮辱です。煉獄の霊魂たちは自分の祈りでは救いは得られません。わたし達の祈り以外に救いは与えられないのです。そして、その最大の祈りがミサなんです。ミサには、人間だけが参加しているのではないんです。聖三位一体と、聖母様、聖ヨゼフ様、すべての階級の天使が参加しています。だから天に敬意を示す為に女の方はベールを被りなさいといわれています。
ミサの聖変化は人類最大の奇跡です。この奇跡を私たちは軽んじて受けてはならないんです。神様が人間を造る事は簡単です。しかし、人間の言葉によって被造物が神になる奇跡は司祭にしか出来ない事なんです。私達は奇跡を追い求めます。しかし、偉大な奇跡は教会の中で定期的に行われています。ミサには恭しく近づきましょう。
十字架のしるしについては悪魔払いに効果があります。ミサでするのは、ミサの中に悪魔の入る隙を与えないためなんです。個人的にする事もいいと思います。十字架のしるしは見えない悪魔を切り裂く効果があるといわれているのです。

移行期らしいですよ・・・

さて大阪教区の典礼委員会のQ&Aをみればその「変」さは一目瞭然!

「典礼の核心に触れるような事でない限り、強いて統一する必要はない」
●典礼のすべてについて、絶対的な規範があるわけではない
●典礼には、ローマが決めた根本的なこととは別に、各地域の司教団が決めたことがある
●日本では省かれていることもあり、逆に日本だけで行われている事もある

「額、口、胸に十字架のしるし」についてのAで、総則とも適応とも違うことが書いてあります。適応の「福音書に十字架」だけではなく・・・
●過去に日本の司教団の決定があって、これは司祭だけが行うことになっています

あれ、司祭は「額、口、胸に十字架のしるし」をするわけですね?

第二バチカン公会議の精神に則って、それぞれの文化背景にふさわしい典礼の姿を目指すということらしく混乱する現状に関しては・・・
「いわば移行期の混乱と言うべきものでしょう」だそうで。

混乱はやはり誤った解釈法である≪第二バチカン公会議の精神に則って≫司教団が巻き起こしているということですね。

「移行期」・・・どこへ移行するんでしょ?

どうも「額、口、胸に十字架のしるし」「跪き」「舌での聖体拝領」などに対して大阪教区では「強いて統一する必要はない」と言いながら過去にかなり厳しい信徒への迫害をやったみたいですね。オドオドされておられる方もあります。

さて面白いのが、うちの息子は侍者で司祭の横で「聖福音」の時(この当番が多いです)に「額、口、胸に十字架のしるし」をしっかりするようになって(主任司祭はしません)から、「あぁ、やってもいいんだ!」て感じで会衆で同じようにする人々が急増したような・・・

親バカでしょうか(笑)・・・でも本当に急増中です。

ミサ?

神に感謝は、聖書を読む人と、子供ちゃんが言うだけです。聖イグナチオも同じでした。アレルヤ~♪の歌も、福岡は皆で歌を歌っていましたが、今は、歌う方がいるので、歌えないです。まだまだ、勉強しないと…いけないと思います。また、色々と教えて下さい。今は、新しい課題があり、難問題。神は、誰に創られたのか??と…わかりません(T_T)

復活節第5主日(5月2日)の集会祈願、奉納祈願、拝領祈願

試用版、公式祈願、英語版を以下に書き出してみました。それぞれを比べて読んでみると、公式は神へと向かう垂直軸よりも社会に向かう水平軸を重視している印象を受けます。この試用版を作った人たちは信者に向って、あなたたちはミサという食事会(注:本当は食事会ではありません。念のため)に与り、キリストに体によって強められたのだから、社会での奉仕を通してキリストを証ししていらっしゃい、それが信者の一番大切な務めです、と言っているように聞こえます。

自分たちの望む教会に変えたいという思いが、この試用版の作成に強く出ていると見ていいでしょう。ところで、この試用版、バチカンから許可を得ているのでしょうか。このような試用版をバチカンが許可するとは思えませんが。

公式祈願と英語版はラテン語の同じ祈願文を訳したもののはずですが、読んだ印象は違います。試用版を作成するゆとりがあるなら、公式祈願の翻訳を見直し、推敲してほしいものです。

