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異端?

カール・ラーナー 

この人は、どうしてこうももっともらしい文章の中に
こそこそと変な言葉を潜りこますのだろうか

はっきりとした形での批判ではなく
それとなく そういう感覚に誘い込む
そういう意味で悪質だと思う

私たちのキリスト教的兄弟愛が、ただ単にはるかな隣人の現世的幸福や、世俗社会における権利や正義だけに関わっていてはならず、かえってこの隣人の本来の救いにも、すなわちその人に神自らの約束が、無条件で限りのないイエス・キリストという歴史的に把握しうる姿を通してとらえられることに関わっているのであることも同じく当然である。

「歴史的に把握しうる姿」という言葉は、ここで必要だろうか
神の約束は、イエズス・キリストを通して・・・で充分なはずだ

ここで、この言葉を挟むことにより
歴史的に把握できないようなことは
信じなくてもよいという風に感覚的に植え付ける

歴史的に把握できることの他に
聖伝、神に導かれた信仰の歴史がある

信心業などは特にその部類で、信仰を豊かに実らせるものである

だが、彼らは、頭で理解できるものにしか価値を認めない
やはり啓蒙主義からの思想、プロテスタント的

今日若いキリスト教徒たちが、正当にも全世界で自由と社会正義を闘争的に支持しようとしているとき、彼らは人類の究極的一致が、神とイエス・キリストによるその神聖なる恵みのうちにあってようやくはじまるところで、世界に広がるこの兄弟愛が停止してはならない、ということを忘れてよいわけはない。今日、全世界における自由と正義に対する人々の明らかな信仰の表明と断固とした挺身は、それだけでもう福音化の第一歩であり、ぜひとも必要な手段であるかもしれない。またこの第一歩は、それが人間的兄弟愛の素朴な行為として、私心なく故意でなしに行われるときにのみ正しくなされるのであるかもしれない。とはいえこれらすべてのことは、はっきりとした世界宣教と福音化に対するキリスト者各自の兄弟的責任を除外しはしない。

「自由と社会正義を闘争的に支持」することが
兄弟愛であるとして駆り立てる

この「闘争的」という言葉にはキリスト教的な香りがしない
この言葉から連想するものは暴力的闘争である

極限状態にあるとき
教会は力による闘争をやむを得ないものとする

だが、その先には、真のキリスト教的正義の秩序が
準備されていなくてはならない

それもなく、闘争に駆り立てるならば
それはただの「破壊」だ

彼は、その闘争が「素朴な行為」として
なされるように要求するが
それでは、ただの暴動になる恐れすらある

こういうことに「福音化の第一歩」とか
「断固とした挺身」という言葉を平然と使い
キリスト者を駆り立てる恐ろしさを感じる
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Author:maggie tonton
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