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カトリック新聞から

旧日本軍の関与の有無が不明!

先週、カトリック新聞オンラインに
下記の記事が掲載されているのを発見しました

旧日本軍に殺された司教、列福へ一歩前進

April 11, 2013

第2次世界大戦中に中国で旧日本軍に殺されたとされる司教ら9人の列福運動がオランダで進んでいる。

9人はフランス・シュラーヴェン司教(聖ビンセンシオの宣教会/オランダ人)と、主に同会のクロアチア、フランス、オランダ、ポーランド、スロバキア出身者。司祭、修道士、信徒がおり、厳律シトー会(トラピスト)の神父1人も含まれる。

オランダ・ルールモント(Roermond)教区のフランス・ウェルツ(Frans Wiertz)司教は3月23日、列福の可能性を調べるための特別委員会(裁判所)を、ドイツ国境近くのパンニンゲンにある聖ビンセンシオの宣教会聖ヨセフの家に設置した。

ルールモント教区はこれから約半年の予定で調査を進め、その結果をローマに送ることになる。

9人のうちトマス・チェスカ神父(聖ビンセンシオの宣教会)は、第2代の新潟知牧区長、アントン・チェスカ神父(1877~1941年/神言修道会)の兄に当たる。

2012年10月13日と14日にはオランダで殉教75周年を記念する式典があり、日本からも深水正勝神父(東京教区)が参列した。深水神父はミサ中、日本カトリック司教協議会会長の池長潤大司教の書簡を代読。日本による事件への謝罪の意を示し、列福運動のために祈ることを伝えた。

欧州に残る資料によると、9人は1937年10月9日、中国・河北(ホーペイ)省の正定(チョンティン)に入った日本軍が、教会施設にいた避難民の中から200人の女性(少女を含む)を引き渡すよう求めたことに抵抗したため、目隠しされて首にロープを巻かれ、トラックで約300メートル離れた仏塔近くに連行された。

殉教から1カ月後の11月19日、カトリック信徒の横山彦真少佐(後の中佐)率いる日本軍の「宣撫班」が現地入りした。後の大阪教区大司教で枢機卿にもなった田口芳五郎神父(当時は東京教区)も同行している。

田口神父は訪問の様子を「日本カトリック新聞」(カトリック新聞の前身)や「カトリック画報」で詳しく報告しているが、9人の死については触れていない。

ところが欧州側の資料では、横山少佐は殉教した9人のために天津の司教を招いて同年11月22日、正定で追悼のミサをささげている。田口神父は司式者の補佐をし、日本軍関係者約30人(うち高官が3人)も参列。日本軍幹部の弔電も届き、聖堂で読まれたという。

なお中国の正定教区は現在、地下教会(中国政府が認めない教会)の強い地域として知られている。


http://www.cathoshin.com/2013/04/11/schrave/


驚きでした

何が起きたのか・・・

問い合わせをしようと思っていたら
西村真悟さんのブログに
次の記事が掲載されました


今度はカトリック新聞、捏造と闘おう

 まことに憂慮すべき捏造が、カトリック新聞オンラインに掲載され、カトリック信者のネットワークを通じて、まず、世界の全カトリック信者とカトリックの総本山であるバチカンが、「日本人は残虐な世界の敵」だと認識し、次にそこから世界の全キリスト教徒さらに無数の良識のある人々が、「日本人は異常な残虐性をもつ敵」だと思いかねない事態が進行している。
 世界のキリスト教信者は二十二億人であり、そのうちカトリック信者は十一億六六〇〇万人であり、良識ある人々はそれこそ無数である。
 
 これは、今までの中国と朝鮮・韓国による、南京大虐殺と従軍慰安婦の捏造による反日プロパガンダに加えて、
 日本人は西洋人の聖職者も殺戮していた人類の文明に対する敵だという強烈なプロパガンダを可能にする捏造である。

 このことは、祖国日本を愛する女性(自衛隊佐官)から戴いた手紙によって、靖国神社の参拝を終えた本日朝、教えていただいた。彼女は、知人から、カトリック新聞に気になる記事が掲載されていると指摘され、知るところとなった。
 彼女の了解を得ていないが、一刻も速く、諸兄姉に知っていただきたいと思い、ここに記すことにする。

