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アリンゼ枢機卿様とカトリック新聞 ?

 “It is the tradition of the Church that during the Mass the readings are taken only 
 from Holy Scriptures,” Cardinal Arinze continued.
 「ミサの間に、読本が旧約および新約聖書だけからとられることは、教会の伝統です」と、
 アリンゼ枢機卿は続けました。

 “Not even the writings of the Saints or Founders of Religious Orders are admitted.
 It is clear that the books of other religions are excluded, no matter how inspiring
 a particular text may be.”
 「聖人または修道会の創始者の著作さえも、認められません。
 特定のテキストがどんなに訴えかけるかもしれなくても、他の宗教の本が除外されることは
 明らかです。」
 Cardinal Arinze exhorted the continent's bishops to follow the Church's norms for 
 liturgical inculturation, so that “the local Church will be spared questionable or
 downright mistaken innovations and idiosyncracies of some enthusiastic cleric whose
 fertile imaginations invents something on Saturday night and whose uninformed zeal
 forces this innovation on the innocent congregation on Sunday morning.”
 アリンゼ枢機卿は、典礼のインカルチュレーション(文化受容)のために、教会の標準に
 従うように大陸の司教に勧めました。
 「現地の教会は、一部の熱心な聖職者の、その誰かの豊かな想像力が、土曜日の夜、
 この誰も知らない熱意から、疑わしいかまったく誤った革新と特例を発明し、日曜日の朝に、
 罪のない会衆に、押しつけるかのようなことから免れます」。
 “Dance in particular needs to be critically examined because most dances draw 
 attention to the performers and offer enjoyment,” he continued.
 彼は続けました「ほとんどのダンスが演技者に注意を向けて、楽しみを提供するので、
 ダンスは、特に批判的に調べられる必要があります」。

 “People come to Mass, not for recreation but, to adore God, to praise and thank him,
 to ask pardon for their sins, and to request other spiritual and temporal needs.
 「人々は、レクリエーションのためではなく、神を崇拝し、賛美し、感謝するために、罪の
 ゆるしのため、他の霊的、現世的必要性から求めてミサに来るのです。
 The monasteries may be of help in how graceful body movements can become prayer.”
 修道院はしとやかな身体の動きが、祈りになれるよう助けることができるかもしれません」。
http://www.newliturgicalmovement.org/2009/08/cardinal-arinze-cautions-asian-bishops.html

これって、アジアの司教様方皆さんに言われたことだけど
日本にすべてぴったりと合致する

でも、他のアジア諸国でもこんなことが起きているのかな???

まぁ、ダンスに関しては、東南アジアでは奉納のダンスなどありそう・・・

私たちの地区でも、東南アジアの方々がお祝いに
奉納の際に20人ばかりで踊ったことがあり
最初に見たときは驚いた

だって、奉納の時、いきなり、祭壇前のまん前に聖母像を持ってきて、
奉納行列してきて、聖母像に ローソクと長-い線香を捧げて
聖母像の周りをゆっくりとぐるぐる周って、踊り?のようで・・・
時間にして10分くらいかな~~
音楽東南アジア系?ハワイアンのような?録音音楽が流れていた

どうして、聖母像なの?
奉納なら、これから入る十字架のいけにえ、神の小羊に対してだから
聖母像を持ってきて聖母像に捧げてはおかしいよね

アリンゼ枢機卿様が仰ったように、
後日、そのミサに与った人たちに感想を聞いたら
「珍しいものを見せていただいた」で
「立派なミサに与れた」というのは一人もいなかった

日本人信者の方が断然、人数は多かったけど
東南アジア言語onlyだったし

こういう経験から、多国籍化した教会でどうするか
カトリックの共通語のラテン語で歌えるように、常々から努力あるのみ!

世界各国で、天使ミサ曲、主の祈り、信仰宣言を
ラテン語で歌えるように習慣づけられるのが、平等で相応しいと思う

私のところの担当司祭は、この4年以上、
大祝日でもカズラを着用したのを見たことがない

また、見聞きしたところでは、J会司祭とF会司祭は
アルバもなしで、平服にストラだけを掛けてミサをする

ミサの拝領時、聖櫃にご聖体を運びに行く時以外は
司祭が聖櫃の前でお時儀をしているのを見たことがない

ましてや、聖櫃の前で祈りなど・・・考えられないこととなってしまっている

やはり、あのアリンゼ枢機卿様のお言葉は
日本の教会に ほぼ的を絞ってのことだったと思う

少し前、セルフ・インティンクションについて
ローマ・ミサ典礼書の総則(暫定版)からも外れ、
「指針 あがないの秘跡」の指示からも外れているのが気になって
ある司教様に尋ねたことがあった

その時の答えは
典礼省が何と言ってきても、教区司教という位からは同等だから
相手が枢機卿といえども従わねばならないということはない
教皇様には従うが・・・というようなことだった(絶句!)

