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教会生活

主のご降誕



主のご降誕おめでとうございます!

主がみどり子としてお生まれになったこと

それは、私たちがいくら感謝しても感謝しつくせない
神様の限りない愛があります

この日のミサには何よりも天使ミサ曲が似合います

荘厳なミサを 小教区に取り戻す日を夢見て
主のはしためとして働きます

今日の典礼については、日を改めて書きます

グロリア グロリア

教会生活

葬儀ミサで・・・

友人のご主人の葬儀で、R教会に行った
もう20年以上前に、聖歌隊の先輩メンバーの結婚式で行った時と
あまりにも様変わりしていて驚いた

さすが、ドーム型聖堂に躍起になっている修道会だけあるなと感じた

会衆席側は、内装に木を使って温かみがあるのに
聖域の正面の壁は、安っぽい外壁コンクリート板?
グレーの安っぽい溝のついた壁が全面に広がる
その無機質感が、殺伐とした感じ

昔の聖堂を知っているだけに、ため息がでた

で、葬儀ミサが始まる前に、ご案内があって
最初から最後まで椅子に座ったままでとのこと
『でも、どこかで立つよね・・・』との期待は見事に裏切られた

入祭も座ったままで、司祭も信者も皆、平等って感じ?
ここには礼儀というものがないのね

福音朗読も座ったまま・・・もしかして主キリストとも平等なの?(汗)

奉献文に・・・ああ、ピクリとも動かない・・・(涙)

司祭が「祈りましょう」と言うたびに立ちあがりそうになる
落ち着かない・・・

第2バチカン精神は会衆もともにミサに参画するんじゃなかった?
でも、これって、観衆として、ショーを見ている感じ!

「神の栄光と賛美のため、また全教会と私たち自身のために
  司祭の手を通してお捧げするいけにえをお受けください」って
沈黙に換えることができるとあるけど

必殺技! 沈黙もないーー!(唖然)

すぐに次の祈りに入る・・・これじゃ心の中で唱えることもできない
よほど、この修道会はこの祈りをさせたくないんだね
そんなにこの奉献の祈りを信徒にさせたくないの???

うちの司祭のへんてこな主張の原点を感じた

典礼文から「裁き」「いけにえ」「罪」を排除
オリエンス宗教研究所の共同祈願文も却下され
これらの言葉が出ない文を作って、代えられていた

私たちの地区はR教会をお手本にするような傾向がある
でも、この葬儀ミサに与って、
いくら司祭が威風堂々とミサをされようと
R教会典礼がどこを向いているかに問題があると思った

信者ではない参列者に配慮して
内容的に、主のあがないに敬意を持ってふさわしく祝えないなら
ミサ聖祭は長いだけの意味のないものとなってしまう

私たちが敬虔に祈る姿を見て
信者でない参列者は、神聖な祭儀ということを感じ取るのではないだろうか

信者ではない参列者に合わせて、
敬虔に心をこめて神に向かう姿勢を取らないことは
一時の物見草に終わってしまう可能性さえある

私たちが立ったり座ったり跪いたりすることに対して
「形式主義」と批判するけども
座ったままを強制することは、形式主義にはならないの?

形にとらわれないと言うのなら、姿勢の指示などせずに
会衆の好きにさせていればいいんじゃないの?
そうすれば、違和感なしに常に取っている姿勢で祈ることができ
変に思い煩うことがないのに・・・

ちなみに、うちの教会では
「祭儀中、立ったり座ったりのご案内をしますが
皆様は体調などに合わせて、お座りいただいていて結構です」
と、式次第に書き、口頭で案内もする

実に居心地の悪い葬儀ミサだった

やはり、立ったり、跪いたりは、祈りに潜心させてくれる
姿勢など関係なく、祈れればいいんだけど
ついつい心が散ってしまう弱い私には
姿勢は大きな要素なんだよね~~(涙)


うちでは、結婚式でも葬儀でも、ストラだけでカズラはお召しにならない
如何にも手抜きだが、その色はどちらも白だ
白ということは、神のみもとにあげられた喜びを示している?
ふ~~~ん、煉獄は無いんだ・・・皆、聖人だったんだね~~

R教会では、紫の祭服カズラをお召しだった
悲しみの色、これは納得!
故人のために祈らなきゃ!って感じになるよね

「裁き」や「罪」の言葉を排除して
「今は神のみもとに憩う」と繰り返しても
天国直行ではないことを、信者は知ってるよね?

教会生活

聖職者教?聖職者狂?

カトリック教会には、聖職者に異議を唱えられない空気がある

ヒエラルキーによるそれぞれの召命と職務が
はっきりと分かれているからでもある

以前は聖なる司祭のために祈ったものだった
 
願わくは日々
御身の尊き御体に触るる司祭の手を潔く保ち給え
御身の尊き御血に染まるくちびるを
汚れなく護り給え


私の知っている若手司祭は、ミサも週休2日とし、一般労働者化?