1(文献1)、
April 11、2013(2013年4月11日)「カトリック新聞オンライン」
 
 見出しは、
「旧日本軍に殺された司教、列福へ一歩前進」
そして、
 「2012年10月に行われた殉教75周年記念式典で、日本からのメッセージを代読する深水正勝神父(手前)」との説明をつけたオランダでの追悼ミサの写真が掲載されている。

 記事の内容は以下の通り
 
 昭和12年10月に河北省のカトリック施設に日本軍が来て、施設内の200名の女性を引き渡すよう要求し、それを拒否したオランダ人司教以下9名の宣教師を殺害した。
 後日、日本軍の宣撫班のカトリック信者の将校がやってきて、追悼式を実施し、日本軍も参加した。
 昨年2012年10月に日本カトリック司教協議会から派遣された司教が、当時の日本の行為を謝罪した。

2(文献2)、
 1937年11月12日、26日の
 「Catholic Herald」
  1937年11月23日の
 「The New York Tims」 

 彼女は、カトリック新聞オンラインが伝える事件の日付けから当時の「Catholic Herald」と「The New York Tims」の記事を調べた。
 すると、全く逆の次の事実が報道されていた!


 9人のオランダ人聖職者達は、中国の山賊に誘拐され身代金5万ドルを要求された。日本軍は付近の地域一帯を徹底的に捜索して山賊を追い司教を救出しようとし、地元自警団2000人も日本軍に協力したが、誘拐された聖職者は山賊に殺されていた。


 この(資料2)の報道は、当時為されたものであり真実であろう。しかも、事件から七十六年後の(資料1)の記事の奇妙な点も解決する。
 この奇妙な点とは、日本軍将校が殺害された司教の追悼式を実施し日本軍も参加した、という点だ。
 つまり、司教を殺害したのは中国の山賊であり、司教を救出しようとして懸命に付近を捜索したのは日本軍である。従って、日本軍が追悼式を実施しそれに日本軍が参加したのである。
 これが真実だ。
 司教を虐殺したのは中国人である。
 またしてもそれを日本人が為したと捏造され世界に流布されようとしている。誰が捏造しているのか。
 とにかく、この明々白々の捏造を反転攻勢の梃子にして我が日本民族への侮辱を一挙に払拭しなければならない。

http://www.n-shingo.com/cgibin/msgboard/msgboard.cgi?page=846

私は、カトリック新聞購読者です

私たちはどちらを信じればいいのでしょうか?

西村真悟さんは、カトリック信者であり
国会議員であり、信頼に足る人物と思います

ショッキングな記事・・・・
それとは正反対の記事・・・・

カトリックの信仰のもとに
心の平安を得たいと願う信者は
心を痛めるばかりです

カトリック新聞から

四旬節メッセージから学ぶもの

もうすぐ聖週間を迎えます

前教皇様の『2013年 四旬節メッセージ』
http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/lent/13lent.htm
「愛を信じることが、愛を呼び覚ますのです」
「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています」(一ヨハネ4・16)

上記のメッセージについて
カトリック新聞2013年2月17日第4182号に
解説された記事がありました
よく理解するために助けとなるものですので
抜粋・編集して掲載したいと思います

真正の信仰は
  愛のわざ伴う


信仰と愛のわざは決して、互いに分かつことも、敵対させることもできず、まさに、信仰自体が愛のわざを伴わなければ真正とは言えない、と教皇は指摘している。 
「信仰とは、真理を知り、それに忠実であることです。愛のわざは、真理のうちに『歩むこと』です」
「信仰は愛のわざがその頂点にあって初めて真正なものとなります」

「信仰が優先されるべき、ゆるぎないものであることを強調するあまり、具体的な愛のわざを評価せず、ほとんど軽蔑し、人道主義のようなものとしてしまうのはあまりにも偏った考え方です」と教皇は書いている。
 それと同時に、「愛と愛のわざの卓越性を強調するあまり、その愛のわざが信仰に取って代われるかのように考えるのも、同様に有益ではありません」とも述べている。

 教皇メッセージを公表する記者会見を主宰した教皇庁開発援助促進評議会議長のロベール・サラ枢機卿によると、教皇メッセージが強調しているのは、信仰を抽象的で知的な営みと捉え、愛のわざを教会の具体的または実践的側面と捉えるか、両者の一方に重きを置こうとする考え方は誤っているということだという。

