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異端?

カール・ラーナー ?

彼は隣人愛を「兄弟愛」として徹底した愛を要求する

人は自分の愛のうちに沈黙したままでいることができず、あたりまえであるかのように その愛の苦しい幻滅を耐ええないとしても、それでもその人は自分に問うてみなければならない。自分はきわめて礼儀正しくふるまえる生活の知恵による利己主義を、真に人間を無私のものとし、その人を神の測り知れない深みに投入するような まことの愛と取り違えているのではないか、と。それ故、本当に理解するならば、兄弟愛とは非常に危険な言葉なのである。

フランシスカン的、また一般的「兄弟」の観念から逸脱して
強烈な愛を「兄弟愛」と呼び
非常に危険な言葉だと言いながらも 
彼は、この「兄弟愛」を使い続ける

それなら「兄弟愛」などと使わなければいい

わざわざ、使い続けるのは
それを、暗に私たちに要求するからであろう

そこまでの隣人愛を皆が求められるものだろうか?

信仰に応じて、深まり、その度合いも異なり
召命に応じて求められるものは異なると思う

これって、フランシスコ会の本田哲郎神父の言う
「毎週ミサに与ったからといって天国にはいけない
釜が崎の人たちこそが天国に行けるんだ」
って言葉に通ずる

でも、私の尊敬するコンベンツアル会の神父様は
「自分が与えられた環境・状況の中で
 いかに懸命に生きるかが大切だ」とお話くださった

神様と結ばれて 懸命に生きることが大切だと思う

それが無私なのかどうかは・・・
それこそ信仰の実りだと思うけど

さて、彼は真の兄弟愛が伴っている
もう一つの結果として
「私たちの宗教的主観性における
派閥的なメンタリティーの克服」をあげる

私たちは今や世界教会の中で生きている。そしてこの世界教会は、単に私たちの個人的な趣味や、20世紀後期個人主義的主体主義のメンタリティーに合わせて裁断されたものではない。そこにはもうヨーロッパ人は十分に居る。ところがアフリカ人、ラテンアメリカ人等は 後期個人主義的な私たちのメンタリティーと生まれつき共感していないというのに、彼らがいよいよ私たちと同一の市民権を、唯一の教会の中にもっているのである。彼らのメンタリティーは、私たちが欲しようと欲すまいと、一なる教会において作用していて、私たちもそれにとらえられるほどである。このことは私たちにはしばしば不愉快であるかもしれない。特にこの異質なメンタリティーが知らず知らずのうちに、たとえ全くそうでなくとも、無邪気に、そして当然のこととして、しかも率直に自らもカトリックだと感じていて、それほど無造作ではないとしても自分を示している。

これって、偏見に満ち満ちていると思うのですがねぇ

ミサや典礼に対しては、多様性だと言いながら
メンタリティーを異質と捉えるのは
矛盾した考え方と思う

メンタリティーと文化とは重なり合うものだけど
ミサなどでの表現方法を異質(不愉快)と
感じることはあっても
メンタリティーを不愉快に思うなんて
自分たちは如何ほどの者なんだ?!

これこそ、おごり高ぶりではないか

ポーランドのマリア崇敬は、全くカトリック信仰と共に授かったものとして、いつどこでもそのようなものであると自認している。それゆえにこのマリア崇敬は、全教会でも重んじられるように努められるであろう。たとえそのようなマリア崇敬が、私たちの感覚には多くの点で異質であるかもしれず、私たちのところでは かなりの抵抗をひき起こすことになってもである。

何?異質のメンタリティーて
結局は聖母信心に対しての侮蔑だったのかな

マリア崇敬は重んじられるように努力しなくても
子供が母親を慕うのと同じで自然と生ずるもの

だから、妨害さえしなければいいだけ

マリア信心を否定するところに血は通わない
マリア信心を異質・抵抗と感じるところには
基本的な愛が見いだせないように感じる

当然のことながら教会の多くのことが、人々にしっくりしていない。だがなぜ多くのことがしっくりしなければならないのか。教会がまさにある人々にとって あるがままのものでなければならないのなら、そのときには他の人々は何をすることになるのであろうか。イタリア人はと言えば、おそらく 彼らにしても私たちドイツ人にしても幸いなことに、法律上の事柄にはあまりやかましくなく、偏狂に受けとることもないのではないか。南米人のマリア崇敬は、おそらく理論の上ではキリスト論が設けている限界に関しては、私たちよりもさほど気を遣わないであろう。私たちのところでは、それと気付かずに、実際にはあつかましい個人主義と利己主義の危険にあるのではないだろうか。

南米よりも西欧の信仰の方が優れているというのか?

最初に、西欧的なものは全否定していたのに
彼らにとって西欧的なものは、
教皇の権威・ヒエラルキーであって
知的な信仰は、西欧が優れていると?

確かにアウグスチヌスやトマス・アクイナス、
ボナベンツラなどの思想家は
西欧で信仰の基盤を整え、発展させたけど
それは、西欧への神様の宿題であった

神の目から、何も、西欧が
信仰面で優れているわけでもないと思う

キリスト論が設けている限界とは何か?
どういう理論なのか?

南米の人々が聖母に心を寄せるとき
イエズス・キリストが存在しないとでも言うのだろうか

イエズス・キリストと聖母は切り離せない存在として
純粋に慕い、祈って、誰に批判されることがあるのか

中南米の人々のように
幼子のように純粋に神により頼む心は、
何よりも尊いとイエズス様は教えられたではないか

神の前に何が尊いのか・・・

フランス啓蒙主義的な個人主義は
独善的になり得る
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