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異端?

カール・ラーナー ?

おそらく教会とその霊性のうちには、この点で今日私たちが全然考えていないような幾多の可能性があるだろう。世俗社会の領域で、まだ全然実現されていないような(だからといってマルキシズム的社会主義者となる必要はない)人々の社会化という課題が私たちに伝えられているように、たぶん教会においても、高度な霊的社会性の諸形態が可能になるかもしれない。その形態は、私たちの反省する意識にとってはまだ十分に知られていないものであり、また私たちがすでに知っていて、しばしば悩まされてさえいるような教会の相互のコミュニケーションの諸形態をも純化することができるようなものであろう。そのうえさらに十分考えられるのは、私たちもまた相互のコミュニケーションと教会的共同生活(たとえば典礼において、また教会のしきたりにおいて)のあり方をおろそかにし、また委縮させていたということである。たしかに私たちは、それらのことを伝統の側から知っていた。ところが真に兄弟的なコミュニケーションにとってのその意義という点では、そのあり方を見くびっていたのだ。

彼らは、「実現されていないような人々の社会化」
という言葉を持ってくる
そしてそれは「マルキシズム的社会主義者となる必要はない」
と断るのは、目指すものが、
それに似た社会主義(共産主義)だからであろう

「高度な霊的社会性の諸形態」と
思わせぶりに甘い誘惑を仕掛ける

彼らが言う委縮させ、
おろそかにしてきた教会的共同生活のあり方とは、
神聖な荘厳ミサにおける聖体の秘跡での
神との一致という「典礼」
ヒエラルキーに忠実な牧者と信徒という「教会のしきたり」か?

彼らの言う「真に兄弟的なコミュニケーション」とは、
首位権など関係ない
皆が同権のそして教役者も信徒もない交わりなのか?
プロテスタント的集まりか?
はたまた活動主体の集まりであろうか?

この19世紀の個人主義的メンタリティーは、広く教会の中においてさえも、当然のことのようにあったのであるが、たとえ私たちが教会の中で本当に霊的な社会主義者なるつもりはなくとも、私たちはそのメンタリティーに恒久的な妥当性と持続性とが約束されているということはできまい。

この言い回し、もうお気づきであろうか?
「たとえ私たちが教会の中で本当に
 霊的な社会主義者なるつもりはなくとも」
という言葉は、別に必要ではないのに、あえて使い
「霊的社会主義者」を善きものとして印象付けている

今日でも近代的教会の様式で、自分と自分のキリスト教的使命とを、できるだけ孤立して処理する人は、どうしても自分を変える必要はないであろうが、そういう人は少なくとも他人に対しては、それとは別な、霊的な点でもより兄弟的な生活様式の場を認めてやるべきなのである。

信仰には各々にあった形があり、認め合うべきものである
が、それは、教会の教えに適っている場合だ

「孤立して処理する人」よりも
「兄弟的な生活様式」(集団)が
反カトリック的な存在ならば、たちが悪く
容認などできないのである

普通のキリスト者の生活を見ると、キリスト者の正常の道徳意識においては、誰かが隣人に何ひとつ不正を加えず、またその隣人が誰かに正当に求めうる事柄の要求を満たしたならば、彼は隣人を愛したのだ、という考えが優勢であるように見える。しかしながら実際にはキリスト教的隣人愛という「掟」は、その神への愛とひとつになっていて、利己主義の粉砕を要求しているのであり、また隣人愛とはいっても根本に追いては、人間相互の主張の分別ある調整であり、ただ協調のうちにやり取りすることだけを要求しているのだという観念の克服を要求しているのである。

彼はカトリックでの隣人愛の受け止め方を
矮小化している

「優勢であるように見える」のではなく、
それは最低限を指している

彼は、隣人愛を
「神への愛とひとつになっていて」とよく使う

だが、私は思う
神への愛からあふれ出たものが隣人愛だと

ひとつであって ひとつではない
なぜなら、無神論者も人間愛(隣人愛)を示す

私たちキリスト者の隣人愛は、
神への愛の実りといってもいいと思う

彼は、神への愛と隣人愛ゆえに
利己主義の粉砕を要求する
だが、そうだろうか?

