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聖座

諸宗教との対話 ?

碑文谷教会での2年前の
諸宗教合同世界平和の祈りの写真は、ショッキング
http://gokyo.ganriki.net/index.html   (09.09.18)

諸宗教対話は、まず各々の宗教の大切としているものを
しっかりと相手に伝えることが肝心だと思う
今の聖職者はそれをちゃんとしていない
大切と感じていないのかな???

聖櫃のある空間、秘跡が行われる聖なる祭壇
ここには、信者なら特別の思い入れがあって当然なのに
諸宗教対話のマイナス・イメージは、
聖なるものを軽視する けじめのない聖職者の責任と思う
なんでも譲ればいいってもんじゃない

相手が大切にしているものを侵害しないこと
それは諸宗教対話の基本中の基本

互いに、侵されたくないものを尊重し合ってこそ
信頼関係が築ける

しかし、大阪教区の私がいうのもなんですが
さいたま教区は酷い!

毎年、川越教会で諸宗教合同世界平和の祈りの集会が
行われている
それも、聖域の十字架像の奥に旗を張り付けるなんて
良心も感性もマヒしているとしか言いようがない
あんな旗を貼って、まるで政治集会をしているようだ
まぁ、教区長が教区長だから・・・
http://www.user.kcv-net.ne.jp/~kawagoecatholic/
http://www.user.kcv-net.ne.jp/~kawagoecatholic/topic/08_09.html#

これと同じように
お寺のご本尊の仏像のところに旗を貼りつけるだろうか?
神棚のところに貼り付けるだろうか?

きっと毎年、
『何も知らない神父たちが節操なく すり寄っている』と
うまく利用されているんでしょうね

私は世界平和のために
共に聖堂で祈ることは反対はしないけども
それは、朗読台で祈りの先導をするくらいまでで
聖域には入ってほしくない

そして、聖堂内で祈るなら、共通の祈り方で
御経や祝詞(のりと)はあげてほしくない

例えば、次に紹介するような集いは
諸宗教対話の本来の形かと思う
http://www.yukuhasi.catholic.ne.jp/kyouku/0902.pdf

 禅寺でのクリスマス
南島原市口之津の玉峰寺(曹洞宗)で
12月17日、クリスマスの祝いが行われた。
中村知見住職の主催で、真命山諸宗教対話センタ―の
メンバーは今年も招かれて参加した。
今年のテーマは、
「釈迦の言葉とキリストの言葉―座禅と祈りのコンサート?―」。
まず集まって来た檀家の方とお客はしばらく座禅を組んで、
その後コンサートの第一部が演奏された。
続いて、釈迦の言葉を東京の奈良康明老師
(駒沢大学名誉教授・元学長)が唱え、キリストの言葉は、
真命山の院長のフランコ神父が唱えた。
一つひとつの朗読の後に音楽が演奏され、
静かな雰囲気の中で瞑想が出来た。
聖書の朗読は、イザヤ(キリストの誕生の予言)、
ヨハネの福音(受肉の神秘の宣言)、
聖パウロのテトスへの手紙(キリストとともに生まれる
キリスト者の新しい生活)が読まれた。
250人以上の参加者は沈黙の中で釈迦の言葉と
キリストの言葉を素晴らしい音楽のコメントと
共に味わった。


現地の寺院は長崎教区内で、
真命山は熊本で福岡教区だけど・・・
長崎教区では、未だに信者の間には
感情的なしこりが残っているのか・・・
寺社信者側は、目に見えない差別感情を秘めているし
カトリック信者は虐げられてきた敵対心を忍ばせている
このような感情は、日常では表には出さないけども・・・

そういうところでこそ、このような互いの宗教を知り
尊重するのが必要だ

次にこういうのが、アリンゼ枢機卿様の仰ったような
福音宣教の一つかと思う<

 真命山のクリスマス
今年も真命山のクリスマスは蜻浦の子どもたちと
いっしょに祝われた。
それは、もう22年もつづいている。
ことの初めは、蜻浦の小学校6年生の子どもたちが
この山に登ってきて 
「わたしたちのためにもクリスマス会をするの?」
と尋ねたことがきっかけだった。
真命山のスタッフたちは、考えてもいなかったが、
「もちろん、しますよ!」と答えてしまった。
そして、あわててクリスマスの準備をしたのが
1987年のクリスマス会だった。
そのときからずっと、蜻浦の子ども会といっしょに
真命山でのクリスマス会は続いている。
今年は12月23日(火)、みんなで歌の練習から始め、
カレーライスを食べたあと、ローソクをともし、
行列しながら暗くなった坂道を本堂へ向かって行く。
そこに馬小屋がいつものようにしつらえてある。
マリアさまとヨセフさまの間には、
馬ぶねに寝ている幼子イエズスさまが置かれ、
馬小屋のまわりには羊飼いや牛も馬も、
そして少し離れたところに
3人の博士の人形が置いてある。
その意味を話したあと、
みんなでクリスマスの聖歌を歌う。
おしまいにルカによる福音書のクリスマスの場面が
読まれる。
朗読者の両脇で2人の女の子が聖書をささえ、
また2人の男の子がローソクを手に持って立ち
聖書を照らしている。
最後に聖歌を歌い、本堂を出て食堂へ向かう。
そしてクリスマス・ケーキをみんなでおいしくいただき、
それにつづいていっしょに歌とゲームを楽しむ。
夜が深まる頃、子どもたちを
蜻浦のお地蔵さんの所まで車で送り届けると、
そこにはお母さんたちが子どもたちを待っている。
「どの子もクリスチャンではありませんが、
きっと、みんなの心に、いつまでもこの温かい
神の家のぬくもりが良い思い出として残ることでしょう。
小さな良い種まきでした。」と、
真命山のフランコ神父は語っている。


み言葉を楽しい思い出と共に贈り、
商業主義ではない本当のクリスマスの意味を知ってもらう

ところで、日本でも世界でも
宗教と文化は切り離せないと思う

茶道、華道などをとっても仏教と強く結び付いている
だから、文化をカトリックに持ち込むにも限度があると思う

私が祭壇のお花当番をしていた頃は
生花で一対に活けたものだった
欧風フラワー・アレンジとは異なった趣がある

生花には陰陽があり、流れがある
高さ80センチ程に一対に活けるのはなかなか難しかったが
中央の聖櫃の両端に置いた生花が
主を賛美し、仰ぎ見ているようだった

ミサ中、カリスをプリフィカトリウムで拭き取る時の所作は
茶道の心得のある方とない方とでは
所作の美しさが異なる

かといって、正座をして
茶道のお点前のようにミサをたてられても
戸惑いや違和感しか感じない

音楽だってそうだ
雅楽の調べでは、神社に来たのかと戸惑ってしまう
現在、諸宗教交流やインカルチュレーションを
カトリックの伝統を壊すためにあるかのような運用を
されていることが、実に残念至極と思う
コメント

Liturgical Abuse in Japan

これはアメリカでも問題になっている Liturgical Abuse  ですね。 カトリック教徒はその他の教会にいって、その他の神を拝むことも禁じられているのに。 モーゼの第一の法律違反。 仏教寺でミサをするのなど 絶対だめですね。
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