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福者ヨハネ・パウロ2世

私の入信のきっかけとなったのは
訪日されたヨハネ・パウロ2世教皇の姿でした

姿、表情、立ち居振る舞いをテレビで見ていて
今まで世界史の時間に習った先入観から
解き放たれました

教皇になられた頃から、
難病に罹っておられるとの話でした
おそらく、パーキンソン病だったのでしょう

世界中を駆け巡るお姿から
いつしか難病というのも忘れてしまっていました

狙撃されて、腹部に銃弾を受け、腸を損傷し
一時は治療のため人工肛門を使われ、
後に腸の形成手術を受けられました

問題のない国にばかり行かれたのではなく
問題を多く抱えた中南米の国にも行かれました

ヨハネ・パウロ2世が就かれた頃
ブラジルをはじめ南米では「解放の神学」派の勢力が
司教協議会にも及び、マルクス主義に染まってました

その状況下で、共産主義司教の引退時に
保守派司教を選任し
教会に混乱が起きないように徐々に
10年をかけて司教協議会を建てなおされました

教皇様はポーランド出身で共産主義の国の中で
苦しむ信徒とじかに接し、
共産主義政府の圧力の中でかじ取りをされてこられ
反共産の立場は絶対でした

「解放の神学」を排斥する教書も出されました

しかし、不従順な日本司教協議会は
その教書を封殺し、信徒の目に触れないようにしました

その次の教書「自由の自覚」
こちらは、前回よりも穏健な表現で
こちらのみを出版しました

当時の事務局長の松本錦治師の良心の呵責からか
あとがきに第一の文書の存在を書いています

「自由の自覚」本文を読んだあと
何かおかしい!と感じ
あとがきを読んで、該当する教書を探しても
出版された形跡はなく、行方不明でした

でも、このネット社会では
一般信徒もバチカンのHPにアクセスできるのです

そこで、第一の教書を発見し
「教会の政治活動を憂慮する会」の方々に
その文書をご存知か?
その文書の翻訳がどこかにあるのか?と尋ね
日本の信徒には葬り去られたも同然の状態にあることが
ようやく明らかになりました

これは、日本の教会の動きが
聖座から大きく外れていることを示しています

でも、日本の信者には
教皇ヨハネ・パウロ2世の存在感は圧倒的でした

そこで日本の司教方がなさったのは
教皇ヨハネ・パウロ2世の印象操作です

その道具として広島での平和アピールが使われました

教皇さまは人を殺しあう戦争を非難し
世界平和を求めるようにと語られました

それが人間の責任であると・・・


でも、それに至る手段は我々に託されたのです

非武装などは説かれていません


だって、バチカン内はスイス衛兵が守り
イタリアの軍隊が守っているのです

『備えよ!常に!!』なわけです

でも、大阪教区ではシナピスを先頭に
広島アピールを利用した非武装を要求しています

でも、先に宣言した高槻市でも
その先頭に立つのは、中核派系平和団体

中核派と手を組み、非武装を説き
国の境はへだての壁と捉え
へだての壁を取り除こうとの呼び掛け

聖職者の言うことを鵜呑みにする信者は
知らない間に
どんどん聖座から切り離されていきます

自分は従順な信徒だと安心しているうちに・・・

今年、列福式がありましたが
日本では未曾有の大震災と政府による人災で
お祭りムードにはなりませんでした

司教協議会は、ヨハネ・パウロ2世から
「反共」という大きな要素をうまく隠しおおせたと
ほくそ笑んでいるのでしょうか

「ヨハネ・パウロ2世」=「広島平和アピール」

このイメージ戦略のため
平和アピールを印刷し、配布しました

忘れてもらっては困ります
ヨハネ・パウロ2世は「解放の神学」排斥有功者です

そして、日本では典礼を日本文化に適合させるとか
第2バチカン公会議の精神で・・・とか
得手勝手な理由で好き勝手に典礼を崩しましたが
それにストップをかけられたのも
ヨハネ・パウロ2世です