神への愛の成熟によって、
利己主義を脱却していくのではないか

私たちが求めるのは利己主義の粉砕ではなく
信仰の成熟、そしてその実りとしての隣人愛だと思う

神への愛と隣人への愛がひとつであることが本当に理解されるならば、そのとき隣人愛は、その局限された、制御しうる成果という点で個別的な要求というその位置から、全面的な生活実践の地位に移っていく。全面的な生活実践においては、私たちは全体として全面的に要求されているのであり、また過大な要求をされているのであるが、しかしながら、このようにしてまたそのようにしてだけ、自分自身から解放されているというあり方の最高の自由が勝ちとられるのである。

ここで、解放の神学の土台が現れたと思う

彼らの言う隣人愛は、
個別的な要求から全面的な生活実践に移り
全体として全面的に要求される

彼らのいう攻撃的な隣人愛は、
「自分自身から解放されているというあり方の
最高の自由が勝ちとられる」のだそうだ

その際私たちが、隣人愛と兄弟愛とを、根本においては同じことを意味している二つの語として解するならば、また人の心をその最大の課題から免除してくれるような客観的行為の要請としての兄弟愛という語が、隣人愛という語よりも誤解されることが少ないという理由から、兄弟愛という語のほうを好んでそういうならば、そのときは、神への愛と必然的に一つになった兄弟愛という語によって、人間全体とキリスト教の使命の全体が言い表されている、と冷静に言うことができよう。

彼はイエズス会員だから、
このような受け取り方をするのかもしれないが
アシジの聖フランシスコを愛する者として
このような「兄弟愛」なるものには抵抗がある
いや、はっきり言って不愉快だ

「隣人」よりも「兄弟」の方が関係は濃いわけで
「隣人愛」なる言葉は使っても
「兄弟愛」などとは普通は使わない
「神への愛」ゆえに兄弟となり
「兄弟」という言葉には、すでに愛が充満しているからだ

彼らは、ここで兄弟愛という言葉を使うことよって
ますますもって強制力のあるものと
しているのではないだろうか

そして「神への愛と必然的に一つになった兄弟愛」は
「人間全体とキリスト教の使命の全体が言い表されている」

キリスト教の使命は、福音をすべての人に伝えて
ともに神を賛美し、イエス・キリストの救いに
ともにあずかることだったのでは?

ここでは、攻撃的隣人愛=兄弟愛が
人間全体とキリスト教の使命ということになり
おそらく、ここから、
「社会の改革者」イエス・キリストというとらえ方が
出てくるのではないだろうか

異端?

カール・ラーナー ?

ここで、危険な書き方が登場する

それどころか今もって、そうした現代的世界教会をめざす教会の、その発展の中で、それに逆行する動きの危険と兆候(キザシ)とが存続しているのである。来るべき新しい教会法は、全世界に対するローマ的教会法となるおそれがある。ローマでは個々の偉大な教会における(ラテンアメリカ、東アジア、アフリカでの)主導力、真に土着化されたキリスト教という彼らに固有の新しい使命、あるいはまた、ある新たな社会政治的責任という使命を考え、実現することは、鼓舞されるよりもかえって抑制されているかに見える。

おそらく、ここから解放の神学しかり
ホアン・マシア神父のバチカン否定?
(敵視に近い)が生まれたのだと思った

まず、ローマ的教会法とはどういうものか
カトリック新教会法典を持っているが
それぞれの召命に応じた責務が書かれていている

個人的に言うなら、もっと細かく、厳しく
罰則を設けてほしいと思うくらい寛大である

ヒエラルキー(位階制度)による教会法を否定しては
秩序もなく、各々の召命、使命も
あやふやになるのではないのか

半年ほど前に、こんなことを司祭から聞き、
わが耳を疑った

現在、どんな離婚であろうと
信者と未信者だけでなく、信者同士の秘跡であっても
教会での離婚の申請をすると
教区の教会法担当司祭がそれなりの理由をつけて
「結婚の無効」の申請をしてくれると言うのだ

