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正義と平和

シナピス学習会 寄留者って?

シナピス学習会と称して
以下の勉強会?洗脳会?を計画しているようで・・・

<神戸地区>
在エジプト・ヘブライ人のモーセと
在日・韓国・朝鮮人の私
寄留者の苦しみを体験させる神
日時:2010 年6 月19 日(土)14 時~16 時
場所:カトリックたかとり教会 聖堂
講師:林 和則神父(社会活動センター・シナピス センター長)
主催:カトリック大阪大司教区 シナピス



でも、不思議です
どうして、エジプトで奴隷になってた
ヘブライ人と一緒にするのか?

日本は別に、当時のエジプトのファラオのように
無理やり止めおいてもいないのに

日本にいたいから、住み続けているだけでは?

ここで、個人的なことを例にあげて
「祖父は強制連行されて来た」とでも
仰るのでしょうか?

皆の前で話す時には、責任があるのですから
ちゃんと、お爺様やお父様に事実を尋ねた上で
真実を話していただきたいものです

そして現状認識として、
日本人に優る厚遇を受けていることを話すべきです

例えば、日本人よりも簡単に生活保護は支給され
年金に入るように特例を設定しても
「否、自分たちは祖国に帰るので入りたくない」と
加入を拒み、掛け金も払わず、
納付期間15年を免除してもらってもなお 
未加入を貫いた人たちが
今度は、年金がないのは差別だと騒ぎ
日本人なら加入期間が1ヶ月足りなかっただけでも
自己責任で放置されて無年金に
在日にのみ、福祉給付金は支給されています

このような理不尽を要求するから
差別感情はなくならないのです

本当に貧しければ、生活保護を受けているはず

ある携帯電話会社では、在日割引なるものもあり
特権階級にさえ見えるのですが・・・

人間生きていれば、苦しみもあります
高待遇を受けていても、なんらかの苦しみはあるでしょう

それはどこからくるものですか?

嘘を言い続ければ真実になり
要求し続ければ叶えられるという
朝鮮半島の習慣を
私たちは受け入れるべきなのでしょうか?

これはキリスト教的なものなのでしょうか?
悪から生じるものではないのでしょうか?

「寄留者の苦しみ」と言う時には、
不当な状況の中で労働を強いられている場合や
自由を束縛されている場合を指します

少なくとも、在日と言うだけで
この「寄留者」にはあてはまらないと思います

くだらない学習会に行かずに
もっと素晴らしい教えに耳を傾けるべきと思います

教皇ベネディクト16世の
上記にあてはまるメッセージとお説教を紹介します

2010年 四旬節メッセージより一部抜粋

不正の原因とは

  福音記者マルコは、清いものと汚れたものに関する当時の論議の中で、イエスの次のようなことばを挿入し伝えています
「外から人のからだに入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。
……人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである」
(マルコ7・15、20-21)。
ファリサイ派の人々の反応を見ると、食べ物に関する直接的な問題とは別に、人間には悪の源を外的要因に据えようとする誘惑がつねにあることが分かります。
現代のイデオロギーの多くは、その根底に次のような前提をもっています。
すなわち、不正は「外から」来るものであり、正義を実現するには、その達成を阻む外的要因を取り除けばよいという前提です。
キリストが警告するように、このような考え方は浅はかで短絡的です。
悪の果実である不正は、もっぱら外的要因によるのではありません。
その源は人間の心の中にあります。
そこでは、不正の種が悪と神秘的に協力しています。
詩編作者は悲痛のうちにこのことを認識します。
「わたしは咎のうちに産み落とされ、母がわたしを身ごもったときも、わたしは罪のうちにあったのです」(詩編51・7)。
実に、他者と交わる能力をそぐ強い力によって、人間は弱められているのです。
人間は生来、寛大に分かち合うことに開かれています。
しかし、人間はその存在のうちに奇妙な引力を持っています。
その引力は人間を内向きにさせ、他者に対して上位にあり対抗するべき関係にあると確信させます。
これが原罪の結果である利己主義です。
アダムとイブは悪魔の嘘にそそのかされ、神の命令に背いて禁断の果実を採り、愛のうちに信頼する論理を疑いと競争の論理に置き換えました。
すなわち、神から受け、信頼して神に期待する論理が、不安のうちに奪い、自分勝手に行う論理に取って代わったのです(創世記3・1-6参照)。
その結果として、不安と疑いという感覚を体験します。
どうしたら人間は、この利己的な力から自己を解放し、愛に向けて自らを開くことができるのでしょうか。