『指針 あがないの秘跡』は
ヨハネ・パウロ2世の意向を受けて出されたものです

その翻訳を、自分たちに都合が悪いから
何年も出版せずにいたのも日本の司教協議会です


日本の教会も10年かけてお洗濯が必要なようですね

コメント

カトリック教徒もいろいろ

カトリックにもいろんな人がいて当たり前ですね。
人間なんだから。
一生遊んで暮らせる大金持ちもいれば、明日の食事にも事欠く人もいるし、
生まれたときから路上で暮らさざるを得ない人もいる。
その人の立場によって、信仰に対する考えが異なってくるのは仕方がない。
人間なんだから。人間は完璧なものじゃないでしょ?
そもそも、人の心を支配することなど出来ない。
そりゃあ、異端は死刑にするぞと脅したら黙るかもしれないが
それでも人の心は支配できない。
そもそも、いろんな考えの人を抱擁する寛容こそが宗教のあり方だけどね。
生きていくのは大変だ。そうそう杓子定規にはいかないし、やむをえないこともある。
tontonさん、あなたも完璧な人間じゃあるまい。
今までにいろいろな過ちを犯してきたはずだよ。
現に、今だって過ちを犯していないと断言は出来まい。
あなたは完璧な人間じゃないのだから。
今までに過ちを犯してきた人間、現に今も過ちを犯している人間に
人の過ちを非難する資格があるのかね。
tontonさんには、過ちを犯さざるを得ない弱い人間への寛容の心を持って
カトリック教徒として懐の深いところを見せて欲しい。

市井の一市民さんへ

まず、過ちについて、
多くのカトリック信者は自分が罪びとであり
弱い人間だと認めています。

当然、私も罪びとなわけで
楽な生き方を選択したいという誘惑にもかられます。

その時に力となり道を示してくれるのが
聖霊であり、福音であり、
聖なる教会です。

人間は罪を犯す存在、
罪に傾きやすい存在です。

そんな弱い人間が集まるのが教会です。

私は一信徒の思想や行いを問題にしてはいません。

私が問題とするのは、
司牧者たる聖職者、修道者
特に高位聖職者の司教方です。

彼らには、信徒は尊敬の念を感じ
彼らの口から出る言葉を
疑うこともなく、
そのままに受け入れてしまうからです。

天国への道を求めて教会に通いつつ
高位聖職者の、
教義とはかけ離れた思想や活動に
巻き込まれ、道を踏み外し、
それについていけない信徒は
疎外されるという現状に
意見を言っているだけです。

異端についてですが
今の信者は何が異端であるかも
よくわからないでしょう。
それほどに、私たちは
本来ならば教えられる教義も教えられず
護るべきものが何であるかもわからない状態で
聖職者の教導を受けています。

教育もまともに受けられなかった時代から
信仰は続いてきていますが、
それはひとえに聖職者の教導によるものです。

今、その教導が一部の聖職者において
教導でなくなって来ています。


>いろんな考えの人を抱擁する寛容こそが宗教のあり方

今、教会ではどういうわけか
裕福な信者を冷めた目で見つめ
「国を愛する」という当然のことを口にすると
排除され、問題者扱いされる現状があります。

その言葉はそのまま聖職者の方々に差し上げたいです。

ところで、宗教には寛容な面だけではなく
厳格な面があります。

宗教によって護るべきものは何であるかは
それぞれに異なりますが・・・

その護るべきものを外部から非難する人たちに対して
私たちはその存在を認めます。

しかし、内部で傷つけ破壊していく者に対しては
毅然とした態度を取らねばならないのです。

No title

高位聖職者も人間、そして地位は過ちを犯さないことを保障しない。たとえ相手が頑なであっても、あなたが寛容の精神でもって相手に挑むことに問題はあるまい。

何事においても、穏やかに話し合いで解決をしてください。
tontonさんは決して、声を荒げないように。たとえ、相手が
声を荒げたとしても。

争いは決してせぬようにね。
あなたが寛容の心を決して捨てにことが相手の心を溶かすのです。

市井の一市民さんへ

どうぞ、ご心配なく

私自身は、聖職者や修道者から
濡れ衣を着せられ、
あたかも犯人のように写真をばら撒かれても、
また、パワーハラスメントに値する暴言を吐かれ、
自殺しろとばかりに言われても、
相手が聖職者である限り
ひたすら耐え忍んでいますよ。