神の招きに応えて 全生涯を神にささげた方だから尊い
神によって聖なるしるしを受けた司祭だから尊い

でも、司祭本人がその尊さを嫌い
世間のぬるま湯とけがれに どっぷりと浸っている
聖なる秘跡を軽んじる張本人でもある

最近の日本でのカトリックの教理は、酷く歪み
高位聖職者の信仰姿勢が その周りの司祭にも影響を及ぼす

もう、何回聞いたことだろう
聖体はミサの中でこそ値打ちがある
聖櫃の聖体に祈っても意味がない

これはもうカトリックとは言えない
もうプロテスタントと変わらない

儀式書にも、ベネディクション(聖体降福式または聖体賛美式)がち少し大きい文字ゃんとあるのに
病者にご聖体を運ぶ時、聖櫃に安置しているご聖体を運ぶのに・・・
全く、支離滅裂!

そして、どんどんと典礼破壊、教義の無視、聖書曲解が進む

私が今の教会に戻った頃、あまりにも違和感を覚え
霊的指導司祭に相談したことがあった

カトリック儀式書「成人のキリスト教入信式」を使うのか
ミサ前に確認した際、
「儀式書通りにしたことがない 自分の言葉でやりたい
 自分たちで儀式を作りたかったのに」
と、突然言われたことがあった ミサの10分前に

『うわぁ~、今頃、何?どういう風にするの?』と思いつつ
私が「えーっ?!」と聞こえよがしに牽制したのが 功を奏したのか?
「あ、うん、儀式書とおりにするから」と、事なきを得た

その話をした時
「これからも、儀式書をしっかりと読んで
有効な秘跡であるか確認しなさい
もし、有効性に問題があるなら、教区長に報告する義務がある」
とアドバイスを受けた

これはある意味、ショックだった
秘跡を執り行う使命を受けた司祭を・・・
「秘跡の有効性」を信者が確認しなくてはならない時代なのか (涙)

それから、儀式書を必死で事前に読みこみ
儀式全体の流れをイメージにして頭に叩き込み
儀式に与るようになった

ミサの5分ほど前に到着される司祭と
打ち合わせをするのは至難の業
特別な儀式が入ると特に打ち合わせが必要となるのに・・・・・(汗)

こんなに秘跡を軽視して
政治活動にばかりうつつを抜かす司祭ってどう?

でも、ず~っと前に、彼の口から聞いたことがあるんだ

「何を偉そうに! 私がしてやらなかったら
 自分たちではミサは出来ないんだぞ!」

はいはいはい、あなたはご立派な司祭様でございます

お願いだから、そう思っているのなら、変な敬語使わないでほしい
自分が如何にも謙遜そうに・・・

あの敬語?丁寧語?を聞く度に思う

謙遜な司祭に酔っている?自己満足?って。

教会生活

傷ついた教会へのメッセージ

今日は、フランス人のご高齢司祭の司式のミサ

久しぶりに、説教らしい説教を伺えた

第1朗読で民数記が読まれ
「預言」について書かれていた

そこから「預言」について説き始められた


「預言」は、先のことをいう「予言」とは違います。
「預言」は神様からくるもので、神様の思いを示し、賛美します。

私たちは皆、預言者にならなくてはならない。
神様から示されたように生活し、神様のことを伝え、
神様のことを賛美しなくてはなりません。

私は虹が好きです。
虹はいろんな色が集まって、虹になっています。

聖堂に入ってきて、合掌して祈る人もいれば、頭を下げて祈る人もいます。
これは自由です。
その人がいいと思う祈り方をすればいいです。

人間は神様からいろんなタレント(賜物)をいただいています。
一人一人違っています。
だから、みんないろんな考え方があります。

いろんな考え方があることを認め合いましょう。
教会で、人に考え方を押し付けることはよくありません。
相手の考え方を大切にしましょう。

皆さんは預言者です。

神様から教えられたことを、みんなが、いろんな方法で生活し、
他の人に神様を示して、神様を賛美しましょう。


上記は説教の要旨だが、実際には もっともっと熱く語りかけられた
腰痛に苦しむ神父様が、20分以上にわたって語りかけられた

今日の説教は、瀕死状態にある 我が教会のために準備されたのだと思う

教会に政治活動が入り
信仰の場、祈りの場というより 活動拠点に変わった

司祭は説教の度にアメリカ批判をし、憲法9条の話をした
説教壇から教皇様、バチカン批判、無視の説教を何度も行った

司祭から信者に声をかけることは皆無に近かった

司牧らしきものには関心がないらしく
9条の会や部落問題には入たく熱心だった

その司祭のもと、ピース9メンバーは外向きにばかり活動をし、
教会内の、活動に参加できない高齢者は疎外され、孤独感を深めた

司祭や役員の心ない言動に、非キリスト者の家族までが傷つき
籍を移した人、教会を離れた人が続出した

苦言を呈してきた信徒はうとまれ、ことごとく否定され
私を含め、他の評議員までもが教会から距離をおいた

ようやく、教区長の耳にはいり
以前、我が教会の主任だった外国人司祭が
協力司祭として入ることになった

そのような、傷つき、分裂状態になった教会に
高齢司祭は語りかけてくださったと思う



虹のように、各色が互いの色を殺すことなく
互いを活かし合い
まとまって、美しい虹になって
神様を賛美してほしいとのメッセージ

教会生活

柔軟性があったんだ~

キ リ ス ト の 聖 体 の 祭 日 に

≪K神父様の今日の説教≫(要約)