正義と「ツェダカ」

  イスラエルの英知の真髄において、「乏しい者をあくたの中から高く上げ」(詩編113・7)る神への信仰と、隣人に向けた正義の間には深いつながりが見られます。
正義の徳を示す「ツェダカ」というヘブライ語のことばそのものが、このことをよく表わしています。
実際、「ツェダカ」は、イスラエルの神のみ旨を完全に受け入れることを意味する一方で、隣人、とくに貧しい人、寄留者、孤児、寡婦(申命記10・18-19参照)との関係における公平さ(出エジプト20・12-17参照)も意味します。
しかし、この二つの意味は結びついています。
なぜなら、イスラエルの民のために貧しい人に与えることは、ご自分の民の苦悩をあわれむ神から借りているものを返すことに他ならないからです。
シナイ山でモーセにおきての板が与えられたのが、紅海を渡った後であったことは、偶然ではありません。
おきてを聞くことは、神への信仰を前提とします。
神はまず民の「叫び声を聞き」、それから「エジプト人の手から彼らを救い出すために降って行きました」(出エジプト3・8参照)。
神は貧しい人の叫びに心をとめ、そのこたえとしてご自身に耳を傾けることを求めます。
神は貧しい人(シラ4・4-5、8-9参照)、寄留者(出エジプト22・20参照)、奴隷(申命記15・12-18参照)への正義を求めています。
ですから、正義を実現するには、閉ざした状態の深みである自己充足という幻想から離れる必要があります。
それは不正の根源なのです。
言い換えれば、神がモーセとともに成し遂げた脱出よりもさらに深い意味での「脱出」、おきてのみでは実現不能な心の解放が必要とされているのです。
さて、人間には正義への希望がいくらかでもあるのでしょうか。
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/lent/10lent.htm



聖パウロは、エフェソの信徒への手紙の中で、人間が「神の本性にあずかる」(第二バチカン公会議『啓示憲章』2)ように招かれていることを、詳しく述べています。
わたしたちは、キリストを通して一つの霊に結ばれて御父に近づくことができます。
だから、わたしたちは、もはや外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、神の住まいである聖なる神殿へと成長していくのです(エフェソ2・18-22参照)。
いのちの交わりが示すこの最高の描写は、わたしたちキリスト者としての生活のあらゆる面に関わっています。
実に、キリストを通じて自らを伝えてくださった神に忠実に従うようにという招きは、神の力がわたしたちを貫き、さらにその力が人びとへと広がろうとしていることを認めるようにという招きです。
こうして、神の愛は、真の意味で世界に広く認められた基準となることができるのです(教皇ベネディクト十六世「ワールド・ユース・デー・ケルン大会閉会ミサ説教〔2005年8月21日〕」参照)。



今の、正平協やシナピスが活動しているのはまさに
「不正は『外から』来るものであり、
正義を実現するには、
その達成を阻む外的要因を
取り除けばよいという前提」
からであり、
それは、キリスト教的ではありません

「悪の果実である不正は、
もっぱら外的要因によるのではありません。
その源は人間の心の中にあります。
そこでは、不正の種が
悪と神秘的に協力しています。」

とあるように、
私たちが正義を求めるためには、
まず、福音で満たされること
だと思います。

教導の場にある聖職者として
重箱の隅を突っつくようにして
外に責任を求め、追及することが
その役務ではないはずです

「正義を実現するには、
閉ざした状態の深みである
自己充足という幻想から離れる必要」

があると書かれていますが、
これを皆に求めるべきなのではないでしょうか?

淘汰されようとしている差別問題を
ことさらクローズアップして、人心を惑わせ
差別利権問題に組するようなことはせず
真に自己充足からの解放を説くべきなのではないでしょうか?

「へだての壁を越えて」から
「へだての壁をとり壊して」と移行したようですが

「わたしたちは、
もはや外国人でも寄留者でもなく、
聖なる民に属する者、神の家族であり、
神の住まいである聖なる神殿へと成長していく」

ように、いかに神の愛に満たされるかが、大切かと思います

憎しみのないところに憎しみを感じさせ
悲しみのないところに悲しみを感じさせ
平穏に暮らしているところに被害者意識を沸き立たせ
誇りを持って生きたいと思う人を自虐的に追い込み
相互不信へと導くのではなく

真実の上に、キリストの教えのように
愛と信頼によって
互いに思いやりの心をもてるようにするのが
務めではないのでしょうか?

この世にあって、からし種(シナピス)か毒麦の種か・・・???
コメント

No title

シナピスや正平協とかって、霊魂の救済や利益になること(聖アウグスチヌス的に言えば「教育」)に関しては何もせず、人の肉体の善益(実際は教義軽視のサヨク活動)のみになっていますね。
基本的に彼らの霊魂は病んでおり、情欲によって刺激されなければ行動できない状態に陥ってしまっています。
その情欲とは「闘争」。
そのためには嘘であろうと何であろうと「抑圧される者」を作り出し、闘争の目標である「敵」を常に作り出さなければならない。
主よ憐れみ給え・・・です。

「ちえちゃん」を名乗る方へ

ネットにおいても、ルールがあります。

他人の名前を使うこと、話題と関係のないところに書き込むのは、禁止です。

掲示板と全く同じ文章を、こちらにも書き込むのは、辞めてください。

以上の理由で、削除しますね。

くだらない学習会

くだらない学習会に行かずに
もっと素晴らしい教えに耳を傾けるべきと思います

賛成! 賛成! 大賛成! 

でも、相手もしたたかで、動員かけてくるのですよね。
女性何名、作業できる人何名とか…。

課せられた人数集めに困っている信者会の会長さんや、信徒使徒職関係の方の顔を立てて、しぶしぶ行かせられる…。

場合によっては教会から交通費を支給するとか色々な手段を使い…。

それでも断固として拒否する人がいてもいいですよね!

(私も以前は疑問に感じつつ協力してきましたが、以後拒否してやります!)
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