A.集会祈願

1.C年用・試用

ともにいてくださる神よ、あなたはキリストを死者の中からよみがえらせ、限りないいつくしみを示してくださいました。わたしたちが互いに愛し合うことによって、愛そのものである神をあかしする者となりますように。
聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちのイエス・キリストによって。アーメン。

2.各年共通用公式祈願

聖なる父よ、あなたは、キリストによってわたしたちをあがない、神の子どもとしてくださいます。あなたの愛を受けた民を顧み、御子を信じる人々に、まことの自由と永遠の喜びをお与えください。
聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちのイエス・キリストによって。アーメン。

3.Daily Roman Missal(Opening Prayer)

God our Father, look upon us with love.
You redeem us and make us your children in Christ.
Give us true freedom and bring us to the inheritance you promised.
We ask this through our Lord Jesus Christ, your Son who lives and reigns with you and Holy Spirit, one God, for ever and ever.

B.奉納祈願

1.ABC各年共通用・試用

聖なる父よ、復活のいのちを喜び祝うこの食卓をとおして、わたしたちをあなたに仕える民としてください。ご自分をささげたキリストの心に近づくことができますように。
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

2.各年共通用公式祈願

聖なる父よ、あなたは御子の奉献によって、わたしたちをまことのいのちにあずからせてくださいます。キリストを知る恵みを受けたわたしたちが、信仰を生活に生かすことができますように。
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

3.Daily Roman Missal(Prayer over the Gifts)

Lord God, by this holy exchange of gifts you share with us your divine life.
Grant that everything we do may be directed by the knowledge of your truth.
We ask this in the name of Jesus the Lord.

C.拝領祈願

1.ABC各年共通用・試用

いつくしみ深い父よ、わたしたちは新たないのちに満たされ、今、派遣されていきます。御父への道であるキリストを、喜びをもって伝えていくことができますように。
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

2.各年共通用公式祈願

いつくしみ深い父よ、あなたの民の力となってください。主の食卓で養われたわたしたちが、古い人を脱ぎ捨て、新しいいのちに生きることができますように。
わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

3.Daily Roman Missal(Prayer after Communion)

Merciful Father, may these mysteries give us new purpose and bring us to a new life in you.
Grant this through Christ our Lord.

様付けやめました(笑)

管理人さん、皆さん、こんにちは。

ふと思い出して、バチカンでのモーツァルト戴冠式ミサ曲の、いただいたCDコピーを聞いてみました。本当だ!スペイン語や英語の朗読後、ちゃんとラテン語で「Verbum Domini」「Deo gratias」と大きな声で歌っています・・・。

ラテン語歌ミサのCDを見たら、「神の言葉」「神に感謝」と和訳がありました。福音朗読後は「神の言葉」「キリストに賛美」となっていました。よく聴いているくせに、頭素通りだったようです。お恥ずかしいです。

それにしても、本当にいっそのことラテン語にしてくれた方が、安全かも知れませんね・・。これを機会に、少しづつ勉強したいと思います。

ところで、オルガニストや朗読者等の奉仕者が、率先してベールを被ったり跪ずいたりすると、他の方々も「いいんだ!」とか「そうするんだ~」とかで、同志がふえると、よその教会の知人が言っていました。

いつも皆様に感謝

明日からは、久しぶりにアルバイト。体になれないので、遊びにきたいですが、無理かもと…(T_T)努力いたします。また、勉強を教えて下さい。宜しくお願いします。トントンお姉ちゃん、皆様、いつも、ありがとうございました。