この一年、大阪教区ではいろんなことが続き、
新型インフルエンザでミサも中止になり、
これで最後だと思っていたら、また問題が起きました。

皆さんもご存じのように、
聖トマス大学が少子化の影響もあって、学生が集まらず、
学生の募集を停止しました。
教区立の唯一の学校で、このままだと4年後には無くなるわけで、
何とかどこかの大学が引き取ってくれないかなと思います。

新型インフルエンザでは、大阪教区では4回文書を出しました。
1回目は事前に予防策で、
2回目はインフルエンザ患者発生に伴って、ミサの中止を、
3回目は、感染に気をつけながら、ミサを再開しようと言うことで、
皆さんはマスクをして、自分が感染するのを避けるためというよりは、
もし自分が罹っていたとき、
他の人に移すのを避けるためにしていたと思います。
今週、4回目の文書で、聖水も元に戻りました。
以前と同じようになりました。
ただ、両形態に関しては、もう少し待ってください。

中には、「私はどうしても口で受けたいのにどうしていけないんだ」と
苦情がかなり寄せられたんです。

これも、どうしてもというわけではないんですよ。
司祭同士では、列の最後尾に並んでもらったら、
他の人に迷惑をかけずに授けられるから、
そうしようということになっていたんです。

でも、私が行ってる教会で、
いつも口で拝領する人が列の真ん中くらいに並んでいて、
『困ったな~』っと思っていたら、前に来たら、
「聖体ではなく祝福をお願いします」と言うんですよ。

私もあまのじゃくでね。
そのまま、祝福してたらいいのかもしれないけど、
それでは、寂しいでしょ。
で、「口に授けます」って言って、授けたんです。

せっかく、こうやって皆が集まって共に祈って、
イエス様が私たちのために死んでくださったことを記念して
「これは私の体である。これを記念として行いなさい」
といってイエス様の体をいただけるのに、
拝領しないのは寂しいでしょ。

聖体拝領するとき
「ありがたい!ありがたい!お恵みをいただける!」
って拝領するんでしょうが、それだけではなく
イエス様からしっかりと覚悟をするように
求められているんだと思います。

それから、この教会では、キリストの聖体の祝日に
本来なら両形態の拝領がされてきたと思うんですが
今週、司教さんの会議があって
そこで、信者がカリスの御血に聖体を浸して拝領するやり方は
禁止されることになると思います。

インフルエンザのフェーズ6になったことですし
両形態は、今日は我慢してもらって、もう少し落ち着いてから、
今度の機会にしたいと思います。

   *******       *******

聖トマス大学
今の信者にとって聖トマスと言えば
復活したイエズスの傷に指で触れないと信じないと言ったトマス

聖トマス・アクイナスを思い浮かべる人って少数派
聖人伝が廃れ、聖パウロ書店でも
昔、あったグロリア文庫は廃版となり
聖書以外の聖人なら、5人ほどくらいしか知らない今の世に

そして、ほとんどが非キリスト者の国で
聖トマス大学のネーミングは無理があった
英知大学で良かったのに

何よりも問題なのは、他文化共生という学部に改編したこと
以前のように、神学とスペイン語学科などの語学に力を入れて
新しい学部なら、時代が求める看護学部をつくれば
シスター高木の死を受け止める心の問題や
松本信愛神父様のパストラル・ケアなどの専門分野も
キリスト教的特色として しっかりと花咲いたはずであった
せっかく、ガラシア病院もあるのに

中国人留学生を大量に受け入れしたのでは
日本人は敬遠するばかりである
自分の首を自分で絞めたとしかいいようがない

私たちは傍観者でいられるが、母校を失う方々は気の毒だ

ところで、信者の心を思いやってくださるK神父様を敬愛している
中には、俗っぽいとか 偏っているとか評価されるが
この偏っているというのは
政治的と言うより、小さな人一人一人にかかわって
いろんな思いが積み重なったものだと思うから

あの俗っぽさ?は、
神学校時代に百瀬神父の教えを受け、傾倒すると
神秘をそこそこにして、単純化しやすいから・・・

しかし、この半年、説教が変わった
信仰に関することを、優しく語りかけ、説いてくださる

服装も、常時タオルを掛けているのから
ローマンカラーに変わられた

もうすぐ、始まる「司祭年」

教区司祭もアルスの聖なる司祭ヨハネ・ヴィアンネのような
霊性と献身が求められている

そのために必要なのは祈り!祈り!

務めの「教会の祈り」だけでなく
み言葉から黙想・念祷・観想へとつながっていただきたい

秘跡を中心にした生活を送っていただきたい

信心でしっかりと肉付けしていただきたい

口先だけで祈るのではなく、
主と語らい、一つに結ばれていただきたい

そのために、私たちは司祭のための祈りを捧げよう!


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