 教会内外の多くの人にとって、教会は実世界とはかけ離れていると考える方が都合がいいようだと同枢機卿は語る。そうした人々にとっての教会は、「ろうそくの芳香に酔いしれ、香部屋内の整備に忙しく、実際にキリストが語り掛けられた人間についてよりも、むしろ曖昧な神学論争や聖職者間の口論に明け暮れている」ように見えている、と枢機卿は説明している。
 もう一つの誤った見方は、教会の通常の慈善団体と同じように捉え、社会正義や人々の物理的な必要に応えることが第一の関心事で、「人々の核心にある神への渇望を忘れてしまっている」と考えることだと同枢機卿は指摘した。

「愛に動かされる」キリスト者の生活

 教皇メッセージのテーマ「愛を信じることが、愛を呼び覚ますのです」は一ヨハネの手紙(4・16)の「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています」からとられた。
 教皇のメッセージは、「信仰年」にあって、自らの2005年発表の回勅『神は愛』でも扱った信仰と愛のわざの関係について説いている。
 全てのキリスト者、特に援助団体で働く人には信仰が求められ、それは、キリストのうちに神と個人的に出会い、キリストの愛を体験することで得られる、と教皇は指摘する。「キリスト者とは、キリストの愛によって捕えられ、その愛に動かされる人です」
 キリスト者の生活は、神からの信仰のたまものを「感嘆と感謝のうちに」受け入れることによって始まるが、その後も続く信仰の旅路で、神は「わたしたちを根底から変え」、よりキリストに似た者として、その愛を隣人と分かち合えるようにしてくださろうと努めておられる、と教皇は書いている。




日本にキリスト教が伝来し、
長崎を中心に栄えた頃
信徒たちは「ミゼリコルディア」という組織のもと
病院や孤児・老人のための施設などを創り
日本の福祉事業の草分けとなりました

宣教師によってキリストと出会い
信仰する中で湧き出る愛に突き動かされ
愛のわざとして、弱者に奉仕し
キリストの愛を他者と分かち合いました

明治維新後、キリスト教解禁となり
多くの宣教師・修道女が渡来し
各地で学校や孤児の施設などを開きました

そして現代も病院をはじめ
家庭環境に恵まれない子供、
障害のある人、高齢者など
社会的弱者のための福祉施設を運営しています

祈りのうちに個人的なキリストとの出会いを体験し
愛の衝動によって、他者への愛のわざとなります

ですから、各教会(小教区)においても
さまざまな福祉活動が行われています

ホームレスへの炊き出し
病者訪問
発展途上国の子供たちへの募金等々

でも、昔と違って、何かが足りないのです

指摘されているように、
教会は慈善団体の作業場と化してしまい
聖堂で聖体訪問をすることもなく
作業場に直行して作業し、
終わるとそのまま帰る・・・

祈りが軽んじられるにつれ
自己満足の危険性が強まり
愛のわざというよりも
機械的に作業して手早く終える・・・

しかし、いろいろと問題は抱えながらも
それは不完全な人間としての
「愛のわざ」であることは
間違いないのです

ある時、教会の福祉活動を
「あれは偽善だから、私は参加しない」と
切り捨てた信徒がいました

参加しないのは各自の自由ですが
他の信徒の活動を『偽善』と切り捨てては
いけないと思います

各人がどれほどの思いを
キリストへの愛を、他者への愛をこめているか
他人にはわからないのですから

活動をしていてもいろんな疑問を抱きます
ホームレスへの炊き出しといっても
夜間パトロールの際、手渡すおにぎりは
確実にホームレスの方々に届きますが
公園横での炊き出しでは
集まられるのは多くが元ホームレスの方々です

ホームレスを卒業して
生活保護を受けておられる方々が多いのです
本来ならば、炊き出しなど
必要のないはずの方々です

でも、人間的弱さから後先考えずに
食費分も使ってしまうのです

ただの甘やかしにしか
見えないかもしれません

しかし、私たちは
『餓死寸前の人を救えるかもしれない』
『一人でも立ち直ってくれれば・・・』
との願いを込めて奉仕するのです

たとえ、それが集まった中で
何か月、何年に
たった一人であったとしても・・・

ただ、食事さえ用意すればいいのでしょうか?