さらに、こんなことも聞いた
いろんなケースに応じてパターン化してあって
こういう場合には、この申請理由で・・・と

これは、教会法の乱用としか思えない

こういう場合、ホアン・マシア神父は言うだろう

「教会法なんて気にしなくていいです
 キリストとつながっていることが大事です」と

願わくは、これが大阪教区だけであってほしい

本文に戻るが
ここでは、社会政治的責任という言い方で
教会の誰に向けて
どのような取り組み方とも書かれていない

教皇様の活動を見るとき、和解の仲介者となり
絶対的悪(人権弾圧・虐待行為や難民の飢餓など)に
対してはつよく注意喚起を呼び掛けておられる

政治家に対しては、それを解消するための努力を
信徒に対しても、各々、活動を模索し実行することを

これは、実際的な活動については
信徒に対して求められていると
解釈されるべきものである

たとえどんなに奇異に思われようとも、教会の俗的状況である世界の統一から生じる結果は、教会内の大規模な多様性である。というのは、まさにこの多様性が、全キリスト者と個々のすべての教会の兄弟的同権を実現するからである。かつてはどうしても避けられなかったかもしれない教会のヨーロッパ的一体性は、世界教会の真の一体性に対して道をゆずらなければならない。ところでこの一致は、兄弟的意向なるものが家父長的な尊大さをかざすことなく、教会の全成員に真に同権を認めるときにだけ実現可能なのである。

この多様性をそれぞれの国で実践するのは
結構なことであるが、今の時代、移動信徒が増え
国籍の異なる信徒が一つのミサに集う

その際、兄弟的同権を主張するならば
各国語で各国民族性豊かな聖歌を
使用しなければならなくなる

ベトナム語、ハングル、英語、スペイン語
ポルトガル語、フランス語・・・
しかし、これら全てを満たすことは不可能であり
少数の国民はカヤの外に置かれる

このような言葉の壁や、民族性などを乗り越えるためにも
ラテン語を使うことは有意義なのではないか

これはヨーロッパ的一体性でなく
カトリック的一体性なのである
それこそ、世界教会の真の一体性と言えるものだ

兄弟的意向なるものが家父長的な尊大さをかざすことなく
教会の全成員に真に同権・・・


これらの言葉にはヒエラルキー(位階制度)への抵抗と
植民地後遺症的視点からの地域の見方があるようだ

各地域で、宣教会などの西欧人聖職者が
高位聖職者を独占しているわけでもなく
現地人の聖職者が充実し、ふさわしい聖職者が出た段階で
高位聖職者に叙階されていっている

彼の心配はあたらない
現教皇様をはじめ、代々の教皇様も
家父長的「愛」をもって、
教会の全成員に等しく一致を呼びかけられ
そして教会外の人々にも
神の造られた大切な命としていとおしんで
呼びかけておられるのだ

異端?

カール・ラーナー ?

以前にいただいたRickさんのご要望に応えるべく
カール・ラーナー著作本を探した

「キリスト教とは何か」
―現代カトリック神学基礎論―
百瀬文晃訳  

これは、辞典並みに分厚い本で、小さな字でびっしりと・・・
弱った目と神経が拒絶反応 

「あなたの兄弟とは誰か」
宮沢みどり訳(八王子聖クララ会修道女)

本も新書サイズで薄くて、字も大きいので、これに決定 !

最初に断っておきますが
私、哲学の素養もなく、
ただただ感性派の人間ゆえ
少しばかりの要理知識と
霊的指導司祭から褒められた神学的?センスのアンテナでチャレンジ!