里脇枢機卿様は・・・

里脇枢機卿様が、長崎教区長として、ご健在の頃
長崎教区では、福音朗読の後

司祭 「主のみことば」
会衆 「キリスト賛美」

に、変更されました。

これは、日本の誤りを正すもので
特に信徒が混乱しないように
まずは、聖職者が率先してできることを
という形だったかと思います。

こういうのは、教区長として実にご立派でした。

今の日本の場合は
ひどい訳の総則を、一層、得手勝手にアレンジして
ミサ聖祭の荘厳さ・重厚さを
軽く軽~~くしているとしか思えません。

こういうことこそ、いましめられるべきことです

タブーな話でしたらお許しください

maggieさん、皆さん、お邪魔します。

ご年配の神父様方が減って行き、本当に心配です。今は神学校でもラテン語教えないそうですから・・・。移行期とは、公会議から40年以上過ぎているのに、まだ・・なのでしょうか?移行期にきちんとしなかったので、ただ混乱が続いて支離滅裂状態のような気が・・・。私は受洗する時「カトリックは、典礼や祈祷文が世界共通、ヒエラルキーがあるし、安心」と信じて疑いませんでした。

うちは「今のところ」免れていますが、教区で推奨し繁殖する子供ミサ、知人の所ではギターと手拍子、口笛(?!)までと聞きました・・・。

かえって、子供をバカにしているような気がするのは私だけでしょうか・・。ゆとり教育のように、大人の思惑でいじって、結局被害を被るのは子供達のような・・・。変な例えですが、ピアノや茶道で「子供向け」ってないですよね?

友人知人は、「主任司祭の判断だから」で終わってしまいます。???な事ばかりです。乱文、お許しください。

ミサの式文の翻訳、「総則」の翻訳、「日本における適応」、口語の祈りの文の絶対視について

現行のミサの日本語の翻訳が、ラテン語規範版に忠実な翻訳になっていないことは、問題だと思います。

現在、教皇庁典礼秘跡省に提出され、許可申請中の「ローマ・ミサ典礼書(総則部分を含む)」について、
2007年に初めに、
教皇庁典礼秘跡省が
「ラテン語規範版のラテン語原文に忠実な翻訳になっていない。適応が多い。」
とコメントを返してきたというのですから、
まだまだ、日本独自のことを続けるつもりなのでしょう。

私が望むこと。

①ミサの式文自体をラテン語規範版に忠実に翻訳してほしい。

②『ローマ・ミサ典礼書の総則』の日本語版も、ラテン語規範版の忠実な翻訳にしてほしい。

③「日本における適応」は不要。廃止してほしい。

④今後のことですが、さらに口語化を進めるのはやめてほしい。


ミサ曲を文語から口語にして、新しいミサ曲を作ってやろうという動きがあります。これには反対。

彼らは、本気で、
「主よ、あわれみたまえ」を、
「主よ、あわれんで下さい」とする気なのです。

「我らの祈りを聞きいれたまえ」を、
「私達の祈りを、ききいれてください」とする気なのです。

これが、栄光の賛歌と、感謝の賛歌になると、
もう、どうしようもない助詞・助動詞が並びます。
子どもの作文レベル。

「主の祈り」「天使祝詞」「使徒信条(使徒信経)」と同じことをする気です。

(既に聖公会では、「あわれんで下さい」バージョンが完成。しかし、絶対に使用しない聖公会司祭もいるそうです。)

「初めに口語ありき」のような考え方はやめてほしいです。

第一朗読、第二朗読、聖福音の朗読の前後のミサの式文と日本語の翻訳

『ローマ・ミサ典礼書ラテン語規範版』で、
第一朗読、第二朗読、聖福音の朗読の前後の式文を見てみましょう。

≪第一朗読≫(朗読後)

Ad finem lectiones sighificandam, lector subdit:
(赤い色はルブリカ部分、説明の部分)
朗読者は朗読の終りを示す為に、聖書に一礼する。

Verbum Domini.  主のみことば。(ヴェルブム、ドミニ)

Omnes acclamant: 会衆は、答える。

Deo gratias.  神に感謝。(デオ、グラツィアス)


★Verbum Domini. (ヴェルブム、ドミニ)は、「主のみことば」ですよね。これを省略して、何故、「神に感謝」と、わざわざ奉仕者に言わせるのかが、意味不明。



≪第二朗読≫(朗読後)
第一朗読と全く同じ記述。



≪聖福音の朗読前≫
このエントリー記事、maggieさんが『総則』134項について書かれたことに対応する部分です。

Lectio sancti Evangelii secundum N.,
による福音

et interim signat librum et seipsum in fronte, ore et pectore.
そして同時に典礼書と自分の額、口、胸に十字架のしるしをする。



