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聖座

「自由と自覚」から見えたもの ?



【82.労働の福音】(抜粋)
ナザレトのイエズスの生活は、まさしく『労働の福音』です。・・・
今期待されているのは、働くことの尊さを完全に認めることを特徴とする文化でしょう。働くことが尊く実り豊かなものであることは、創造と救いの奥義に照らせば明らかです。働くことが人間の一つの姿だと認めてこそ、それは創造としての意味を持ち、努力の源泉となるのです。
   
【96.文化と福音の出会い】(全文)
「信仰は、どんな人間共同体にも認められる判断基準、最終的な価値、考えの方向、生き方などに影響を与えます。それゆえにこそ、現代の苦悩を思いやる教会は、労働の人間的な面が完全に認められ、みなが十分に自己実現の機会を与えられる文化を提唱するのです。教会がこのような提言をするのは、各国、各国民の独自性を尊重しながら、世界的な全面的な救いのために働くという宣教的な使命が教会にあるからです。一つの教会が全世界至る所に存在することで、教会は多様性と単一性を統一する交わりの役割をし、いろいろな文化の中に見出される建設的な要素を受け入れています。しかし、文化と福音の出会いは単なる表面的な適応ではありません。むしろそれは、真の文化的な価値の内奥からの変革であり、それらの価値をキリスト教の中に統合し、異なった文化にキリスト教を根づかせることによって行われます。福音と文化とを分離させることは、既述の悲しむべき諸問題に見られるように一つの悲劇です。したがって、諸文化を福音化するための惜しみない努力が必要です。これらの文化は、福音に出会うことによって、新しいいのちを与えられるでしょう。もちろん、この出会いは、福音が間違いなくのべ伝えられることを前提としています。教会は、第2バチカン公会議に啓発されて、解放への限りない努力を喚起するために、文化に福音をもたらす責務に全力をつくしたいと願っています。」


解放の神学派の聖職者によって、典礼は破壊されてきた
その手段として、
いつも「インカルチュレーション」が説かれた

では、日本で行われてきた典礼改革は、
その精神に合致したものだったのだろうか
「文化と福音の出会いは
 単なる表面的な適応ではありません」
そう、日本での適応は、実に表面的だった

跪く習慣は日本にはないと言うが、
日本では尊いものに対して身を低くしたではないか

日本では聖所である神社仏閣の中で行う
宗教儀式ほど荘厳なものはない
しかし、カトリックのミサは「聖」を薄れさせ 
和気あいあいムード?

イエズスの十字架による贖いの死を楽しく迎えられる?
苦難を心に刻むから、
その後に続く復活、聖霊降臨、聖体は
大きな喜びとなるのであって
苦難の受け止め方と、喜びとは比例しているのでは?

典礼改革に携わる方々は、
境内などで行われている祭事と混同しているのでは?

それとも、ミサを形骸化させることが狙いですか???

