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社会と福音

『裁き』について・・・四旬節の考察

そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」〕(ヨハネ8・3-11)

この聖書の箇所をある方が引用されてから
私のもとに、複数の問い合わせがありました。

その問い合わせを要約すれば
「カトリックは罪を犯した人間を
裁くな!野放しにしろ!という教えなのか?」
というものだったと思います。


これは躓きを与えることになりかねず
福音の意に反することにもなりますので
私の受け止め方をお話したいと思います。


まず、『裁く』ということには
3つの『裁き』が考えられます。

私たちはこの社会に生きているのですから
社会的な法律による『裁き』

イエズスを陥れるために、
納税について質問した人々に対して
お金を提示させ、その銀貨の皇帝の肖像を指摘し
「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
と仰られました。

この世のもの(罪)は、
この世のもの(罰)で報いを受け、
神へのもの(罪)は神に・・・

これは、司法が処罰を決めるので
それについて、とやかく言うべきではないと思います。



次に、罪を犯した人への私たちの思いや態度

これを『裁き』と捉えることもできると思います。


3つ目は、神の『裁き』

以前に、私は自分の姿勢として
死者についてとやかく言うのは好まないと
書いたことがあります。

この世から神の領分に移った人を裁くのは
神への越権行為であり、
畏れ多いことだと思うからです。

神は全てを知っておられ、
行いだけではなく、心の中まで知っておられて
その上で裁かれるのです。




さて、今回は、私たちの態度について
取り上げてみたいと思います。

あの聖書の箇所で、
姦通の女はどのような態度だったのでしょうか?

引きたてられてきて、自分の罪を知っていて
殺されても仕方がないと
恐れおののいていたのは
簡単に想像できます。

ゆえに、イエズスは
「わたしもあなたを罪に定めない。
行きなさい。
これからは、もう罪を犯してはならない。」
と仰ったのです。

ここで重要なのは、『改心』だと思います。
キリスト教では『回心』といい
心を神の方に向け、立ち返ることを言います。

もし、この姦通の女が悪態をつき
「このくらいのことで・・・」とか
「よくも私を引きたてたな!」
などと悪態をついていたら、
このようなイエズスの言葉はあったでしょうか?

自分の罪を認めることが大切です。

まず、自分の罪を認め、
本当に罪深い人間だと自覚するならば
それは、態度や行いにあらわれるものだと思います。

そしてその人は悔い改め、
自分の犯した罪を償おうとするものです。



聖書の表面的な言葉だけを読むのではなく
心で読むならば
そのメッセージである
「自分の罪を認める」
「悔い改め」に
行きつくのではないかと思います。

深く悔いている人に対して
責め立てるようなことはしてはならないのです。

罪について言うならば
軽犯罪であるかどうかや
金額の問題ではないのです。



さて、キリスト教では、
今、『四旬節』と言って
復活祭の前の回心の季節を過ごしています。

四旬節には教皇様がメッセージをおくり
留意し黙想する指針を与えてくださいます。

「四旬節メッセージ」
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/lent/12lent.htm

「互いに愛と善行に励むように心がけましょう」
(ヘブライ10・24)
という聖句をテーマになさっておられます。

「互いに思いやりをもちましょう」と呼びかけられ
兄弟姉妹に対する責任に言及されています。

私たちの「『プライバシー』を尊重するという仮面に覆われ、
利己主義から生じる冷淡で無関心な態度」
を指摘され
思いやりを持つようにと諭され、

「他者に思いやりをもつことは、
身体的、道徳的、霊的といったあらゆる観点で、
他者によいことを望むことを意味します。」

と説かれています。


このメッセージが公表された際
教皇庁開発促進評議会議長のサラ枢機卿は
「兄弟間での忠告」に注目し、
教会には世界の不正義や貧困の状況を
非難する預言者的使命があることを強調されて、
こうした不正義に打ち勝つためには、
その状況の根底にある道徳的問題に
取り組まなくてはならないと説かれました。

特に富の許しがたいほどの不均衡により
最貧層はもっと貧しくなっていることを指摘されているのですが

「この兄弟間での忠告」「思いやり」であるのです。

真の「思いやり」は
何も耳触りのいい言葉で慰めあい、
美辞麗句を連ねることではなく、
隣人が悪から立ち返るために
尽力することであると言えます。



カトリックには沈黙を
美徳のように扱うことがありました。

それによって、多くのいたいけない子供たちが
背徳司祭たちの犠牲となり
多くの子供たちの心と体を傷つけ、
その傷を深め、広めていきました。

被害者の訴えに対して、裁治権者である司教が
相応の処置をしなかったのです。

これに関連して
教理省のシクルナ神父は
「沈黙の文化自体が誤りであり不正義」
と指摘しています。

不正義を前にして沈黙することは
美徳ではなく、神への背信行為であるのです。


私たちカトリック信者は
四旬節メッセージを
自分への呼びかけとして受け止め
思い、言葉、行いに
反映していかなくてはならないと思います。
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