Populus acclamat: 会衆は応唱する。

Gloria tibi, Domine. 主に栄光。(グロリア、ティビ、ドミネ)


≪聖福音の朗読後≫

Finito Evangelio, diaconus, vel sacerdos dicit:
福音が終わると、助祭または司祭は聖書を押し頂く。


Verbum Domini,
主のみことば。(ヴェルブム、ドミニ)


Omnibus acclamantibus:
会衆は応唱する。


Laus tibi, Christe.
キリストに賛美。(キリストに誉れあれ。)
(ラウス、ティビ、クリステ)


Deinde librum osculatur dicens secreto:
★助祭または司祭は念唱する。


Per evangelica dicta deleantur nostra delicta.
★神の言葉によって、私達が清められますように。


…説教…


もし、ラテン語規範版に忠実な翻訳であれば、

≪第一朗読の後、第二朗読の後≫

朗読者 : 「主のみことば」  (現行翻訳:削除、沈黙)
会衆 :  「神に感謝」     (現行翻訳:会衆ではなく奉仕者に言わせる)

≪聖福音の前≫

司祭 : 「Nによる福音」
会衆 : 「主に栄光」    

≪聖福音の後≫

司祭 : 「主のみことば」  (現行翻訳:「キリストに賛美」)
会衆 : 「キリストに賛美」

になりますね。


また、説教の前に、司祭は、
Per evangelica dicta deleantur nostra delicta.
★神の言葉によって、私達が清められますように。


(福音のこの言葉によって、われらの罪が赦されんことを、という意味も含めて…)

と、祈っているでしょうか?
念唱、つまり私達には聞こえないのですが、その気配はあるでしょうか?

この緑色の祈りの文は、伝統の祈りの文で、
トリエント・ミサの福音朗読後に、司祭が小声で唱えることになっています。

少なくとも16世紀聖ピオ5世の時代から、司祭が福音朗読後、説教の前に祈ってきた祈りなのですが…。

賛美と感謝

第一朗読後、第二朗読後、
日本語の翻訳では、
Verbum Domini.  主のみことば。  
を、沈黙に変えています。(なくしています。)
結果的に「神に感謝」が際立ちます。

司祭の聖福音の後も、
日本語の翻訳では、
Verbum Domini.  主のみことば。  
を、
「キリストに賛美」に変えて、
高田三郎氏はそれに合わせて、
歌ミサのメロディと伴奏まで作曲してしまいました。

変えたかった人の意図は分かりませんが、
やたら、
「賛美」と「感謝」という言葉を、使いたかったことは間違いないと思います。

神様を賛美をすることはすばらしいことだし、
神様に感謝をすることは、信仰の根幹にかかわるほど大切なことではあります。

しかし、ラテン語原文を変えてまで、
「賛美」をきわだたせ、「感謝」を入れたかった、真意は何なのでしょうか?

私は、ミサの本質の理解が変わったぞ(本当は変っていないと総則に書かれています)、
司祭がいけにえを捧げるのではなくて、
主の食卓で、賛美と感謝をささげることが、
ミサの本質なんだぞ、
ということを信者に強調したかった人の意思が現れているように思います。

ミサのことを「感謝の祭儀」と言いますよね。
あまりにも「感謝の祭儀」「感謝の祭儀」と言われ続けているので、
もう、ミサ=感謝の祭儀 と思わされていますが、
ベネディクト16世が言われるように、
トリエント・ミサも新しいミサも、その本質は変わらない、
ローマ典礼は一つである、
ということを重視すれば、
ミサ=感謝の祭儀 をことさら強調することはどうなのかな、と思っています。

日本の総則(暫定版)134項は、既に書きかえられていた!

maggie さん、

日本語の『総則』暫定版は、ラテン語規範版に忠実な翻訳だと思っていました。「日本での適応」以外は…。しかし、そうではなく、1978年に認められた「日本での適応」は、本文中に挿入されているのですね。

maggieさんが、日本の中央協議会訳を忠実に記事にして下さったので、一つ改変箇所が発見できました!

maggieさんの書かれた134項は、中央協議会訳

http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/library/book/sosoku2.pdf

