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? ラッツィンガーの言葉 


    

  そこには、
  「政治的・経済的抑圧の鎖から人を解放しなければならぬ」、
  「人を解放するには、改革は不十分どころか逸脱させるものである。
  必要なのは革命である。
  しかし革命を起こす唯一の方法は階級闘争を布告することである」、など
  休みなく繰り返される反復がある。
  それなのに、すべてこれを繰り返す者たちは、革命後にどのような社会を組織するのかに
  ついては、具体的で実際的な問題を何一つ提起していないかに思われる。
  ただ、革命を果たす必要だけを繰り返すだけにとどまっている。

教書「自由の自覚」に書かれていたが
キリスト者の解放とは、罪からの解放であり、
救いのための解放であるはずだ

人権は大切だが、神を超えて求めることはできない
神の被造物としての尊い命、人権なのだ

では、カトリックとしての神の救い、罪からの解放のため
何をしているのか

部落解放問題、ハンセン氏病問題、ホームレス支援
それらに関わる時に、「闘争」を持ち込む
抑圧された人権のため、闘争を要求する

神からの大切な一人一人の命の重さを社会に呼びかけ
苦しむ人々に、「あなたは、神様から愛されている大切な存在、命」だと
伝え、心に平安を、生きる希望を持てるように寄り添うことに尽きると思う

しかし、釜が崎で行われていることはどうだろう
どうして他の偏った労働団体と共闘するのか

釜が崎暴動が、何年かに一度発生する
構造はいつも警察権力に対する暴力闘争
煽っている人たちがいる

私は、いつもニュースでの映像に
カトリック修道者が間に入って収めようとする姿を探す

しかし、それは見事に裏切られ、徒労に終わる

そう 彼らは闘争を呼びかける側についている

フランシスコの精神に生きる修道者が
和解のために働かず、
「小さくされた人たち」と、それを利用する団体と
共闘しながら、警察を糾弾する側に立っている

ニュースを見た人たちは、
さぞかし警察が横暴なことをしていると思うだろう

だが、地元の警察官は、毎日、巡回時に声かけをし
深酒をする人をたしなめ、酔っ払ってからむ人を落ち着かせ
また争いの仲裁もしている
口論、即逮捕なのではない
冬には、酔っ払ったまま路上に寝込む人を
凍死しないようにも見回っている

そう、ここは日本で
警察がストリート・チルドレンを襲うような
南米の国ではない

だが悲しいかな 修道会の報告書に(「平和の道具」?)
南米の警察と同様にしか評価していないような報告が書いてあった

それは自分たちが、抑圧者と被抑圧者という対立構造を望んでいるのであって
故意にクローズアップして問題化しているとしか思えない

憎しみのあるところに愛を
絶望のあるところに希望を
闇のあるところに光をもたらすために
呼ばれているのではないのか

また「9条の会」に関係する聖職者たちも無責任だ

キリスト者でなくとも「平和」の大切さは感じている
問題は、どうやって平和を求めるか

その手段としてカトリック聖職者は憲法9条しか示せえない
9条さえあれば平和だと盲信している

非武装・無抵抗を叫ぶ
だが、私たちには正当防衛が認められている
カトリックの教義において否定されたことはない

ましてや、小さな子供が目の前で殺されるようなことが起きたら
命がけで守るのではないだろうか

その時、憲法9条を絶対視してきた人々は
人間の盾になって、命を投げ出すのか
死に行く目に、幼子たちが惨殺されていくのを見るしかない
それを甘んじて耐え忍ぶのか

憲法9条は、日本で守ることに意味があるのではなく
他の国にお勧めして一緒に憲法にしてこそ意味があるのだ
一国だけがその憲法をもっていても、意味がない

しかし、平和を求める手段は各々自由だ
憲法9条を守ることを
教会で勧める聖職者や修道者は、はっきりと言ってほしい

「平和は大切です
そのために、私たちは憲法9条を守り
非武装・無抵抗を選択します
もし、それでも他国が攻めてきたときには
まず、私たちが人間の盾となって命を捧げましょう」と

それを聞いて選択するのは各々だから
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