キリストとの出会いは、
奉仕するボランティアの姿を通して
ということだけでよいのでしょうか?
みことばを宣べ伝えなくていいのでしょうか?

彼らは何によって救われるのでしょうか?

そんな疑問を抱きながらも
社会活動委員会の方針に従っての
奉仕なのですが・・・

カトリック新聞から

友人からの宿題

神戸市立博物館前
         神戸市立博物館前にて

先日、久しぶりに
全国各地のカトリックの友人たちと一緒に
神戸市立博物館で催されていた
池長コレクションの美術展に鑑賞に行きました。

フランシスコ・ザビエル像
聖フランシスコ・ザビエル像

南蛮屏風
南蛮屏風(桃山時代)

泰西王侯騎馬図
泰西王侯騎馬図屏風


これは、池長大司教様のお父様が
私財をなげうって集められた大コレクションで
後年、それらの美術品の散逸を避けるために
南蛮美術館の建物ごと、
神戸市に寄贈されたものです。

私は中学生時代から、登下校の際、
その南蛮美術館の前を
バスの中から数え切れないほど見てきたのですが
南蛮美術館に入ったことは
残念ながらありませんでした。

その素晴らしい美術品の数々に圧倒された後、
中華料理店にて食事をしたのですが
ここでは、信仰について
現在の教会についてなどなど
意見交換をしました。

その少し前に、友人たちとのメール交換の際
脱原発について、
教皇様も支持をされているらしいということを
何気なく書いたのですが
友人から、どこに書いてあったかを尋ねられました。

私も、確かな文章で把握していたわけではなく
うろ覚えの内容だったので即答できず
これは宿題ということで持ち帰りました。

その後、いろんな文書に混ざって
積み上げていたカトリック新聞を整理しつつ
探してはみたのですが、見当たらず、
カトリック中央協議会のHPにもなく
バチカン放送局HPにも見当たらず・・・
何気なく「ローマ法王」「脱原発」で
検索をしたところ、ヒットしました。

天皇陛下とローマ法王の脱原発発言  
 天皇陛下は政治的影響などに配慮し発言を控えてこられたのだろう。一方、海の向こうのバチカンでは、昨年6月の時点でローマ法王が原発をめぐって踏み込んだ発言をしている。
 当時、筆者は「原発推進の是非を問う国民投票」を取材するためイタリアに滞在していた。法王は「人類に危険を及ぼさないエネルギーを開発することが政治の役割だ」と述べ、自然エネルギーへの転換を促したのである。
 筆者はバチカン市内で土産物品店の経営者などにインタビューした。市民はみな冷静に受け止めていた。「法王はもともと原発推進派だったが、福島原発の事故を受けて脱原発にスタンスを変えた」というのが市民の一致した見方だった。法王にとっても原発事故はそれほど衝撃的だったのだ。
 法王の「脱原発発言」から3日後に原発の是非を問う国民投票が行われ、「原発反対」が多数を占める結果となった。国民の9割がカトリック教徒のイタリアで法王の「脱原発発言」が国民に与えた影響は小さくなかった。
(該当部分のみ抜粋)
http://tanakaryusaku.jp/2012/03/0003879


ここから、教皇様のご発言は6月9日と判明したものの
カトリック中央協議会HPから
ベネディクト16世の説教やお言葉集を探しても見当たらず、
再度、カトリック新聞を・・・

