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聖座

「自由の自覚」から見えたもの ?

≪教会の社会教説 ― 解放を目指すキリスト者の実践 ― ≫

【75.社会構造に対する人格の優位】(抜粋)
「教会は、社会が直面する問題が複雑であり、適切な解決を見出すのが困難であることを当然知っています。にもかかわらず、本当に人間のためになる経済、社会の変革を達成しなければならないとすれば、まず、個人の精神的、道徳的な力に訴え、内的回心を繰り返す必要を説くことから始めるべきだと考えます。・・・
他方、個人の自由と回心を優先しても、決して不正な社会構造の変革の必要性がなくなるわけではありません。したがって、富者や政治権力者の責任で抑圧されている人々が、道徳的に妥当な手段を使って、自分たちの権利が真に認められるような社会構造や制度を守るために行動を取ったとしても、それは完全に正当なことです。・・・
さらに、解放の過程において、その国の歴史的状況を抜きにして考えたり、また、その国民が持つ文化の独自性を攻撃したりできません。したがって、ある人たちが、力や世論の操作によって国家機構を管理し、その国民が持つ文化にそぐわない借りものの思想を不正に押しつけるならば、そのような人たちを消極的にでも支持できませんし、積極的に支持できるわけがありません。この点に関して、知識人には倫理的、政治的に重い責任があることを付言しなければなりません
。」

まず、教会(聖職者)がすべきことは、すべての判断が、
福音に照らし合わせてできるように
信者の心を福音で満たすこと

信者に変化を求める時、
ショック療法のような荒立った言葉ではなく
キリストの愛に触れて、満たされて、
イエズスのように変容されるのでは?

「ある人たちが、力や世論の操作によって国家機構を管理し、
その国民が持つ文化にそぐわない借りものの思想を
不正に押しつけるならば」

これを、読んだ時、ある活動がすぐに頭に浮かんだ
現在、カトリックがキリスト教諸団体とともに行っている
「部落解放」の活動

これがキリストにつながれたものなら、
地上的な自由だけではな
救いと希望をもたらすもののはず

しかし、現実は解放「闘争」に終始し、
恐怖と憎しみに満ち満ちている

そして、日本古来の神社神道と結びつけ、
天皇制廃止を声高に叫ぶ

これは、日本に布教されて間もない頃の誤り、
神社仏閣の焼き討ちを彷彿とさせる

私たちの使命は、その人々に福音を伝えることにあるので
神社仏閣に集う方々に 
少しでもキリストの風を注ぐことではないだろうか

そのために、諸宗教の対話があるのでは・・・

【77.正義のための闘い】(全文)
「教会は、労働者の権利と正当な利益を守るため、あるいは社会正義のために闘う組合のような団体の設立と活動を推奨しますが、それだからと言って、社会生活の構造的な変革を階級闘争に求めるような理論を認めているわけではありません。教会が認めているのはある階級が他の階級を敵として抹殺するために闘争することではありません。教会は、いわゆる歴史の法則と称するものを誤認して、そこから論を始めるようなことはしません。教会が勧めるのは、むしろ正義と社会的連帯とのための気高く理路整然とした闘いです。キリスト者なら常に対話と協調という路線を選ぶでしょう。キリストは私たちに敵を愛するようお命じになりました。したがって、福音の精神に基づく解放は、敵に対する憎しみを含めて、個人であれ集団であれ他者を憎むことと相容れません。」


日本において、欧州的な階級はあるのだろうか?
現在、貧富の差が開いてきたが、
それは階級闘争になりうるものではないのでは?

