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具 正謨神父の典礼意識って?

以前から、典礼の専門家である具正謨(クゥ・チョンモ)神父とは
どういう人か興味を持っていた

今回、Rickさんのブログで取り上げられて・・・
何とも言い難く、彼の本を買う気はしなくなった
http://blogs.yahoo.co.jp/gh_punks/48986683.html

二〇〇二年版『ローマ・ミサ典礼書』と『総則』解説
   ミサ典礼書の変遷に見られる典礼刷新の歩み

 「感謝の祈り(奉献文)の結びの栄唱は、主司式司祭のみが唱える。
    望ましい場合は他の共同司式司祭とともに唱えるが、信者は唱えない。」


 ここで新しく挿入された表現は、二つのことを伝えようとする。
 一つは、栄唱は奉献文の一部であり、奉献文は基本的に司祭固有のものだということである。
 もう一つは、共同司式の場合、共同司祭が栄唱を一緒に唱えるのは特別な場合ということである。
 それと関連して、新「総則」(2000年・2002年)一四七項は、
 「感謝の祈り(奉献文)は本来、叙階された司祭だけに限る」という教会の伝統を再確認し、
 信者たちは司祭と声ではなく「心を一つにする」ことを強調している。
 日本の教会を含む、世界の多くの教会では、栄唱の後半の部分
 「すべての誉れと栄光は、世々に至るまで」を会衆全体が唱えることにしてきたので、
 このような指示は、現場の共同体を戸惑わせるものであるとも言える。

「世界の多くの教会」とは、どこを指すのか?
世界の多くの教会で誤ったまま唱えてきたというなら
ブログ常連の一人くらい体験していそうなものだが・・・

イタリアの片田舎の教会でもそんなことしていなかったし
他の方々はニューヨークのセントパトリック大聖堂をはじめ
米国の他の教会もしていないとのこと・・・本当に多くの教会?

だが、対策としては、あの高田三郎氏作曲の伴奏をしないか、変更することだ

いつの場合も、現場の共同体を戸惑わせるのは、
総則無視の司式司祭の勝手な司式だ
会衆は、従順な羊の群れなんだから・・・


この後、読み進めると もっと深刻なことが出てきた

 (11)新『総則』の日本語版は、日本における適用について述べている。
 その中で「奉納祈願の招き」について、『総則』は次のように述べている。

 会衆の応唱を沈黙に代えることができる。

 つまり、「神の栄光と賛美のため、また全教会と私たち自身のために、
 司祭の手を通してお捧げするいけにえをお受けください」という部分は、
 「唱えても、唱えなくてもよい」という決定である。
 このような指針は、「奉納祈願の招き」の内容には、日本の文化、
 あるいはヴァティカン公会議の精神と合致しない部分があるということを暗示している。
 その一つは、「いけにえ」という用語が招く誤解の危険性である。
 あたかも、ミサにおいてイエス・キリストがもう一度十字架にかけられるという印象を
 与えられるからである。
 ある人は、「司祭の手を通して」という表現に抵抗感を感じている。
 すなわち典礼刷新によって共同体全体の役割が増している中で、
 「司祭の手を通して」という表現をわざわざ使うのは公会議の精神から見て
 ふさわしくないという意見である。
 いずれにせよ、「沈黙に代えることができる」という暫定的な決定は、非常に曖昧で、
 共同体に混乱を招く可能性を含んでいることも事実なので、
 今後、司教協議会によるより明確な指針が要望されるところである。

「日本の文化、あるいはヴァティカン公会議の精神と
 合致しない部分があるということを暗示している」

「いけにえ」という言葉は
「あたかも、ミサにおいてイエス・キリストが
もう一度十字架にかけられるという印象を与えられるから」だそうだが、
ミサ聖祭とは、イエズスの十字架の死と復活の記念、再現するのではないのか
そういう言葉の意味なのに、それを否定する?