発見しました。

カトリック新聞2011年6月19日号
教皇、環境保護呼び掛け
―人類に危険のない新しい生活様式を―

【バチカン6月9日CNS】
 教皇ベネティクト16世は6月9日、バチカンで開かれたシリアなど7力国の新任駐バチカン大使との謁見で、教会の環境保護への懸念を強調し、特に人間のいのちと尊厳の擁護にかかわる問題だと指摘した。
 教皇は、全世界が自然に対する見方を変え、ただ資源を利用する対象としてではなく、地球を、尊重と思いやりを保証する家と見なす必要がある、と語った。
 人類は早急に「人類と自然の和合を尊重する」新たな生活様式を選ぶ必要があり、「さもなければ、人類家族は絶滅の危機にひんすることになる」と、教皇は呼び掛けている。
 ことし前半に起きた多数の自然災害とその規模を受けて、全世界の国々が立ち上がり、人間のいのちを守る務めを果たしつつ、人間は「科学技術に支配され、その対象にされては」ならないことを認識するべきだ、と教皇は強調する。
 世界の諸国は「ヒューマン・エコロジー」(人類生態学)を最優先に考えるべきだ、と教皇は指摘している。環境を尊重し、創造を守る研究や実践を支持しつつ、人類を危険にさらさない生活様式を選ぶことが、政治・経済の優先課題になるべきだ、と教皇は語った。
 科学技術があまりにも長い間、優位に立ってきたため、人間が物扱いされ、世界に「自己欺まんと不幸」がもたらされた、と教皇は続けた。科学技術は確かな道徳律に導かれ、全人類家族の幸福を目標とする神の計画に従って、自然の繁栄を助けるために利用されるべきだ、と教皇は付け加えた。


はっきりとした言葉で
「脱原発」とは仰っていないものの
このメッセージは、日本司教協議会のメッセージ
「いますぐ原発の廃止を」に
結びついたものと理解できました。

特に「人類を危険にさらさない生活様式を選ぶこと」というのは
司教団のメッセージにも倫理的選択として
求められていました。

カトリック新聞から

聖霊は聖書解釈にも霊感与え続けている

保守的なカトリック信徒から
あまり評判のよろしくないカトリック新聞ですが
結構、素晴らしい記事もあります。

私のブログで、少しそれらを紹介して
皆さんにも分かち合い
ご理解いただければと思います。


教皇ベネディクト16世
聖霊は聖書解釈にも霊感与え続けている


【バチカン4月20日CNS】
聖書の本文は確定しているが、聖書の著者に霊感を与えた聖霊は今も、教会での聖書の朗読や解釈に霊感を与え続けている、と教皇ベネディクト16世は指摘した。
カトリック教会による聖書理解が時を経て発展しているのは、聖霊による導きや、神学的考察と研究、祈りと教えに負うところが大きい、と教皇は、教皇庁教理省聖書委員会のメンバーに宛てたメッセージで語った。
 同委員会は4月16日から20日まで、バチカンで総会を開き、「聖書における霊感と真理」についての討議と研究を重ねた。
 最後の使徒の死によって、啓示の行為そのものは終わったが、「啓示されたみことばは、教会の生きた伝統によって、朗読され、解釈され続けています。このため、聖書のテキストのうちに確定している神のみことばは、教会内の不動の書物ではなく、その信仰の最高の規範となります」と教皇は強調している。
 教皇は、聖霊の霊感によって聖書が書かれたことを認めない限り、誰も真に聖書を理解することはできないと指摘した。
 ただし、教皇自身が昨年、同聖書委員会に語ったように、「ある一節または表現に推定を加えるというような機械的な方法によって、霊感あるいは絶対的な真理の基準を用いることはできません」とも語った。
 カトリック教会の目から見れば、聖書全体が真理であり、人々の聖書に対する理解は、「聖霊の支えによって」進歩し、「信者による考察と研究、霊的生活の個人的な体験、司教たちによる教えによって発展するのです」と教皇は指摘した。


私は朗読奉仕をする際、
下手な朗読でも
皆さんに、み言葉が聞き取りやすく
届きますようにと祈ります。

当然、練習はするのですが
自分の力だけに頼るのではなく
聖霊の助けを祈ります。


また、聖書を読むとき
神様が私たちに語りかけてくださっているもの
教え導いてくださっているものを
感じとりたいと願っています。

史的イエズスも大切でしょうが
私は聖書学者ではないので
細かいことばかりに目を留めるのではなく
大きく、神様が教えてくださっている規範
そして神の愛を感じ取りたいと願っています。

先日、友人から相談を受けました。

黙想はどうすればいい?・・・

私は専門家でもなく
偉そうなことは言えないのですが
経験からお話ししました。

黙想するときに、大きな助けになるのは
聖書だと思っています。

私の場合は、特に詩編など
詩的に書かれた旧約の書です。

何気なく開いたその頁を静かに読んでいると
その時の自分に必要な聖句が
心に響いてきます。

聖霊によって
そこから、神の存在を感じ取れるのです。


この記事を読んで
ひととき、聖書と聖霊について
思いを巡らすことができました。
プロフィール

maggie tonton

Author:maggie tonton
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