ですね。

134項:司祭の福音朗読の後の言葉と会衆の応唱の部分です。

日本語中央協議会版:
終わりに「キリストに賛美]」と呼びかけ、
一同は「キリストに賛美」と答える。

この司祭の「キリストに賛美」は、
ラテン語規範版では、
Verbum Domini, 主のみことば。 ヴェルブム、ドミニ
になっています。

ヴァチカンのHPでも…

http://www.vatican.va/roman_curia/congregations/ccdds/documents/rc_con_ccdds_doc_20030317_ordinamento-messale_en.html#A._Mass_Without_a_Deacon_

134項:
・・・Then he proclaims the Gospel and at the end says the acclamation, Verbum Domini (The Gospel of the Lord), to which all respond, Laus tibi, Christe (Praise to you, Lord Jesus Christ).

アメリカ版の翻訳でも(誰かの私訳ですが)
http://goseitai-to-seibo-no-sito.web.infoseek.co.jp/institutio%20generalis%20missalis%20romani.html

134項:
続いて福音を告げ知らせ、終わりに「主のみ言葉」と呼びかけ、一同は「キリストに賛美」とこたえる。

福音の朗読後の応答に関して、
里脇枢機卿様は、このようなことをすべてご存じで、
せめて長崎教区だけは、ラテン語原文に忠実に「主のみことば」と司祭に言わせていたのですね。

現在はどうなのでしょう?
そのあとの司教が廃止すると言わない限り、続いているのでしょうか?

長くなり、失礼しました!

英語の主祷文は今も文語調

ミサで唱える主祷文は日本では口語に変えられましたが、アメリカでは今もシェークスピアのころの英語のまま唱えています。以下、参照してください。

http://catholic-resources.org/ChurchDocs/Mass.htm#Eucharist

口語訳の主祷文はおかしいので、ミサのときも小さな声で文語訳を唱えています。口語訳で一番おかしいのは、私たちの罪が神から赦される条件として、私たちが隣人から被った被害を赦すことがあるのに、それを無視していることです。口語訳では、神が私たちの罪を赦してくださるなら、私たちも隣人の罪を赦しましょうと、神と交渉しているみたいです。

口語訳主祷文のおかしな点

(続きです)

主祷文の口語訳で2番目におかしいのは、「み名が聖とされますように」です。文語訳では「御名の尊まれんことを」でした。なぜ、「聖とされる」ではなくて「尊まれる」なのか。私の理解は、こうです。神の御名は、私たちの考えや希望、祈りや行動によって「聖とされる」のではありません。それらを待つまでもなく、最初から聖なのです。天上では、天使、聖人が御名を尊び、褒め称えているけれど、地上ではそうとは言えません。だから、地上にいる私たちの祈りとして、この地上でも「御名が尊まれんことを」と願うのではないでしょうか。「御旨の天に行わるる如く地にも行われんことを」と同じです。

3番目におかしいのは、イエズス様がたったひとつだけしか教えてくださらなかった祈りに対する敬意が感じられないことです。日本語として、もっとありがたみのある表現を工夫すべきでしょう。

以上、3点の理由から、私はミサの中でも口語訳の主祷文は用いていません。

わたしたちも人をゆるします

「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。」

自分もこの箇所は唱えませんv-12

No title

コンペンディウム(日本語版)の問い594
なぜ「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」というのですか。

この答えの中に「まずわたしたちがゆるしたという条件のもとに初めて、わたしたちの願いは聞き入れられます。」とありますが・・・

これって口語訳が誤訳であることを明確に示していますね。祈りが本来の意味とは完全に違っています。

意図的なプロテスタント的行為!