血なまぐさいことを嫌う農耕民族の日本人といっても
日本でも昔、飢饉や災害時には人身御供(ひとみごくう)として、
人間を神への生贄として捧げたりしていたから
日本の文化に合わせてというのも当たらない

次に「司祭の手を通して」という表現に
抵抗感を感じる人というのは どういう人なのだろうか
ジェンダーフリー?変な平等意識はおかしい
なんのための叙階の秘跡なのか
司祭は、そのために召され、聖別されたのではないのか

こういう方々のために、素敵な回勅がある
教皇ヨハネ・パウロ2世回勅 「教会にいのちを与える聖体」
  教会が主の死と復活の記念である感謝の祭儀を行うとき、
 この救いをもたらす中心的な秘義が真に現存し、
 「わたしたちのあがないのわざが行われます」。
 聖体のいけにえは人類の教いにとって決定的に重要なものでした。
 そのためイエス・キリストは自らをいけにえとしてささげ、御父に返す前に、
 わたしたちがその場にいたかのようにしてそれにあずかる手段を
 わたしたちに残してくださいました。
 こうして信者の一人ひとりは聖体にあずかり、尽きることのない報いを得ることができます。
 これこそ、時代を超えて幾世代ものキリスト者が体験してきた信仰です。
  このように聖体のいけにえにおいてすべての人への愛が示されているということは、
 救い主ご自身のことばに基づくものです。
 
 聖体を制定するに際して、主は「これはわたしのからだである」、
 「これはわたしの血である」とおおせになっただけではありません。
 主はそれに続けてこうおおせになりました。
 「これは、あなたがたのために与えられるわたしのからだである」。
 「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血である」(ルカ22・19―20)。
 イエスは、弟子たちが食べ、飲むように与えるのは、自分のからだと血であると
 おおせになっただけではありません。
 イエスはそれらがいけにえとしての意味を持つことを示され、
 ご自分のいけにえが秘跡のかたちで現存するようにされたのです。
 それから、イエスはこのいけにえをすべての人の救いのために十字架上でささげられました。
 
 「ミサは十字架上のいけにえが永続する記念であると同時に、
 主のからだと血にあずかる聖なる会食でもあります」。
 教会はこのあがないのためのいけにえにつねに生かされています。
 教会は、ただ深い信仰をもって思い出すだけでなく、実際にそれに触れながら、
 このいけにえに近づきます。
 なぜなら、共同体の中で、聖別された奉仕者の手でこのいけにえがささげられるとき、
 それはたえず新たに現存し、秘跡として永続するからです。
 こうして聖体は、あらゆる時代の人類のためにキリストがただ一度で勝ちとられた
 和解の恵みを、現代の人々にも与えます。
 
 「キリストのいけにえと聖体のいけにえは、ただ一つのいけにえです」。
 
 聖ヨハネ・クリゾストモはそれを次のようにうまく述べています。
 「わたしたちはいつも同じ小羊をささげます。
 今日はこの小羊、明日は別の小羊をささげるというわけではなく、
 いつも同じ小羊をささげるのです。
 ですからいけにえはいつもただ一つです。……
 今もわたしたちは、かつてささげられたいけにえをささげます。
 このいけにえが使い尽くされることは決してありません」。
 ミサは十字架上のいけにえを現存させます。
 それは十字架上のいけにえに何かを加えるものでも、それを増やすものでもありません。
 繰り返されるのは、十字架上のいけにえを記念する祭儀であり、
 このいけにえを「記念しながら再現すること」です。
 こうして、キリストがささげた、あがないのためのただ一度の決定的ないけにえが、
 どの時代にもつねに現存するのです。

神の栄光と賛美のため、また全教会と 私たち自身のために、
  司祭の手を通して お捧げする いけにえを お受けください

この言葉を唱えるたびに、神に捧げる気持ちがぐ―-んと深くなる
身も心も捧げます!って

奉献文に先立ってなくてはならない言葉

大体、この言葉を沈黙に代えて、そんな思いで会衆が祈るか???
そりゃ、代えた当初は、そう祈るだろうが
なんとしてもカテキズム不足の昨今
求道者も堅信準備者に至っても ミサの細部までは教えないのが現状

この沈黙の時間も
次の準備のロス・タイム程度にしか扱われないのは必定

新しい典礼をつくるという聖職者は
不信心の勧めをしているようなもの
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