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異端?

カール・ラーナー 

「兄弟愛の社会的次元」というテーマで
彼は次のようなことを書いている

今日の状況において発揮されるべきキリスト教的兄弟愛から生じる今ひとつの結論は、政治的責任で あり、それ故にまた政治神学がこのキリスト教的兄弟愛の本質から必然的に生じてくる、という洞察の中に成立する。

遂に彼は、「政治神学」という言葉を持ち出し
キリスト教の隣人愛と兄弟愛ゆえに
新しい分野に駆り立てる

その分野とは、人間にふさわしい、キリスト教的に生きることのできる生活にとって、できる限り  適切な一社会における、そうした生活のための社会機構上の前提条件に対する責任の分野であり、本来の政治の分野のことである。この責任は今日では――昔と違って――もはや少数の人だけによって になうことができるものではなく、ひとつの社会の中の一人々皆にその責任が要求されている。…
この責任は昔以上にいっそう多くの選択を許す可能性ある決断の分野でとられなければならず、もはや単なる推論的な知性の問題ではなく、むしろ自由そのものの問題だからである。たとえ幾多の異なった仕方であろうとも、政治は今日ではもはや、議論の余地なしにこの政治のために神から委託されている「当局者」だけの課題ではなく、各キリスト者の責任になっている。


このように言いながら、民主化された社会において
信者にキリスト教的社会構築のための政治責任を説く

そのキリスト者の政治的責任について

従来の社会的な諸構造と状況とを防御することだけが、キリスト者の使命でありうるというように考えてはならない。

あるキリスト教徒が心の底からキリスト教的な態度により、あれこれの点で保守的であるということ、また彼が理論的な基本的見解か、もしくはまた正当に彼に帰せられる自由な決断によって、特定の社会的事実の存在を支持するということは、全くありうることである。その人は今後とも保守的でありうるし、それを恥じる必要もない。


などといって、保守的な態度も、寛大に存在を許してやるって?

でも、それって「恥じる必要もない」なんてわざわざ書いて
要するに、保守的なのは適当ではないと誘導する

私たちキリスト教徒は、あたかも社会政治的変化にとってダイナミックな力が、もっぱら他の人々の事柄であるかのようにふるまってはならないし、また未来の人間の罪や有限性や幻滅に支配されたことと全く同様に、従来の社会構造を防御することだけがキリスト教の使命である、というふうに考えてはならない。

でも、このように政治責任を果たせるキリスト者は
欧米や我が国などの民主的な国であり少数だ

その民主的国家にあって
ダイナミックな社会変革とは何を意味するのか

それこそ、社会主義ではないか

「未来の人間の罪や有限性や幻滅」とはどういうことか

有限の存在である私たち人間は
神において常に希望をもち、正義が行われるように努力する

それではいけないのか
そして彼は保守派に批判?暴言?を浴びせる

神の摂理が、神の耳にだけ交響的に響くような世界の演奏会の中で、各人に皆それぞれ固有のパートをわりあてていて、それ故に事情によっては、私たちは反対抗議をしてはいけないということや、啓蒙期以来、結局は世界史の神的シンフォニーにとって不可欠でもあるような保守的な人のパートは、教会のキリスト者にわりあてられたということをキリスト教的謙虚さのうちに考慮すれば、すべてが説明されるのであろうか。・・・

延々と保守派に対する恨みがましい批判をした後
彼の本心であることが語られる

神学の全体に対してイデオロギーを批判する仕方で関わるような問いが、政治神学といったものを形成し、私たちがその場合、あらゆる側面からその本質をそれほど綿密にきわめなくてよいとしても、政治神学にその権利が与えられるのである。・・・
政治神学は、至るところで革命家や現代主義者たちを見つけ出そうとするいらだちの心で、はじめから拒否されてはならないものである。


このように寛大に受け入れてほしいと書きながら
どうしてこんなに、恨みがましいのか

で、この本、彼がいつ書いたのかと思ってあとがきを見ると
1984年、80歳のお祝いに対する感謝の手紙の後に
送られてきたものとのことで
その後、間もなく帰天されたので、まさに遺稿
彼の主張した神学から派生した解放の神学は
カトリックの本流から外れたものと
ほぼ結論が出た頃に書かれているので
こうも恨みがましいのである 納得!!

たとえば、こんな感じ

教会の中でのイデオロギーの疑いが強く、また反動的に思われるような神学や政策に対して、自己防衛しなければならないと思いこんでいるような神学や政治の主張者たちにも、全く同じように自分たちの敵対者に対して、兄弟的寛容さが求められているのであって、この兄弟愛もまた、あらゆる希望に反して落ち着いて待機する可能性を包んでいるということも当然認められる。

今日のキリスト信者には
昔は与えられなかったような政治的責任がある

たしかにこの社会においては、またおよそ教会においても、指導的役割をになう者がいて、それが各人にふさわしくはないにしても、その権能は万人から尊重されなければならない。だが今日では、教会の具体的な統治様式において、当局的思考が減退しているために、兄弟愛はなおさらいっそう強力に効力を発揮しなければならない。ところで指導的役割の全権を尊重することは、教会においては、唯一にして同一の恵みにおける同じ主を通していっそう包括的で、いっそう深いところにある兄弟愛に基づいているのである。


>教会において、ふさわしくない「指導的役割をになう者」も
「その権能は万人から尊重」してほしいってことのようだ<

これって、政治に走る聖職者?

彼らを主において兄弟愛から
「指導的役割の全権を尊重」してねってことのようだ
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