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「カリタス・イン・ヴェリターテ」を読んだ


                           善政の寓話
     
一昨日、ブログをあちこち見て
いつも 変なことばかり書いているお方のブログに

あぁ、また勝手な聖書解釈を・・・
解放の神学ではなく闘争の神学だからねぇ
と思いつつ、読み進めると・・・

 福音の心を持って、福音に基づいて社会問題、社会活動にかかわり、社会批判を訴える信徒や司祭や
 司教が教会の中で変わり者として扱われ、敬遠されたり、除け者にされがちなのですが、その時イエス様の
言葉を思い出したいです。
 「弟子は師にまさるものではない(マタイ10、24)・・・私は悪魔と呼ばれたなら、あなた方はもっと
 酷く言われることだろう。恐れなしに逆らいの徴になりなさい」とイエスは言います。
  最近、日本語訳で、『カトリック教会の社会教説綱要』が著されました。
 去年、日本カトリック司教団は人権についての文書や経済危機でこまっている人々への助けを求める
 文書を著した時、「司教たちはアカだ」と言った保守的な信徒もいましたが、この前の火曜日に教皇が
 出された回勅(Caritas in veritate)を読めば,もうそんなことが言えなくなるでしょう。
  どうか福音と社会の密接な繋がり、福音宣教と社会正義と平和の密接なつながりをあらためて自覚する
ように願っております。 「六甲教会説教箇条書き 年間15主日」より

『2009いのちを守るための緊急アピール』日本司教団の文書に
「アカだ」と言ったと非難しているのは
私たちのことなんでしょうか?

でも、このアピールに反対したのではなく
支援や活動の仕方に異議を唱えただけなんですけど
そこを省略して書かれると誤解を招きますね

まず、最近、中央協議会から出版された
『カトリック教会の社会教説綱要』を引き合いに出しておられます

あの本は最悪でしたね
誤解しないでくださいね
不遜に、聖座の文書に異議を唱えているわけではなく
あの本文の前に翻訳者のマイケル・シーゲル神父が書いた前書き
通常は翻訳者の感想などは後ろに書くものなのに
この辺でも、正平協および中央協議会の常識のなさが出た

正平協が翻訳者に選ぶ人は
どうしてこんなに不適格な人物ばかりなのか
『自由の自覚』ではホアン・マシア神父
まぁ、正平協にはこんな人たちばかりがうごめいているんだけど

でも、前置きで訳者が、聖座にケチをつけているのは
読む気を失わせたいがため???


話を戻して・・・
教皇様の最も新しい回勅を引き合いに出して
自分たちは正当性を説いている

あらぁ、それって勝手よね
いつもは権威なんて関係ないと挑戦的なのに


で、それなら、教皇様の回勅を読んでみましょうと
バチカンのサイトから英語版
教皇ベネディクト16世回勅「カリタス・イン・ヴェリターテ」(真理における愛徳?)を
翻訳ソフトの助けをもらいながら、英語文とを見比べつつ読んでみた

う~~ん 現代、世界が直面している問題が
網羅されていると言っても過言でないと思うくらい
細かく書かれている

諸問題に対してカトリック教会として求めるものや
キリスト者として注意すべきことが書かれていた

先進諸国(特にアメリカ)と中国が行っている搾取が
すぐに想像できるのだが
独善的であったり、経済最優先から
グローバル化とともにますます困難な状態に追い込まれていく国々

また生命倫理や産児制限などにも・・・etc.

移り行く世界にあって判断基準は、キリストにあると
そして、それに各々が福音的に対応するように呼びかけられている
愛の実践が必要であると

いつもながら、素晴らしい教皇様のお言葉


で、どうしてこれらの素晴らしい文書から
ご自分たちを正当化するのかがよくわからない

「福音の心を持って、福音に基づいて社会問題、社会活動にかかわり、社会批判を訴える」
ことに、私たちは異議を唱えているわけではない

聖職者、信徒など召命に応じたいろいろな使命があり
そこから おのずと取り組み方も活動も異なる

それを逸脱しているところを批判しているだけ

聖職者は信者が正しい判断と選択ができるように
キリストの福音を説き、誤りに苦言を呈するべきであって
司牧にイデオロギーを持ち込んで、闘争に駆り立てるべきではない

信者は自分がおかれた状況の中で
それぞれにふさわしい実践をすることが求められている

ところで、自分たちを被害者にするのはやめてほしい
「教会の中で変わり者として扱われ、敬遠されたり、除け者にされ」ているのは
聖職者に、苦言を呈している私たちの方だ

教会は、私たちの「心の家」であるはずなのに
「家なき子」に追いやろうとしている



最近、見かけなくなった言葉に「主の平安」という言葉がある
昔は、手紙の初めには、この言葉を書いた
今は「主の平和」と書く

一見、一緒のように見える
だが、秘めたるものは違うような気がする

「平安」という言葉から連想されるのは心の平安で

「キリストにおける心の平安が、
あなたにも、そして世界中に満たされますように」との意味があると

「平和」は、現実的な響きをもって
迫られているように感じるのは私だけだろうか

きっと「平和」という言葉のもとに 平和的でないものを見せられ続け
「平和」という言葉に対して 過敏になってしまったのだと思う


Pace e Bene ! (平和と善)を使う
アシジの聖フランシスコが使ったイタリア語で・・・
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