スポンサー広告

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

聖座

「自由の自覚」から見えたもの ?

少し前、解放の神学に対するバチカンの姿勢は
どうなのか質問があり、もう何年も前に否定され
ブラジルの解放の神学派の司教方は
引退と共に正統派に入れ替え、10年ほどを要して
正常な形に戻ったことだけは知っていたが
理論的なものには、アバウトにしか捉えていなかったことを
少々反省し 資料を探した

教皇庁教理省「自由の自覚」
― キリスト者の自由と解放に関する教書 ―

書いたのは、現教皇、当時の教理聖省長官の
ヨゼフ・ラッチンガー枢機卿

≪はじめに≫

【1.本教書の目的】(抜粋)
「本教書は、この主題の理論と実践の主要点を指摘するにとどめます。地域の状況に即した本書の適用は各国の教会に任されています。それぞれの状況に対して直接の配慮をすることは、相互に一致し、使徒座との一致を保つ各国の教会の役割だからです。」

  
これを日本で実践するのが、
〔使徒座との一致を保つ〕
日本の司教団の役割ということですね

【3.私たちを解放する真理】(抜粋)
「キリストはその十字架と復活によって私たちをあがなわれました。このあがないこそ、最も完全な意味での解放です。
最も根源的な悪である罪と死の力とから私たちを解放したからです。教会は、主キリストに教えられて父なる神に向かって『悪より救いたまえ』と祈りながら、救いの奥義が私たちの日常生活に力を及ぼすように求めます。…」


キリスト教の追い求める「解放」は、悪・罪からの解放なんですね


≪近代における解放への過程の成果と危険≫ (一部要約)

ルターもまた、聖パウロについての独自の解釈に基づいて、
律法のくびきからの解放のために闘おうとし、
かれにとって代表的な律法のくびきである
当時の教会と闘おうとした。 


ルターも解放の神学シンパの方々も、同じですね
使徒座(権威)を律法のくびきと見て、
権威を否定するのですから。     

しかしなかでも、自由への呼び声が最大になったのは
啓蒙時代とフランス革命においてで
その時以来、多くの人々は未来を
解放への歩みとみなすようになった。

近代の解放運動は政治的、社会的目標を掲げた。
それは、人間が人間を支配することに終止符を打ち、
すべての人たちの間に平等と兄弟愛を
促進することだった。

奴隷制度の廃止、男女平等の法律、
すべての市民の政治への参加と権利の平等を認めた。
人種差別は、法と正義に反するものとして否定された。

人権の確立は、すべての人間の尊厳に対する自覚が
より明確になった。

個人主義思想は、自由の主体は、
自分だけであり、この世の富を享受して 
個人的欲求を満足させることにある。
産業社会の初めから富の不平等な分配を強め、
搾取が起こり、それに対して、
貧困からの解放を求める強力な運動は、
ここから生まれた。

多くのキリスト者は、労働者の正当な権利が
相応に認められるように闘い
教会教導職もこれを支持した発言をしている。

他方、労働運動の正当な要求も
新しい隷属関係を生み出した。
人間の超越的使命を無視し、
人間を現世的価値観からしか捉えなかった。

この要求は往々にして集団主義的な目標を目指し、
自分たちが排除しようとした不正と同じく
酷い不正を生み出した。

科学技術が飛躍的に進歩するに従って
もたらしたもの
全体主義体制や圧政のさまざまな形態
民族抹殺や少数者のテロ活動などに使われ
個人管理などの潜在的脅威
社会の束縛からの解放を麻薬に求め
世界中の若者の自己破壊と 家族の悲しみと苦悩

力のある国とない国ができ、
国家間にも不平等と抑圧の関係ができた
自国の利益だけを求め、
貧しい国は武器輸入によって内部均衡は乱され、
支配と分裂を生み出した

植民地から独立した若い国々は、
犠牲を払い独立したものの、
人権を顧みない政権や独裁者の支配下で、
解放運動が生まれた。

それは民衆の意識の覚醒であり、
長年、貧しさに耐え続けた民衆が、
尊厳と正義のある生を求め、
自分たちの自由のために闘おうとした。

現代人は内面の解放として、
思いや望みの欲求を無制限に自由にしようとして、
倫理が不合理な制限であるとみなしてしまった。

さらに、人間を特に疎外するのは神そのもので
神を肯定することと人間の自由を肯定することとは
根本的に相容れない
神への信仰を捨てることによって、
人間は真に自由になると主張した。


【19.苦悩に満ちた問題】
「人間は、道徳律から逃れ、神から独立しようとすれば、自らの自由を得るどころか、それを破壊してしまいます。真理の物差しから逃れれば、独断のわなに陥り、人々の間の兄弟関係が破壊され、恐怖、憎しみ、不安がそれにとって代わります。人間の条件や自由についての致命的な誤りに汚染され、そこに深く根ざした現代の解放運動は両刃の剣です。真の自由を約束すると同時に、死の屈従への脅威をも含んでいます。」


これは私たちの教会では顕著に表れた
正平協派聖職者や正平協支持者の
物の見方がすべてで、他の意見は封殺され
信者間に不協和音が発生し、
それは疎外へとつながった

教会はキリストと一体になり 聖霊に満たされ 
心の平安を取り戻す場から
疎外されることへの恐怖・不安、憤りの場に変容した

≪神の民の生活体験と自由≫
【20.教会と自由】(全文)
「解放運動に伴うこの致命的な両義性に気づいていた教会は、幾世紀にもわたって、教導職を通じて、解放への熱意を苦い幻滅に終わらせやすい逸脱に対して警告を発し続けましたが、往々にして誤解されてきました。しかし、時がたつにつれて、教会の見方に対するより正当な評価が可能になりました。教会は、神の似姿につくられた人間の真理に訴えて発言してきました。しかし、教会は解放への道の障害になったと非難されています。教会の位階制度は平等に反すると言われ、教導職は思想の自由に反するとも言われています。長い歴史の中で、キリスト者が責めを負うべき重大な怠慢や判断の誤りがあったことは認めざるを得ませんが、これらの非難は事の本質を軽視しています。神の民に与えられた奉仕のカリスマの中に違いがあることは人間として等しい尊厳を有することにも、共に聖性に召されていることにも反しません。思想の自由はあらゆる知的分野において真理を探求するための必須条件です。キリストが教会に与えられた啓示の光があれば、理性の働きは不要だということではありません。神からつくられた理性は、神の真理に心を開くことによって開花と完成を体験します。理性の開花と完成はすばらしい姿なのです。ちなみに、第二バチカン公会議は、科学の正当な自主自律を完全に認め、それは政治活動の自主自律と同等だと言っています。」


正平協派の人々は、教会の救いの歴史を口にすることなく
中世における腐敗ばかりを話題にし、
「教皇」を批判する

権威を否定し、平等意識ばかりが大手を振る
私たちの神の民としての平等は、
それぞれの召命に応えることの平等ではないのか
私たちは、神から創造されたものとして、
神へのそれぞれの召命に応じて
環境、才能、性格などをいただいている
コメント
コメントフォーム













管理者にだけ表示を許可する

プロフィール

maggie tonton

Author:maggie tonton
FC2ブログへようこそ!

QRコード
QRコード

Page Top
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。