「文化」という時、日本においては
精神性とは切り離せないものだった
そして、その精神性を形で表してきた

日本で、柔道、剣道は 礼で始り、礼で終わる

少々愚痴っぽくなるが、インカルチュレーションを説きながら
昨今、礼儀をわきまえぬ聖職者が増えてきた

祭服の下にはアミクツスをして平服の襟元を覆うものであるが
いきなり祭服を着用という姿もちらほら・・・

学生時代、服装の乱れは
すべての乱れに通ずると厳しく説かれたが
中高生に注意するがごとく、聖職者に注意は・・・

≪ む す び ≫
【97.「マグニフィカト」の賛歌】(全文)
「『信じたかたは本当にお幸せなことです』(ルカ1・45)。神の母マリアは、エリザベトのこのあいさつに対して、心の喜びを賛歌『マグニフィカト』に込めて答えました。神の民は、マリアのような信仰によって、マリアのような信仰のうちに、個人と社会に解放をもたらす神秘的な救いの計画を言葉で表し、生活で示すのです。マリアの賛歌はこのことを私たちに教えています。実に、信仰の光のもとでこそ、救いの歴史とは、悪からの最も根源的な解放の歴史であり、人類を神の子らの真の自由へと導く歴史であることを理解するに至るのです。マリアは、信仰に促されて、すべてその子イエズスに依存し、イエズスを目指して生きました。そして、今イエズスの傍らに座すマリアは、人類と全宇宙との自由解放の最も完全な姿を示しています。教会が自己の使命の意味を完全に理解するために仰ぎ見るべきは『母』であり『模範』であるマリアです。貧しい人々が、その信仰心から、あがないの十字架の神秘を直感し、数多くの聖所で崇敬されている神の子の母に揺るぎない愛と信頼を寄せるのは、まさに驚くべきことです。」

【98.神の民の「信仰心」】(抜粋)
「『マグニフィカト』の乙女のうちに次第に実現していったあの救いの計画を深く黙想することを通じ、貧しい人々の信仰を浮き彫りにし、それを生活に生かすように助けることは、教会の大切な役割で、神学者たちに期待されていることです。このように、教会が記憶にとどめている『マグニフィカト』を忠実に反映する自由と解放の神学ならば、それは現代が求めているものです。しかし、民衆の信仰心の持つ力を取り上げ、単なる地上的な解放計画へと誤誘導するとしたら、それは罪悪になってしまいますし、それが幻想にすぎず、新しいかたちの隷属の原因となることは目に見えています。こんなふうに、世間の主義主張やいわゆる暴力必要論に屈する人々は、もはや、マリアがうたった慈しみの神への賛歌の中で強調されているような希望、その希望の持つ大胆さや勇気に対して信頼を置かないことになります。」


解放の神学派司祭、正平協司祭が、いつもマリア様を
ただの人間呼ばわりする理由が
ここにあるのではないだろうか?
聖母信心をカトリック内でありながら、
マリア教、聖母崇拝といって糾弾し、
信心業を妨害し、集う信者を排斥した

童貞聖マリアを貶めるのに余念がなかった
司祭を二人知っている
それは前述の釜が崎の有名人、フランシスコ会本田哲郎神父と
イエズス会スペイン人司祭ホアン・マシア神父
そして、最後に笑ってしまったのが、
この教書を翻訳した人である
翻訳の仕事を依頼され、いくら恣意的に翻訳しても 
覆い隠せなかったほどに、
現教皇ベネディクト16世の教理聖省長官時代の言葉は明確だ

この翻訳依頼をされた方は、聖なる仕事によって
回心の実りを期待されたのであろうか・・・

しかし、悪魔の誘惑は強く
福音書の伝統的解釈から外れた説教、
童貞聖マリアへの冒とくは繰り返されている

コメント

教会の雰囲気が変わったのはバチカン2以後

教会の雰囲気が変わったのはバチカン2以後ですね。今でもバチカン2以前のミサをしている教会(日本には残念ながらないみたいですが。)にいくと Holy 聖 を感じさせます。 そのような教会は造りも違っていて、ステンド グラス、聖人たちの像、祭壇の造りも違います。 ヨーロッパの古い教会、または、日本でも 1960年以前に建てられて、その後バチカン2の改築を行っていない教会などと同じです。 YOU TUBE にたくさんの Latin Missa  のビデオがありますので、Latin Mass で Search するとよいでしょう。 私も3年ほど前より Latin Mass のみに行っています。 一度 Latin Mass に行くと 普通のミサは耐え難くなってきます。 

No title

ところで 日本語で言いにくい場合などは、ラテン語で祈るのが一番よいでしょう。 私も祈りはすべて ラテン語でしています。 アメリカ用に英語、日本用に日本語と一つずつ覚えるよりも カトリック教会の共通語である、ラテン語で祈る。 ラテン語の祈りは全世界で通じる。 ラテン語の発音は ローマ字 読みの発音と同じ、もともと ローマ という名前がついているように 古代 ローマの言語 = ラテン語 
Youtube などにたくさん ラテン語の祈りがあるのでそれを聞いて、ローマ字読むをすれば、それでいい。 それに比べると英語の発音は難しく、スペルと発音の違いがある。
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Author:maggie tonton
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