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カール・ラーナー ?


背景から・・・


ヨーロッパにおける2度の世界大戦
それを経てなお残った当時の西欧米とソ連・東欧などとの冷戦構造など
平和構築の困難さ

旧植民地での極端で絶対的とも思える貧富の差
政権や富裕層の暴力的支配

これらの中で、カトリック教会はジレンマに陥っていたと思う

そんな中で 1963年 教皇ヨハネ23世は
回勅「地上の平和」(PACEM IN TERRIS)を出された

また第二バチカン公会議も開かれた

彼やイヴ・コンガールの
「近代社会で人類が獲得した経験知を伝統的なカトリック信仰と調和させる」
という主張が、伝統派とのせめぎ合いの中で
大きく影響した

しかし、その後、南米での解放の神学の危うさに
パウロ6世、ヨハネ・パウロ2世ははっきりと反対の姿勢をとられた

彼らの進歩主義的体質は明らかだった

歴史・伝統を否定し、切り捨て
自らの理想を獲得する手段として闘争を選択し
他の者にもそれを強いる

ラテンアメリカ司教会議が、解放の神学派に占領されて以降
バチカンは10年にも及ぶ時間をかけて、司教陣の刷新をしてきた

ヨハネ・パウロ2世は中米訪問の際
ニカラグアの大臣についていた聖職者との面会を拒絶し
明らかな態度で、聖職者の在るべき姿を要求した

日本への影響


彼らの思想は、
第二バチカン公会議の精神に留まっていたなら
問題はなかったかもしれない

でも、第二バチカン公会議以前に、すでに彼らの思想は
カトリック界、特にアメリカなどに及んでいた

そして日本にもじわじわと影響を及ぼし
ナイス(全国福音宣教会議)以降、破滅的展開を見せた

? 典礼において

彼らの思想に傾倒する聖職者は
第二バチカン公会議で勢いづき
典礼の刷新と称して、破壊活動を行った

各国語の採用をしたのであって
ラテン語は廃止されたのではなかった

ミサにおける神聖なムードは壊れ
聖体の秘跡に対する畏敬の念は消失した

その手段として、日本文化への適応をあげ
跪きや舌での拝領を排斥した

ベネディクション(聖体降福式・聖体賛美式)は
ほとんど行われなくなった

聖体への信心がこのように軽視され
聖母に対する信心は 敵対視されているかのような扱いを受け
各教会にあったレジオ・マリエなどの信心の集いは
聖職者によって潰されていき、
ロザリオの祈り、十字架の道行などの信心も
忘れ去られたかのようになった

国語化の過程で、主要な祈りは内容を薄められて行った


? 教義において

ヒエラルキーの軽視は、あらゆる手段を用いて行われた
左傾化した一般マスコミの 権威に対する茶化したような報道に合わせて
教皇を愚弄し、ヒエラルキー軽視の意識を浸透させた

ミサ聖祭、聖体の秘跡をはじめとする秘跡の軽視

聖体の秘跡に関しては、ルターやカルヴィンなみとなった

ルター:パンとぶどう酒の聖別後から拝領までの間に限り
パンとぶどう酒の実体と【共に】、イエスの体と血の実体が存在する。
(↑聖変化ではないし、期間限定ありで「共存説」)

カルヴィン:パンとぶどう酒はあくまでもしるし(象徴)で
      キリストの言葉によって、その使用目的(意味)が変わり、
      拝領する瞬間に聖霊の働きによって
      イエスの体と血を真にもたらすものとなる。
      (→霊的現臨説)
― 白浜満神父解説より ―

ゆえに、聖櫃は聖職者によって
無視されたも同然の扱いを受けている
(事実、聖櫃の前で礼もしない)

? 社会に対して

平和を築くためと称して、聖職者自らが先頭に立ち
政治的アピールを繰り返し
左翼組織、特定利益誘導団体と連携している

日本の進歩派(=左翼・平和市民団体)の歴史的断絶思想から
戦前のものはすべて非民主的という見方を信徒に植え付けて
日本の歴史・伝統・国家を否定している

? エミュメニズムにおいて
エキュメニズム(キリスト教一致)は、彼らが提唱したことだが
カトリックの教義を変えるものではない

別れた当時、ルターが望んだ国語化や聖書に立ち返ることなどは
現在、実現できているのだから、立ち返りたければ どうぞ!だが
それに至らなくても、いがみ合うのではなく
キリストの福音を広めるために協力しましょう!ってことのはず

? 諸宗教対話について

彼の「無名のキリスト者」という考え方は、
非キリスト者から、反感を買うだろうが

良心に基づいて生活するならば、諸宗教においても救われるという場合、
キリストを知り得なかった場合には理解できるが
キリストを知っていて、拒否した場合はどうなのだろう・・・

私は、非キリスト者の場合も、どのように生きたかで
後は、神様の聖心によると思う

すべての人を救いたいという神様の聖心から 
救われる、救われないとは断言できるものではなく
すべては神様の聖旨のままにではないだろうか

そのために私たちは祈るのであろう

だが、今の聖職者は少々異なる
「宗教なんてどこでもいいんだ」
「神様でも仏様でも信じて祈れば救われる」
などと、堂々と入門講座で仰るし
「別に、洗礼なんて受けなくてもいいですよ。
まぁ、望むなら授けますが・・・」だって

これは、諸宗教対話ではない

善なるもののために、いがみ合い、拒絶するのではなく
理解し合いましょう!ってことのはず

そのくせ、日本古来の神社神道は
進歩派思想らしく、対話から排除し
攻撃(口撃?)している



日本に初めて宣教したイエズス会は
かつては「教皇の精鋭部隊」と呼ばれたのに
いまや、教皇様と離れてしまった

日本の教会においての指導的役割は
今も昔も変わっていないのに

現総長アドルフォ・ニコラス神父は
今もなお、解放の神学に対して寛容であってほしいと望む

彼こそが日本におけるナイス(全国福音宣教会議)の精神的土台を作った人だ
この日本の惨状の責任の重きは 彼にある

創始者イグナチオ・ロヨラの精神に立ち返ってほしい
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