幸い、その教区は地方だし、堅物の在世会員が多いので
崩したくとも崩れないのだろう(笑)

またある人は、「手での聖体拝領許可申請の時に、一緒に許可をいただいている」と

だが、前にカトリック新聞で
ミサ典書の翻訳の認可を申請しているといった記事で、
セルフ・インティンクションを申請して却下されているようなことが
小さーーな記事に出ていた
どれが本当???

その疑問は、7月のセルフインティンクション禁止の大阪教区長の文書で解けた

セルフ・インティンクションは認められたというよりも
見切り発車?既成事実化して、申請を繰り返したが
ず――っと却下され続けていたのだ

この春に、正式に教皇庁大使からの回答をもって
各教区で対応することになった

却下されたことを未練がましく、信者に続けさせてきたのもどうかと思うが
簡単にでも経過報告とともに発表されたのは、大阪教区だけ(良心的?)
他の教区では、知らん顔の半兵衛さんで
真実を知ってしまった信者は余計に不信を募らせている


ところで、菊地司教が会議で発表されたこと

「典礼が水平的広がり(現実への影響力)と垂直的広がり(神との神秘的結びつき)の
 両者において、いまだ広がりきれていない」

まずもって、あのような典礼で神秘を感じるには、余程の信仰が必要

神秘性、畏敬の念がほとんど感じられない
ここを抜きにして「水平的広がり」は生まれない
神と結ばれた愛の溢れが、水平的広がりへとなるのだから
根本を軽んじて、愛がほとばしり出るということは、
皆無と言わないまでも奇跡


このことは岡田大司教の感想にも言える

「改宗が少ない。宗教的寛容からか、所属意識も希薄」

そりゃ、秘跡を軽んじて、畏敬の念や感謝の心は希薄になる
そのような霊的・現実双方の体験しかしていないのに帰属意識が育つわけもない

聖職者はキリストの愛を叫ばずに、
「憲法!憲法!」「9条!9条!」と叫んで宣教になるのか?
憲法9条教会ではないのだから・・・
恥ずかしくてカトリック信者(=左翼)と言えないようにしたのは誰?

「いくら景気が悪いとはいえ、生きがい喪失、人生の意味を見失っている人が多い」
「本当に貧しい家に鈴なりに住んでいて、子どももたくさんいてみんな元気で明るい。
暗い顔をして快適な生活を送っている日本とは大違い」

一度、大風呂敷を広げたような生活をし,richな生活を楽しんだ人が
その生活のレベルを落とすのには、すごく忍耐を要する
特に家族を抱えてというと、難しい

そんな人たちにこそ、清貧に慎ましく生きることの尊さ、
真の幸福の意味を問いかけるのではないのか

また、人生思うようにいかず、自信喪失になっている時
一人の人間としての存在、生命の尊さを伝え、
希望を持てるように寄り添うのではないのか

政府が悪い!社会が悪い!誰々が悪い!
そんなのは宗教者に言ってもらわなくても結構なのに

あのカトリック新聞の記事だと、活動が足りないと言われているようなもの
そうやって祈りよりも活動!と駆り立てた 同じパターン

祈りと活動は両輪と、最近の司祭は言うけれど
マザーテレサは毎朝のミサで力をいただいて
人々に無私の愛を与え続けた

重ねて言いますが、神との交わりによってあふれ出た愛が
活動へとつながるのですよ

そんなときこそ、私たち人間を愛し、
神の子でありながら、人間の苦しみを我が身に負って
命さえ惜しまず捧げて、私たちの罪をあがなってくださった
それほどまでの愛を語らずに何を語るのかと思う

「岡田大司教は会議を終えて、日本社会の“異常さ”が際だった」
と話されたそうだが、

  私は会議の記事を読んで、日本の教会の“異常さ”が際立った
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