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聖座

「自由の自覚」から見えたもの ?

≪自由に召された人間と罪の悲劇≫

【30.人間の自由な選択】(抜粋)
「人間は、良心に刻みつけられ、聖霊からの働きかけとして受ける神の定めを守ることによって、自分自身の支配者となり、神の子としての高貴な使命を実現します。『神に仕えることによって人間は地上をつかさどります』。真正な自由が『正義への奉仕』であるのに対して、不従順と悪を選択することは『罪の奴隷』となることです。」

【31.地上での解放と自由】(抜粋)
「解放への過程で得られるものは、自由を実際に行使するためのより良い条件作りに過ぎません。自由のために闘うその人の自由を考慮に入れないような解放ならば敗北は目に見えています。」


彼らの活動は独善的
活動できる者にのみ 価値を見出す
これは、何となくアウシュビッツ収容所の看板を思い出す

人はそれぞれに、自分の置かれた状況において、
活動するもので、自由への活動は、
強制されるべきものではない

祈りも大きな活動であるということに
価値を見いだせない人たち


≪解放をもたらす教会の使命≫

【63.救いの告知】(抜粋)
「キリストの使命を受け継ぐ教会の本質的な使命は、福音をのべ伝え、救いをもたらすことです。教会はそのための熱意を神の愛からくみ取ります。福音宣教とは、救いを神のたまものとしてのべ伝えることです。人間は、神のことばと秘跡を通して、第一に自分を抑圧する罪の力と悪なる者の力から解放され、神との愛の交わりへと導かれます。教会は『罪びとを救うためにこの世に来られた』主に従って、すべての人の救いを望みます。・・・
ところで、教会にとって、神のいのちにあずかる恵みをすべての人と分かち合うように促すその愛は、同時に、信者たちの実践を通して、この世で真の福祉を追求し、困っている人々を助け、教育にかかわり、人間個々の発展を妨げるすべてのものからの全面的な解放を促進するのです。教会は、人間が、まず何よりも神の国の一員として、それから地上の国の一員として、あらゆる点で幸福になるよう望みます
。」

「教会の使命は福音をのべ伝え、救いをもたらすこと」は、
軽んじられ、「キリスト教でなくても何でもいい。
神はすべての人を救うのだから」との言葉を教会で 
何回聞いたことだろう

教会で行われてきた福祉活動に線を引き、
福祉活動よりも、その根源である社会変革こそ
意味があると説く

私たちは、福祉活動を通して、
キリストの愛を実践して証しし、
救いのご計画に参与することができた

社会変革を迫る道具となるための、
闘争のための活動になってしまった

私たちの活動は、キリストと結ばれ、
それにより愛がほとばしり
キリストの考えたように、愛したように、
行ったように・・・ではなかったのか

【65.地上の現実と福音】(抜粋)
「教会は自己の使命に忠実だからこそ、故意にであろうと怠慢によってであろうと 神不在の社会生活形態を作ろうとするならば、それに反対するのです。教会は事故の使命に忠実だからこそ、福音に反し、人間自身にも背く理論や行動原理にしたがって貧困と抑圧に闘いを挑む政治的な運動に対して独自の判断を下すのです。」

【68.貧しい人々を優先する愛】(抜粋)
「教会の設立の当初から、かれらの救済、擁護、解放のための働きは絶えたことがありません。・・・
教会はまた、貧しい人々を愛することによって人間の尊厳をあかしします。教会の明白な主張は、人間の価値が、何を持っているかよりも、何であるかによって決まるということです。人がどんなに貧しく、どんなに軽蔑され、排斥されても、あるいは無力な状況におかれたとしても、人間としての尊厳は破壊されないということ事実を証言します。教会は精神的にも時には物理的にも社会から排斥され、社会の一員として扱われない人々と連帯します。・・・
貧しい人々を特に優先することは、神の恵みがある特定の人に限られているとする説、あるいは派閥主義のしるしであるどころか、むしろ、教会とその使命の普遍性を示しています。貧しい人々を優先するからといって誰をも排除するわけではありません。まさにこの理由で、教会は、こうした優先を、社会学的範疇や特定の思想の範疇を用いて表現できないと考えるのです。この優先を党派的な選択や闘争の原理に格下げすることになりかねないからです。」


ホームレス支援で有名な司祭は、
 「神の国は、毎週教会に行っている
 あなたたちにあるんじゃない!
 釜が崎の人たちこそが神の国に入れるんだ!」と

これこそ 排除ではないだろうか

神の国に入る人を選ぶ(裁く)のは、ただ一人神のみ

それなのに、この言葉は、自分が神にとって代わって
裁きを行っているのではないだろうか

教会に求められているのは、排斥することではなく、
敵対するものを、つなぎ合わせることなのではないだろうか

【70.神学的な考慮】(全文)
「経験の貴さでいえば、特殊な体験を神学的な考察に発展させることは、それまで十分に把握されていなかった、神のことばの諸側面や豊かさを浮き彫りにする限り、積極的な意味を持ち得ます。しかし、この考察が本当の聖書読解となり、神のことばに元来含まれていない意味を投影してしまわないためには、神学者は、自分が出発点とする経験を教会の経験に照らして 注意深く解釈しなければなりません。ここでいう教会の経験とは、聖人たちの生涯の中で透明な光を放つものです。個人の経験が教会の経験と合致するかどうかを識別する役割を有するのは、ペトロの後継者と一致している司教たちです。」


最近の聖職者は、説教台から
 「キリストは、社会変革をするために、
 革命家としてこの世に来られた」 と、説き、
イエズスを闘争の師とし、信徒を闘争へと誘う

 「クリスマスというと聖劇で、善良な羊飼いが登場しますが、
 羊飼いは当時、ならず者で、
しかし、そのような者にも福音をもたらされた」 と、説き、
子供たちの夢をぶち壊し、信徒にショック療法さながらの
意識の変革を求める

ならず者を肯定? 
まさか 隣国のならず者国家等を指す??
貧しい、虐げられている人に福音を告げ、希望をもたらし
罪に傾く弱い私たちを救うため、罪のあがない主として
お生まれくださったって、教会は、教えるのではなかった?

逸脱のあるところに、真理はない!
神の真理をより深く悟るために、教会の長い歴史があるのでは?
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