≪あなたの兄弟とは誰か≫

カール・ラーナーに、日本の正平協的な自虐的思考を見た
まぁ、ヨーロッパの植民地支配は酷いことは酷かったけども
それを、教会の宣教やあり方に当てはめて
西欧文化の押し付けと切り捨てるのは如何なものか

西欧文化といっているものの中には、キリスト教文化があるのであって
何でもかんでも否定すればいいってもんじゃない

彼、こんな風に書いている
 
16世紀以降のヨーロッパ植民地主義の動きの中で教会は、事実上世界宣教の使命を引き受けた。しかしながら教会は私たちの時代に至るまで、無邪気にも、またやむをえずキリスト教を世界にもたらそうとしたけれども、多少とも(理論的にではなくとも実践的に)ヨーロッパの輸出品目として伝達して来たキリスト教だったのである。それでもヨーロッ以外の他の国々の兄弟たちは、不本意ながら、家庭における未成年者のように子供扱いされてきた。私たちは彼らにラテン語で神学を教え、ラテン的典礼を授け、日本では彼らのためにネオ・ゴティックの教会を建て、彼らにヨーロッパの聖歌を唱わせ、彼らのためにヨーロッパ人の司教を与え、あるいはヨーロッパの尺度に従ってその地の司教をローマで選出した。
ところで今日、あらゆる同胞に対して、ひとつの人類という同権と成熟さを認めようとする時代にあっては、教会はもはや全世界に輸出する西欧的キリスト教的な輸出物を伴ったヨーロッパの教会のままとどまっていてはならない。


このように、西欧的な部分を否定するのは、
教会の歩んできた歴史を否定するもののように思える

神のみ摂理の中で、ある時は迷走しながらも立ち返り、
成熟しながら歩んできた教会である

ところがである
全否定はせず、こういうことも書いている  

それだからといって教会の一体性、世界中どこででもユダヤ―西欧的起源に由来しているという事実、ローマにその中心があることは否定されたり、不分明になったりする必要はないのである。

それなら、西欧で熟成された歴史あるキリスト文化を
否定することはない

次に、第2バチカン公会議について 
世界教会の使命と実現を書いているが
この「世界教会」なる言葉もおかしい!
教会はただ一つ、一なる公教会でいいのではないか

神学はもはや単に19世紀と20世紀前半の ネオ・スコラティックの神学にとどまってはいなかった。全世界に対する教会特有の言語としてのラテン語の廃止(撤廃ではない)によって、典礼における多様性への道が原則的に開かれた。・・・・・
しかしながら、一なる教会におけるすべての人の兄弟の同権をめざすとすれば、そしてまた西欧の優位性の解消をめざすとすれば、なすべきことがまだたくさんある。


これは明らかに解釈のあやまりであろう
ラテン語の廃止などではなく、各国語の採用なのであって
ラテン語は維持されるべきものである

現に、今もローマ・ミサ典礼の原典はラテン語である
ラテン語は、何よりもカトリック文化の中心にあるもので
世界共通語となるものだ

また多様性であって、破壊ではない
多様性という時、日本では特に、
過去のものの放棄を盛んにしているが
多様性とは、いろんなものの価値を
大切にすることから始まる
排除ではなく、受容なのである

信仰の遺産を切り捨てることがあってはならないのである

グレゴリアン、カトリック聖歌集などを
排斥しようとすると
フォークやゴスペルを対立関係に追いやることになる

それらは、聖霊に導かれ、
その人間のタレントを使って作られたものなら
存在は認めあうべきものである

その時代にあって生まれたものを尊重し、存在を認め
その上で、良いものは残り、不出来なものは淘汰される

長い年月、受け継がれてきたものは
それだけ、価値あるものなのである

問題は、使い方ということになる

今日、日本の教会で行われていることは
その典礼の意味を考えず、
目新しいものに飛びつく破壊的行為なのだ
プロフィール

maggie tonton

Author:maggie tonton
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