私たちの教会に目をやると、経済的に貧しい信徒は、
富める者に尊敬を
富める者は、他の人々に惜しみなく愛を
しかし、その中で富める者を
冷やかな視線で見る人たちが・・・

彼らの頭には、富める者は悪辣なことをして
蓄財との固定観念があるようだ
しかし、自分の才能と環境を大切に、ひたむきに働き、
贅沢をせずに今の財を築いてきた人が教会には多い
勤勉、誠実、清貧の実りとしての富もある

要はそれをどのように使うかだと思う
富を増やすことに執着するのか 
それを使って神の国の実現に奉仕するか

教会は憎み合うことを教える場ではない
互いに尊重し合い、キリストの愛で結ばれる場

【78.革命の神話】(全文)
「不正が深刻な状況のもとでは、抜本的な改革を行い、不正な特権を廃止する勇気が必要とされます。しかし、改革ではなく革命という神話を好む人々は、より人間らしい社会をつくるのには悪い状況を取り去ればよいのだという幻想を増大させるだけでなく、全体主義政権の樹立を助けてしまいます。正義の要請にかなう新しい政治社会体制の確立を目指すのでなければ、不正に対する闘いは無意味です。すでにこの新しい体制の確立の各段階に正義が現れなければなりません。手段にも道徳性が問われます。」


中米で、革命聖職者が、政治家と化した
どうして、委ねられる人を養成しなかったのか
そして高位聖職者が、一時聖職を解かれて、
国の指導者の地位に就いた
しかし、何年もたたないうちに、
倫理から外れた話が伝わってきた

彼は、聖職を解かれても、
祈らなくていいというわけではなかったはずだ

元々祈りのない、汚れたところは、
悪魔はあまり魅力を感じず
聖なる者が祈りを忘れた?離れた時、
悪魔にとって小躍りする時となる

【79.最後の手段】(全文)
「既述の諸原理は次のような極限の場合に特に適用されなければなりません。教会教導職が、個人の基本的人権と公益に重大な侵害となる明白な長期独裁に終止符を打つための最後の手段として認める武装闘争の場合です。このような場合でも、武装手段の採用は厳密な状況分析を経て 初めて考えられるものです。暴力の技術が絶え間なく開発され、その使用が重大な危険をはらんでいるゆえに、今日『消極的抵抗』と呼ばれる行為は、確かに、道徳の諸原理により適合し、少なからず、成功への見通しを持つ一つの方法を示唆しています。一般市民を対象とする報復行為、拷問、テロ、民衆のデモで死者を出す原因となるような計画的挑発行為、これらの犯罪は、公権力によってなされようと反対勢力によってなされようと、断じて認めるわけにはいきません。人を心理的あるいは精神的に殺しかねない忌まわしい中傷合戦も同様です。」


教会は、完全に武装闘争を否定するのではない

しかし、ある高位聖職者は無抵抗・非武装を説く
それに反論する信徒に
「あなたの信仰はどこにあるのか!」と糾弾する

私たちにとって問題の解決手段で最も尊いのは対話である

しかし、通用しない相手もいる 
自国の民の命を顧みない独裁者
彼らに屈することは、
即 信教の自由など微塵もない宗教弾圧につながる

【80.信徒の役割】(抜粋)
「政治機構や組織への直接介入は、教会の司牧者のすることではありません。この役割は、一般市民と共に自主的に行動するという信徒の使命の要件です。信徒は、この務めを果たすに当たって、教会の目的がキリストの国を広げることであるという事実に留意しなければなりません。教会はすべての人が救われ、それによって、世がキリストに支配されることを目指しています。・・・
教会の一員であると同時に自分の属する国の国民である信徒は、それぞれの場でいつもキリスト者としての良心に従わなければなりません。社会で行動する時、多くの具体的な手段の中から、いつも、公益を目指し、福音のことばと教会の教えにかなうものを選ぶべきです。・・・
教会の社会教説は、必要不可欠ならば専門的、学問的技能を取り入れることを推奨すべきだと教えます。また、この教説は、道徳面での人格形成や精神面の深まりを求めることを促すでしょう。さらに、この教説は、諸原理を示し、諸勧告を与えますが、だからと言って、人事の機微に必要な政治的分別を培うことを免除するものではありません。


私たちは、日本国民として法律を順守する義務がある
法律は、秩序ある生活を送るために必要なものだから

しかし、そこからこぼれ落ちる者もいる
その時、私たちに求められるのは、闘争だろうか

正平協派は、それを構造的悪として糾弾し、闘争姿勢

どんな社会においても完全ではなく、ひずみは生じる

ゆえに、キリスト者として 
こぼれ落ちる人をつなぎとめる役割が
法律を無視するのではなく、
法律や秩序の中に生活できるように
苦心することが問われているように思える
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