アホですが、よろしくお願いします。

この前、私は、人を赦しますは、自分1人では、無理。誰かの力を借りて、赦す気持ちにと習いました。だって、簡単に人は赦せません。赦せるのは、父である神です。この祈りも、美学的な神秘できていると。美学=信じる、愛を表す。
これからも、わかんない相談しますが、お願いします、

聖書によれば口語訳は誤訳

イエズス様が主祷文を教えるところ(マタイ6.9-13)に続いて、次のように書かれています。もし、あなたたちが人々の過ちを赦すなら、天の父もあなたたちを赦してくださる。もし、赦さないなら、天の父も赦してくださらない。

コンペンディウムを持ち出さなくても、聖書だけでも、口語訳は誤訳と断定できます。それなのに、なぜ、聖公会の訳を採用したのか。聖公会が日本のカトリックのモデル、将来のあるべき姿とでも言うのでしょうか。

朗読後のことばについて

いま手元にないのですが、文書の形で見た記憶があります。

それによると、日本語版のミサ典礼書で、会衆が唱える個所(「神に感
謝」)が省かれている理由は、聖書の朗読を沈黙のうちに味わうことが
できるようにするためだそうです。

朗読者が「主のみ言葉」と唱えない理由も同じとのこと。

なら侍者の「神に感謝」も同じ理由で省いたらと思うけれど、そこは
例外だそうです。

聖書の朗読を沈黙のうちに味わう必要性は分かるけれど、わざわざ
規範版を変えなくてもいいんじゃないのと思いますが。

No title

v-254skloveさん、ようこそ。

あなたの仰るように、どうして「神に感謝!」が聖書の黙想を妨げることになるのか・・・

バチカンやイタリアなどの外国では言っても黙想の妨げにならないのに、日本では妨げになる理由がわかりません。

意味不明で・・・信者にケチをつけられたから、こじつけの後付け理由のような気がします。


v-254異邦人ヨハネさん

文語体はリズムがあり、心地よき響きがあります。
日本の善き伝統文化であります。

これにケチをつける司教・司祭方は、余程、学生時代に古典の授業で苦労されたとか・・・・でしょうか?

文語体の良さが分からない程度の日本文化理解度で
翻訳をされることの恐ろしさを感じます。

仏教でも僧侶は法要では文語体を使います。
口語体では、荘厳さがでず、軽薄で字余り。


v-254サボテンさん

今度、長崎の神父様に尋ねてみます。

第一朗読、第二朗読、福音朗読の後の式文

maggieさん

1970年ミサ典礼文の羅英版がインターネット上にあります。

http://www.catholicliturgy.com/index.cfm/FuseAction/Text/Index/4/SubIndex/67/ContentIndex/10/Start/9

下から3分の1くらいに、Kyrie(キリエ)とGloria(グロリア)、
その下に、First Reading (Proper)、Second Reading (Proper)
、Gospel (Proper)と続きます。

第1朗読の後、第2朗読の後、福音の後、
ラテン語では、朗読者が Verbum Domini.(ヴェルブム・ドミニ)と言うことになっていますが、

英語(USA)版の訳は、
第1朗読、第2朗読の場合:Word of the Lord.
福音の朗読後:This is the gospel of the Lord.と英文を変えていました。

ただし、英語版は最近新しい式文が認可されたと聞きますから、
このインターネット上の式文はそれ以前のものかもしれません。

第1朗読、第2朗読の後:「主の(み)ことば」
福音の朗読の後: 「これは主の福音です」

日本のように「神に感謝」と司祭が言ってしまうのとは全く異なりますね。

長崎の神父様に是非お聞きになって、また記事にして下さい。

ラテン語のミサ バチカン2以前

日本では バチカン2以前ミサの習慣をたまに見ます。
たとえば、バチカン2以前 1965年台以前 には 日本もふくむ世界中、説教以外のミサの言語はラテン語で、また、ミサの方式も世界中 同じであった。 古いミサでは 最初の 朗読は Epistle その終わったあとは Altar Server のみ (一般信者は何も言わない) Deo gratias と言う。 また、そのあと左側に移って Gospel を読んだ後は同じく Altar Server のみ  Laus tibi, Christe と言う。 一般の信者が返答をするのは 1940年 くらいからの出来事でそれまでは 返答は Altar Server のみ。 もともと Altar Server も Clergy の一部 Minor Ordoで 1900年ころ Minor Ordo の不足から 男子がその代わりをすることができるようになった。 その名残で Altar Server は Clergy の着る 服装 Cassock 長い黒色の服装 を着ている。 つまり もともと 返答できるのは Clergyの一部である者のみ。 一般信者は黙っていて、座ったり、ひざまついたり、たったり、手で胸を打ったりするのみ。 
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Author:maggie tonton
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