教会内でのことで
一般の事件にするようなことはしません。

私は元来、争いは好みません。

聖職者や修道者の人間的弱さはよく見て来ました。
それに対して目くじらたてることはないのです。
彼も人なり・・・と祈ります。

でも、譲れないものは譲れないのです。
これは、日本殉教者の遺訓でもあります。
争うのと毅然と対処するのとは異なりますから。

Maggie さんへ

「一イグナチオ所属信者」と名乗り、あたかも自分が聖イグナチオの人達の代表的な意見を持っているかのように書かれたことがありました。しかし、その人は外国に住む人で、聖イグナチオ所属信者ではありませんでした。

「一市民」と名乗り、

・高位聖職者の批判をやめろとほのめかす。

・「カトリック教徒として懐の深いところを見せて欲しい」と勝手におだてながら、高位聖職者の言動に寛容であれとさとす。

・二つ目の投稿では、「寛容であれ」のオンパレード。
 高位聖職者の批判をするな、批判の声をあげるなという。

言葉の使い方から、この人は、カトリック教会内にいる方ではないのではないかと。

自分に与えられたどんな任務を自覚しておられるのかは不明ですが、

Maggie さん、

教会の中のことに声をあげることは、それは勇気がいることです。

特に高位聖職者の行為や言動をきちんと批判することは、それは勇気が要ります。

「寛容の精神、寛容の徳の実行」が大切だと思うのなら、
自分(書いた人)が自ら黙って実行すればいい。

「寛容の精神」という聞こえのよいスローガンをカクレミノにして、
悪しき行いや考えに目をつぶっているよりも、
声をあげて指摘することの方が、どれほど困難なことか…。

教会内の人間関係を知っている人ならよく理解できるはずです。
書けば必ず批判や嫌がらせを受けることは、以前からありました。

上のような連続投稿に左右されるmaggie さんでないことは百も承知ですが、あえてエールを送ります。

がんばってください。

教会文書(第二バチカン公会議公文書)では信徒が発言する権利を認めています。

日本の教会がおかしいことは気づいていても、どこがどうおかしいから、今のような状態に陥っていることまで分析的に書ける人は少ないです。

悪(客観的な行為・考え)を告発するのに、柔和も寛容もありません。聖霊の賜物である、「剛毅」の精神をもって、的確に冷静に、ここがこう間違っていると書いてもらえる事が、読者にとっては一番親切です。

カトリック教会内にいて、その惨状を見ている者にとっては、maggie さんの指摘は、考える手立てになります。問題点を正しく指摘されていると思います。

逆に問題点を指摘されると困る人にとっては、うっとうしい存在に見えるのかもしれません。

遠慮は要りません。

今まで通り、教会内の問題を指摘する、貴重な存在であってください。

教会のことを思っているからこそ、ある人にとっては耳の痛い指摘にもなるのですから。

サボテンさんへ

有り難うございます。

教会は皆さんが癒しや力をいただくために集うところです。

波風立てずに穏便に過ごしたいのは
信者ならば当然のことです。

でも、見て見ぬふりをできない惨状があります。

私の家族には信者はおりませんし、
家族に火の子が降りかかることはないので、
そういう立場も神様からの思し召しとして
教会を破壊に導く方々と闘うことにしたのです。

神様から与えられた良心が、
そのままでいいとは言ってくれないのです。

たとえ教会に行けなくなるようなことになったとしても本望です。

慰めは神様からいただきますから。

私はヨハネ・パウロ2世を通して神様から招きを受けました。
ですから、ヨハネ・パウロ2世の姿が歪められることは、何よりも悲しいことです。
ヨハネ・パウロ2世が熱心に取り組まれたことを
まっすぐに受け止めたいと思います。

市井の一市民さんへ

あなたのコメント7月30日のコメントは、サボテンさんと私への名誉棄損にあたります。
このコメントを公開することは、サボテンさんへの名誉棄損行為に協力することになりますから、公開致しません。
IPアドレスとコメントは保存しておきますから。
これは、教会内での出来事ではありませんので、それなりに対応させていただきます。

10月22日は記念日

昨日になってしまいましたが、福者ヨハネ・パウロ2世の
記念日でした

素晴らしい教皇様と同時代を過ごせたことを神様に感謝して
います
今の教皇様も素晴らしいですね!

マギーさんとサボテンさんを応援しています
お二人のご意見にいつも同意し尊敬しております
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