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諸宗教との対話 ?

ヨゼフ・ジェンマ君は自身のブログ『護教の盾』で
第二バチカン公会議の諸宗教対話に疑問を呈している
というか反発しているようだ

真命山・諸宗教対話・霊性交流センターについても書かれている

私が4半世紀も前、入信間もない頃、
欧米の修道者がわざわざ来日し、こぞって禅寺で修行?していた
それを知って、とても不思議だった
東洋的神秘体験に魅かれて、といったところなのかしら???

聖座から座禅とカトリックの祈りとは別物だと言われて久しいが
でも、未だに傾倒している人がちらほら

一致点としては、真理を求めて静寂の中で祈るってことだけだと思うけど

まっ、カトリック教会の神聖なムードをぶち壊して
どんちゃん騒ぎのようなミサにしておいて
一方で、坐禅に静寂を求めるって言うのもおかしくない???

座禅など東洋的な神秘的ムードではなく
カトリックには確かな神秘・聖体の神秘があるんだから
それを、誰もが神聖なものと受け止め、感じられるようにと考えるのが
本当のような気がする

まぁ他宗教とは、目くじら立てて、宗教者が対立関係にあるよりも
互いに尊重し合う中での友好関係が必要なのだと思う

だが、現実を見ていると少々、危険な香りがしなくもない

ずっと以前、20年ほど前に、ヨハネ・パウロ2世の呼びかけで
アシジで世界諸宗教・世界平和祈祷会を開き
いろんな宗教者が世界平和を祈るということで集まったが、
『へぇ~、そんな祈祷会がアシジの大聖堂であるんだぁ
平和の使徒・聖フランシスコの大聖堂だから、シンボリックよねぇ』
というくらいの受け止め方だった
当然、それに合わせて祈ったりはしたのだが

だが、ヨゼフ・ジェンマ君のブログで詳しく書かれていて
大聖堂内の十字架を外したり、布を掛けて隠したりしたとか・・・
あらら、なんてこと・・・
これって、ちょっと配慮が足りなかったのでは?

そのような祈祷会は大聖堂内ですることはないと思う
他宗教の受け入れがたい象徴があるなら、そこではしなければいい
だって、アシジの聖フランシスコ大聖堂の前には、だだっ広い広場があるんだから
そこでやればすむ話
そこだって、聖フランシスコによって祝福された地 アシジだから

現在、日本ではそれを受け継ぎ、
比叡山延暦寺で毎夏、諸宗教合同平和祈祷会が行われているが、
伽藍や堂内では行わず、
広場に会場を設営してやっている

そりゃ、本山の堂内の仏像に布を掛けて回るなんて
それこそ、不遜の極みだから、お坊さんもしないよね

このことを例にしても分かるように、
諸宗教との関わり合いは特別な配慮を要する
一方的にこちらの大切にしているものを引っ込めるというのは
ひずみを生じるのですべきではない

諸宗教祈祷会は、一致できる事柄で集うことに意味があるのだから
集まる教派が聖堂内のシンボリックなものを好ましく受け取れないなら
聖堂でする必要はないと思う
集会場や広場ですればいいのだから

でも、外国人聖職者・修道者は日本文化にはまると
どうして、節操無く何でもかんでもそのまま受け入れるかなぁ

F会のL神父が諸宗教交流で金光教教会訪問をしたことがあった
広間で先方の説明を受けた後、本堂で平和の祈りをした後
最後に先方の導師のような人の指示通りに
柏手を打って礼拝して帰ってきたというのを聞いて驚いた
そこには日本人シスターもたくさんいたらしいのに・・・
後日、それを聞いて一言!「揃いも揃って、節操がない!」
本堂で平和の祈りをするからそうなるのだ
広間で平和の祈りをして
本堂では表敬の軽いお辞儀で充分なのに

きっと、一神教ではない他宗教とのお付き合いの経験がないからかな?
多神教や仏教にかかると、うまく丸め込まれてしまうのに

日本を沼地にたとえた作家がいたけど、
多神教や仏教徒のお付き合いは、けじめが大切だと思う

欧米人は、この辺のところが、実に不器用?無謀?だと思う

アシジでのことを見ても分かるように
バチカンの方々でも そのようなことが起きる

まぁ、人間は完全ではないから
失敗しながら成長していくものかもしれないが
神に赦しを乞い、その失敗によって傷ついた人々のために祈り
慎重に、しかし着実に目的に向かって歩んでいってほしい


真命山の「諸宗教平和の祈りの会」の写真を見つけた
http://www.d3.dion.ne.jp/~abba/pagenaiyou/album/album2.htm
各宗教が受け入れ可能なシンボルが自然なのだから
屋外での祈りの会をしている

諸宗教対話というときに、見失ってはいけないものがあると思う
それは自分の信じる宗教への確信
それなくして、またはそれがあいまいな形での参加は危険だと思う

前回に引き続き引用させていただくのは、少々気が引けるが

 「神様が私たちを造られた?」
 まるで鳩が豆鉄砲を食ったときのように大きな目をさらに大きく見開き、あいた口がふさがらない。
 「い、一体どんな風に造るんですか?」
 諸宗教交流は初体験の住職にとって初めて耳にする奇妙な言葉。
 「いや、ま、ま皆さんがそう思うのは自由だが・・・」
 昨日のお坊さんのあきれたような驚いたような複雑な思い丸出しの正直な反応が一日おいても
 思い起こされて思わず独り笑いをしてしまう。
 まさに相手も啓発される。これぞ諸宗教対話の始まり。
 今日最後のセッションは真命山三名のスタッフからの20数年にわたる各自の歩みと思いを語ってもらった。
 真命山は霊性の灯台。
 小さなグループだが多くの人々との出会いがあり、出会った人々が各地に帰っていく。
 真命山で伝えたいことは?自然の中に現れる神と出会うこと?沈黙。神との間の、人と人の間の、
 そして自分を見つめる道としての沈黙。?茶道の心。和・敬・清・寂を生活の中で生きること。
 ミサも下足をきちんと並べるのも・・・。
  http://sdemo.net/pken/Blog/archives/2009/3/7

司教様だから、それはちゃんと説明されたことでしょうが
失礼な坊さんだな・・・
それを言うなら、こちらだって
「い、一体どんな風に輪廻転生するんですかぁ?」だよ
前世は蟻んこだったなんてことも、無きにしも非ず?

司教様も、「ミサ」と「下足を並べる」のと同列に語るのはやめてほしい
まずもって、不遜の極み、無神経だと思う

ミサは、主がご自身を私たちに与えてくださるのだから
全然、別問題!

物珍しさにつられて・・・って感じにしか思えない
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